73
 木で出来た扉をシドが開けると、おばちゃん二人の笑い声がちょうどこだましていた。喫茶店の中へシドと私が入ると、笑い声は自然に満足げなトーンに落ち着いた。入り口の目の前にカウンターがあり、カウンター越しに店員のおばちゃんとカウンター席に座っている客のおばさんが話していた。
「いらっしゃいませ。いいよ。好きな席、座って」店員のおばちゃんがそう言った。シドは一番窓際で角の席を指差して、その方へ行った。席に近づくと、「壁側座って」とシドは言った。私は「ありがとう」と言って、壁側の席に座った。席に着いてすぐに店員のおばちゃんが木製のお盆に水が入ったコップを2つ乗せて持ってきた。そして、シドと私の前に水を置き、その場を去った。そして、また客のおばちゃんと話をし始めた。

「あのときと一緒だね」
「同じような時間だからね。おばちゃん覚えてるかな。俺らのこと」
「どうかな。気になるね」私はそう言ったあと、メニューをテーブルに広げた。私達は無言でメニューを見た。
「腹減ったな」シドが私にそう聞いた。
「うん、お腹すいた。今回もこれにしようかな」私はそう言ったあとモーニングセットを指差した。手書きをコピーしたメニュー表には、飲み物、トースト、サラダのセットと書いてあった。
「飲み物は。――クリームソーダ?」
「そう。よく覚えてたね。私がクリームソーダ好きなの」
「当たり前でしょ。俺だって、どれだけ、日奈子のこと思ってたか、これでわかるだろ」シドはそう言ったあと、右側に振り向き、店員のおばちゃんを呼んだ。シドはモーニングセット2つと飲み物はクリームソーダ2つにすると言った。すると、おばちゃんはちょっと待っててね。と言って、奥にある厨房へ入っていった。

「大人になったね」
「日奈子もな。日奈子がクリームソーダが好きな理由は小さい時、日奈子のお母さんが作ってくれてたからだろ。そこから好きになって、こういう喫茶店に来たら、必ず頼んじゃう」
「――すごいね。覚えててくれたんだ」私は涙ぐむ感覚がした。
「あぁ。それも、アイスはデカくないとダメなんだよ。ケチくさい小さいアイスはあんまり美味しく感じない」
「もう、なんか恥ずかしい」私はそう言って、笑った。シドも一緒に笑った。笑った弾みで、足を宙に浮かせ、右足を弱く蹴り上がった。右足ががシドの靴に軽くあたった。
「俺、実はこういうこと結構覚えてるキャラだから、気をつけたほうがいいよ」シドはそう言ったあと、私がさっきそうしたように足を私の左足の先にあてた。
「あ、今のお返し?」
「そうだよ。先にそっちがやっただろ?」シドがそう言ったあと、もう一度足を私の左足の先にあてた。シドはいたずらをしている悪くて無垢な笑顔を私に見せた。そうやってやり取りしているときにおばちゃんがそれぞれのモーニングセットを持ってきた。トーストには目玉焼きが乗っていて、胡椒が多めにかかっている目玉焼きからは湯気が出ている。サラダはレタスの上にトマトが乗っかっていて、レタスにはオニオンドレッシングがかかっていた。

「はいはい、もうひとつ持ってくるからね」おばちゃんはそう言って、トーストとサラダを置いた。その後すぐ、おばちゃんは一度カウンターに戻り、クリームソーダを2つ持ってきた。クリームソーダは大きなグラスに入っている。そして、アイスクリームはしっかりとした大きさがあり、アイスクリームとメロンソーダの境界は溶けたアイスクリームが白く濁り始めていた。
「そうそう。これ。私の好きなクリームソーダ」
「すごい嬉しそう」
「だって、やっぱり好きだもん」
「なあ、写真撮っていい?」シドは携帯を取り出してそう言った。
「いいよ。可愛く撮ってね」私はそう言ったあと、ピースサインをして、シドが写真を撮るのを待った。そのあと、私も携帯をバッグから取り出して、シドの写真を撮った。
 
 私は携帯をバッグにしまったあと、いただきますと言った。そして、クリームソーダを飲み始めた。いつもの幸せな甘さがした。バニラアイスが程よくメロンソーダに溶けていて、メロンソーダがより濃く感じた。シドも携帯をテーブルに置き、モーニングセットを食べ始めた。
 私もトーストと目玉焼きを食べ始めた。トーストと目玉焼きは普通に美味しかった。そうして、しばらく私とシドは会話をあまりかわさず、黙々とモーニングセットを食べた。

「したらね。みっちゃん。明日も食べに来るから」そう言って、客のおばちゃんがお店から出ていこうとしていた。
「たえちゃん、今日もありがとう。したらね」店員のおばちゃんがそう言うのと合わせて、扉についてるベルの音がゆるやかに鳴った。そのあと、扉が重そうにバタンと閉まる音がした。

 シドと私は黙々と食べていた。シドは躊躇なく口を大きく開けてトーストとその上に乗っかている目玉焼きを美味しそうに食べていた。
「お嬢ちゃん、めんこい顔してるね」店員のおばちゃんにそう話しかけられた。
「そんなことないですよ