恋なんて無縁だと思っていたあの夏。
 私は、名前も知らないその人に、恋をした。

 渡辺由花は、放課後になると河川敷に行くのが日課になっていた。
 家に帰ると両親の怒鳴り声が煩わしい。父が仕事を辞めてから、家族は壊れてしまった。父は酒を浴びるように飲み、母は小言を言うようになった。
 そこからは悪口の応酬だ。よくそんな言葉を家族に浴びせられるなといっそ感心するような、そして娘がどう思うかなんて何も考えていないんだなと失望するような、そんな毎日だ。
 現実から逃げるようにしてやってきた河川敷だったが、由花はここが気に入っていた。夏の日差しは暑いけれど、太陽の光がきらきらと川に反射して綺麗だし、吹いてくる風は他の場所よりも少しだけ涼しい。
 河川敷には、いつも先客がいた。同じ場所、同じ時間にいるその人は、隣の高校の制服を着ていて、赤本を持っているところを見るとおそらく由花よりもひとつ年上なのだろう。目鼻立ちの整ったかっこいい男の人だった。
 いつもそこで勉強するその人は、ときおり思い出したかのように川を眺め、見入っていた。私と同じだ、と勝手にシンパシーを覚えて、親近感が湧く。あの人とお話がしてみたい、そんなことをひそかに思っていた。

 由花は学校にも居場所がなかった。友達がいないわけではない。いじめられている訳でもない。ただ、由花の所属する二年三組にひどいいじめを受けている少女がいる。そのことが教室での居心地を悪くさせた。
 少女の名前は永瀬こばと。かわいらしい容姿の女の子だ。
 彼女へのいじめは突然始まった。
 由花は決していじめには加わらなかった。加害者になるのがこわかったのだ。
 正義感の強い由花は、教師に匿名でいじめがありますと報告をしたこともあった。しかし、教師からいじめに関するアンケートが配られると、いじめは悪化した。先生にチクったでしょ、といじめっ子がこばとに詰め寄り、彼女は泣きながら否定する。無理矢理髪の毛を掴み、お前じゃなければ誰が言ったんだよ、言ってみろよ、と強い言葉で責め立てられ、こばとは大粒の涙をこぼしていた。由花は自分のしたことが裏目に出てしまったと分かり、ひどくショックを受けた。

 気がつくとため息がこぼれていた。眺めていたはずの参考書はぱらぱらと風でめくれて、見たことのないページを示している。いつもこうだ。課題を終わらせようと問題集を開いても、予習を進めようと教科書を手に取っても、集中力が続かない。
 由花は気がつくといつもこばとのことを考えていた。それは、いじめられている彼女に何もしてあげられないという罪悪感からくるものだった。
「大丈夫?」
 ふいに優しい声が降ってきて、由花は顔を上げる。河川敷にいつもいる男の人が、由花にハンカチを差し出していた。
「えっ?」
「泣いてるから。何かあった?」
 指摘されて慌てて顔を触ると、確かに涙が頰を伝っていた。泣いている自覚がなかったのでびっくりして、慌てふためきながら大丈夫ですと答える。
 そして同時に、話してみたかったと思っていた相手と会話が出来ていることに気がつき、小さな感動を覚える。
「あんた、いつもここにいるよね」
「あなた、いつもここにいますよね」
 二人で見つめ合い、くすりと笑い合う。二つの声が重なったこと、そして同じことを考えていたということが面白かったのだ。
 ハンカチを受け取り、そっと涙を拭く。胸いっぱいに溢れていたやるせない気持ちは、不思議と和らいでいた。
「泣いていたのは、学校が原因?」
 他人であるはずの由花を心配する声を上げながら、彼は空を仰ぐ。つられて空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。澄み渡った空は由花の荒れた心とは大違いで、どこまでも綺麗に広がっている。
「学校も家も、嫌いなんです。私の居場所がなくて」
「ふぅん」
 自分で聞いたことなのに、男はあまり興味なさそうな声で相槌を打った。それがなんとなくショックで、由花は俯く。この河川敷が唯一の居場所だと思っていたのに、毎日ここにいる彼の反応に、それすらも否定されたような気持ちになったのだ。
 風でめくれた参考書を片手で抑えながら、由花はぽつりと呟く。
「ハンカチ、洗って返します」
「いいよ、そんなの」
「そういうわけには」
「ハンカチなんてどうでもいいけど、明日もここにおいで」
「えっ?」
 居場所がないなら作ればいいんだよ、と笑いながら言った彼に、由花は目を奪われる。はっとするほど綺麗な笑顔だったのだ。
「明日も、来ます」
 きゅっとハンカチを握りしめてそういうと、彼はやわらかく笑って、それがいいよ、と応えてくれた。

 家に帰るといつも通り両親が怒鳴り合いの喧嘩をしていた。ガシャン、と大きな音がして、母がお皿でも割ったのだろうかと他人事のように思う。
 父との会話がうまくいかないと、母はすぐ物に当たるのだ。
 由花はただいまも言わずに自分の部屋に駆け込み、ハンカチを取り出す。こっそり洗面所で手洗いをして、部屋のベランダに干した。夏なので明日の朝には乾いているだろう。朝は少し早起きをして、アイロンをかけよう。あまりやったことがないけれど、授業で使ったことがあるのでなんとなくやり方は覚えている。
 明日、楽しみだな。
 由花は久しぶりに、そんなことを思いながら、眠りについた。遠くでまだ怒鳴り声が聞こえていたけれど、今日ばかりは気にならなかった。

 永瀬こばとへのいじめはなくなる兆しが見られなかった。いじめの内容は、言葉の暴力から物へのいたずらまで多岐に及んだ。
「自分のこと、こばとって名前で呼んでるけどかわいいとでも思ってるのかな」
「こばととかいって、鳩じゃんね」
「平和の象徴?」
「いや、害悪の象徴でしょ。鳥ってふん垂れ流しだし、キモい」
 容赦ない悪口に、こばとは赤面して俯く。膝の上に握ったこぶしが、かすかに震えていた。
 名前は親からもらった宝物だから、悪く言うのは良くないよ。子どもは自分の名前を選べないのだから。
 由花はそう思ったが、声を上げる勇気はなかった。傍観者でいることしか出来ない自分に腹が立ち、ひどく歯痒い気持ちになった。
 ぽた、とこばとの目から大粒の涙がこぼれる。その瞬間、由花は罪悪感に押しつぶされそうになった。
 こばとってかわいい名前だと思うよ。
 たった一言でいいのに。その一言が、喉につかえて出てこない。
 胃の中に重石でも入ったかのように、胃がずきずきと痛んだ。
 早く放課後になればいいのに。
 誰よりもこばとが願っているであろうことを、無関係な由花も思った。

 放課後になると、教室から一番に飛び出して、由花は河川敷に向かった。借りた空色のハンカチはかわいい紙袋に入れて持ってきた。ささやかだけど、お礼のお菓子も一緒に。
 明日もおいで、と言ってくれた彼は、今日も河川敷に来ているだろうか。いつも同じ時間、同じ場所にいるから、たぶん来ているのだろう。それでもなぜかドキドキと心臓が高鳴った。
 由花が河川敷にたどり着く頃には息が上がっていた。知らず知らずのうちに小走りになっていたらしい。どれだけ楽しみにしていたのだろう、と舞い上がっている自分に少しだけ恥ずかしくなる。
 河川敷にはいつもの後ろ姿があった。学ランを脱いで、捲り上げたシャツの袖から見える腕は意外とたくましい。スポーツをやっているようには見えないけれど、元運動部だったりするんだろうか。三年生は夏には引退という部活も多いので、判断はつかなかった。
「あの!」
 後ろ姿に声をかける。思ったよりも大きな声が出てしまい、頰が熱くなる。振り向いた青年は、おかしそうに笑いながら、元気だなぁ、と呟いた。
「昨日はありがとうございました。ハンカチと、お礼のクッキーです」
「お、ありがとう。つーかあんた、座ってると分かんなかったけど、ちっちゃいな」
「…………へ?」
 唐突に言われた言葉に固まる。昨日は優しい人だと思ったのに、今の発言は明らかに失礼だ。
「小さくないです! 平均よりちょっと下なだけで」
「いや、ちょっとじゃないだろ」
 男は立ち上がって、由花と身長を比べるように、手のひらが頭のあたりをさまよう。ぺしっとその手を振り払うと、彼は楽しそうに笑ってみせた。手の大きさも全然違うことに、少しだけドキッとしたのは秘密の話だ。
「今日は来るの早かったじゃん。いつももうちょっと遅いだろ」
 もう一度草むらに腰かけながら、男が由花を見上げる。少し迷った後、由花もちょっとだけ隙間を開けて隣に座った。
「学校、居心地が悪いから」
「ああ、そんなこと言ってたな」
 学生鞄から赤本を取り出した男は、それを開くことをせずに少し黙った後、いじめられてるわけじゃないんだろ? と言った。
「えっ?」
「いじめられてるにしては持ち物が綺麗すぎる」
「あ……」
 永瀬こばとの持ち物を思い出して、言葉を飲み込む。教科書は水浸しにされ、ノートにも油性ペンで落書きされ、体操着は破られる。靴や鞄はいたずらされないようになるべく持ち歩いて、それでもちょっとした隙に標的にされてしまうのだ。
 こばとのことを思い出したら罪悪感がよみがえり、気持ちが落ち込む。何も言わなくなった由花を見て、男は首を傾げた。
「何? 物には手を出されないけど無視されてるとか、そういう感じ?」
「……違うんです。私じゃなくて」
 クラスメイトが、いじめられているんです。
 そう呟いた言葉は、消え入りそうな声をしていた。
「あんたはその感じだといじめっ子ではなさそうだけど」
「……私は、傍観者なんです。見ているだけで、声をかける優しさも、助けてあげる勇気もなくて」
 ほとんど話したこともないこの人に、私は何を話しているのだろう、と由花はぼんやり考える。それでも自然と言葉が溢れるのは、今まで我慢してきた反動なのだろうか。
 それとも、へぇ、と興味なさそうに、それでも相槌を打ってくれるこの人の優しさのおかげか。
「いいんじゃないの、別に。そんなの勇気とは呼ばないし」
 平坦な声で彼が言う。いじめられている奴を助けようとするのは、勇気ではなく無謀なのだと。
 その言葉がどこか冷たく感じて、由花は眉を下げた。
「でも……」
「あんたに必要なのは無謀さじゃなくて優しさだろ。いじめっ子がいないところででも、そいつに声をかけてやれば、もしかしたら救われる命があるかもしれないじゃん」
 命、という単語にびくっと反応してしまう。
 いじめは暴力だ。暴力を振るわれ続ければ、誰だって疲弊していく。疲れて、生きていることが嫌になって、自ら命を絶つ人だっているだろう。
 そういうニュースは見たことがあったはずなのに、身近な人で想像したことはなくて、由花は血の気が引くのが分かった。
 こばとがいじめを苦に自殺してしまったら……?
 由花は加害者ではない。それでもきっと後悔するだろう。声をかけなかったこと、助けてあげなかったことを。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるようなこと言ってないけど」
「いいんです」
 彼自身には分からなくても、由花には響くものがあったから。
 男の隣で参考書を開き、由花は視線を落とす。すると隣で彼も赤本のページをめくり、静かに勉強を始めた。
 広い河川敷で、名前も知らない人と並んで勉強する姿は、はたから見たらおかしいことだろう。それでも由花は、この時間を少しだけ特別に感じていた。

 翌朝、由花は早起きをしていつもより早い時間に登校した。教室に入るとまだ誰もいなくて、いつも通り、黒板にはこばとの悪口が大きく書かれている。周りに誰もいないことを確認して、由花は黒板の文字を消し始めた。
 ぶりっ子。男好き。ブス。他にも言葉にするのも抵抗があるような文字が並んでいる。全て消し終えると、由花は図書室へ身を隠した。そしていつも自分が登校するくらいの時間に、何食わぬ顔で教室へ入っていく。いじめっ子たちの「誰が消したんだよ」と怒っている声が聞こえてくる。由花は何も知らないふりをして、どうしたの? と友達に訊ねた。
「由花ちゃんおはよう。なんかね、いつも黒板に……永瀬さんの悪口が書いてあるでしょ? あれが消されていたみたいなの」
 ちら、とこばとを盗み見ると、何が何やら分からないという表情をしていた。ホッとして由花はそうなんだ、と相槌を打つ。
 こばとにとっては、ほんのちょっとしたことかもしれない。数あるいじめの中の、たったひとつ。これは由花の自己満足なのだろう。それでも、やってよかった、と由花は思うのだった。

「家は両親がいつも喧嘩してるんです。お父さんが仕事を辞めてから、おかしくなっちゃって。ずっと怒鳴り合いの声が聞こえてくるの」
 放課後になると、由花はまた河川敷に行って、名前の知らない彼に話をしていた。家は何で居心地が悪いの? と訊かれたので素直に答える。由花の話に、男は眉をひそめてみせた。
「それは嫌だな。家でくらい落ち着いていたいよな」
「そうなんですよ。だから最近はヘッドホンが必須になっちゃって」
 音を遮断して、勉強に集中するようにしているんです。
 そう由花が言うと、受験生じゃなくてよかったな、と笑われた。確かに受験のナーバスな時期に今の状態だったら、もっとしんどかったかもしれない。
「親と話せるなら、自分の気持ちを言った方がいいと思うけど」
「えっ、でも……両親の問題だし……」
「文句言う権利はあるだろ。あんたの親なんだから、何とかしたいならあんたが動かないと」
 それはそうかもしれない。両親が喧嘩をしているのは二人の問題だから、と今まで目を背けてきた。けれど、由花だって家族の一員なのだ。
「……言ってみようかな」
「ん。頑張れ」
 背中をとん、と優しく叩かれる。驚いて横を見ると、素知らぬ顔で彼は赤本を眺めていた。そのページがさっきからずっと進んでいないことに、由花は気がついていたけれど、気づかないふりをしてあげた。

「お父さん、お母さん、ただいま」
 由花が帰宅しても、関係なく怒鳴り合いは続いていく。
 つきん、と胸の奥が痛む。無視をされたようで悲しい。こばとはいつもこんな気持ちなのだろうか、と考えて切なくなった。
「ただいま!」
 大きな声がリビングに響く。今度はどうやらちゃんと両親の耳に届いたようで、二人同時に黙り込む。そして、おかえり、という声が重なった。
 そんなちょっとのことが嬉しく思えるのはおかしいだろうか。
 父と母は笑顔を見せた由花を不思議そうに眺め、顔を見合わせた。
「……ごめんね、由花の前で喧嘩ばっかりして」
「うん。本当はずっと嫌だったよ、二人が喧嘩してるところなんて見たくないよ」
「そうだよな……悪かったな、由花」
 父に頭を撫でられたのは何年振りだろうか。もうそんな子どもじゃないよ、と笑うと、いつまでも由花は俺たちの子どもだよ、と父が言う。
「そうよ。何歳になったって、由花はお母さんたちの子どもなんだから」
「……そうだね。ありがとう」
 喧嘩はするけれど、家族なのだ。改めて実感した絆に由花は安堵した。
「晩ご飯は由花の好きなエビフライにしようか」
「おっ、いいな。それなら父さんが買い物に行ってこよう」
「あらやだ、余計なものを買われたら困るから、お母さんも一緒に行くわよ」
 参ったなぁ、と父が頭をかく姿は、仲が良かった頃の両親を思い出させて、少しだけ泣きそうになった。
「私、部屋で勉強してるね」
「うん。お夕飯が出来たら呼ぶから」
 いつもならご飯を作ってはくれても、呼んではくれない。ラップをかけたごはんがぽつんと食卓に置かれていて、それを一人で食べるだけだ。
 今日は両親と一緒にご飯が食べられるのだ。勇気を出して、声を上げてみてよかった、と由花は一人微笑んだ。

 永瀬こばとへのいじめは、なくならなかった。悪口の書かれた黒板を消すくらいでは、おさまるはずもない。それでも由花は諦めなかった。
 こばとの教科書が破られていたらテープで貼って修復し、ノートに油性ペンで落書きされていると気がついたら、自分のノートのコピーを机に入れておいた。少しでもこばとが授業に遅れないように。あなたの味方はここにいるよ、という気持ちを込めて。
 それでも声をかけるには優しさが足りなかった。表立って助けてあげるだけの無謀さもまた、持ち合わせてはいない。
 そのことを彼にもう一度相談すると、思わぬ答えが返ってきた。
「助けてあげたいと思っても、声はあげない方がいいよ」
「えっ?」
「標的があんたに変わるだけだから」
 それだけしてるなら、あんたの優しさは相手にも伝わっているんじゃない? と彼は言う。
「誰かは分からなくても、味方をしてくれる人がいるってだけで、心強いと思うけど?」
「でも……」
「あんたが標的になることないじゃん。本当に居場所がなくなるぞ」
 優しいところがあんたのいいところだけど、ちょっと無鉄砲すぎ。と頭を赤本で叩かれる。それが思いの外痛かったので、ぺし、と頭を叩き返すと、彼は小さく笑った。
「優しくないから、あの子に声をかけてあげられないんです。私は自分がいじめられるのがこわくて、でも罪悪感から逃げたくて、……結局いつも、自分のことばっかり考えてる」
 だから、優しくなんかないんです。と由花が呟くと、そうかぁ? と彼は首を傾げる。
「本当に優しくない奴は、そもそもいじめられている奴を見ても何とも思わないよ。良心だって痛まないし、罪悪感なんてもっての外だ。だからあんたは優しいんだと思うけど?」
 つっけんどんに言われた言葉だったけど、由花には涙が出そうなほど嬉しい言葉だった。
 最初の頃に彼に言われた、優しさが足りないという言葉にとらわれていた。けれど、そういう訳ではなかったのだ。
 ぽつりとこぼれた涙を慌てて拭うと、彼がハンカチを差し出してきた。いつかの空色のハンカチだった。
「……ありがとうございます」
「ん」
 照れ隠しなのか、彼はそっぽ向いてしまった。涙をハンカチで拭いて、由花は顔を上げる。空には積乱雲が広がっていた。
「もしも」
 彼が、ふいに声を上げる。
「えっ?」
「もしもあんたがこんなの間違ってるって声を上げて、学校に居場所がなくなったら、……俺が居場所になってやるよ」
「…………ありがとう」
 もう一度、お礼を言う。そっと隣にある彼の手に自分のそれを重ねると、ぎゅっと温かい手が握り返してくれた。

 由花はその日、久しぶりに早起きをやめた。
 いつも起きていた時間に起きて、いつもの時間に登校する。教室に入るとこばとを罵る言葉が黒板に書かれている。最近では早く登校して消すことが日課になっていたけれど、今日はそんな小細工はしない。
 震える足で黒板の前に立つ。何? といじめっ子たちから声が上がるのを無視して、黒板消しで思い切り落書きを消してやった。
「渡辺! お前何してんだよ!」
 強い言葉が飛んでくる。そんなものは聞こえないふりをすればいい。両親のおかげで、聞こえないふりは得意なのだから。
 全て消し終えて、手をぱんぱんと叩く。チョークの粉が舞い落ちて、由花は顔を上げる。
 クラスメイトの視線が由花に集中していた。顔が、いや、身体中が熱くてたまらない。だけど、まだ足りない。
「こばとちゃん!」
 初めて、彼女の名前を呼んだ。
 驚いて目を丸くしたまま固まっている美少女に、手を差し出す。
「行こう!」
 どこへ、とは言わなかった。朝のホームルームはもうすぐ始まってしまう。
 こばとの目が涙でにじむ。大粒の涙をたたえながら、こばとは小さく頷いて、由花の手を取った。
 由花より少し大きな手をぎゅっと握り、こばとを連れて走り出す。教室を飛び出して、靴も履き替えないまま玄関も越え、正門まで辿り着いてやっと由花は足を止めた。
「あーっ、こわかった……!」
 足ががくがくと震えているのは、走ったせいだけじゃないだろう。それでもこばとの手を離しはしなかった。もう見て見ぬふりはおしまいにする。彼女が泣いていたら手を差し伸べて、大丈夫だよと言ってあげられる存在でありたい。
 こばとは泣きじゃくっていた。ありがとうと震える声でお礼を言うので、由花はお礼は言わないで、と言葉を返した。
「ずっと、助けられなくてごめんね、こばとちゃん」
「ううん……いいの。黒板とか、教科書とか、ノートのコピーとか、全部渡辺さんだったんだね」
 ずっとありがとう、ともう一度お礼を言ったこばとが、ぎゅっと由花の手を握り返す。
「本当に嬉しかったの。だから、お礼を言わせて。味方をしてくれてありがとう」
 二人は見つめ合い、そして笑い合った。
 今までの罪悪感が嘘のように、澄み切った気持ちで空を見上げると、今日は雲ひとつない晴天だった。

 こばとを家まで送り、由花はいつもの河川敷へ向かう。
 まだ授業の時間だから彼はいないだろうけど、家に帰るには早すぎる。かといってさすがに一人で教室に戻る勇気はない。
 河川敷にたどり着くと、見慣れた後ろ姿があり、由花は思わず声を上げた。
「……どうして、?」
「何でだと思う?」
 最後まで由花は質問の内容を言っていないのに、全て伝わったみたいだ。
 どうしてあなたが、この時間にこの場所にいるの?
 笑みを浮かべながら振り返った男は、ぽんぽん、と自分の隣の草むらを叩き、由花に座るよう促した。
「派手にやったみたいじゃん」
「なんで知ってるの?」
「上履きのままだし。鞄も持ってない。教室で派手にやらかして、そのまま逃げてきたってとこだろ?」
「大当たりです」
 顔が熱くなる。頰をおさえながら、由花は彼の隣に腰を下ろす。そして、ずっと言いたかった言葉を口にした。
「あのね、ありがとう」
 由花の言葉に男は目を丸くする。
「俺は何もしてないよ」
「ううん。あなたのおかげなんです。あなたが私の居場所になってくれる、って言ってくれたから、私は勇気を出せたの」
 もしかしたら、明日から無視が始まるかもしれない。いじめの標的がこばとから由花へと移っているかも。それでも。
「私、人生で初めて、自分のことがちょっとだけ好きになれた気がする」
 だからありがとう。
 そう言って笑った由花の頭を、彼は優しく撫でてくれた。
「頑張ったな」
 くしゃりと髪を撫でられて、泣きそうになるのはなぜなのだろう。もう高校二年生だというのに、幼い頃に戻ったように、大きな声を上げて泣きたくなった。
 じわりと浮かんだ涙を堪えて頷くと、彼は優しい笑顔を浮かべて言った。
「俺の方こそありがとう」
「えっ?」
「こばとに……俺の妹に声をかけてくれてありがとう」
 一瞬、言葉の意味が分からず固まった。それから意味を理解すると、驚いて思わず後ずさってしまう。
「ええっ、こばとちゃんの、お兄ちゃん?」
「そ。こばとがさ、泣きながら電話してきたよ。クラスの女の子が初めて助けてくれたの、すっごく嬉しかったって」
 だからここに来たんだ。もしかして、って思ってさ。
 そう言って、彼は由花の顔を覗き込む。
「ね、渡辺由花さん?」
 名乗ったことはないはずなのに、当てられたフルネーム。彼の言っていることは全て本当なのだ。
「私の名前……言ってないのに」
「妹から聞いたんだよ。まさかあんたがこばとのクラスメイトだとは思わなかったけど」
 一年かと思ってた。小さいから、と付け足された言葉に、小さいは余計です! と反射で言葉を返す。
 どうしてか、ひどく顔が熱い。夏の暑さのせいだろうか。それとも。
「……あのさ」
「なんですか」
「俺はたぶん、あんたに惚れてるんだけど。あんたは?」
「……あんたじゃなくて、由花です」
 訂正すると、彼は目を細めて笑う。由花って呼んでいいんだ? と言われ、また頰が熱くなる。
「…………あなたが」
「ん?」
「名前を教えてくれたら」
 好きになると思う。なんて。
 本当はとっくに抱いている恋心を隠して言えば、彼は楽しげに笑った。
「夏生だよ」
「なつき?」
「そう、永瀬夏生」
 好きになった? と整った顔に覗き込まれて、由花はこくこくと頷く。そして、夏生先輩、と初めて彼の名前を呼んだ。
 それはとても爽やかで、優しい響きだった。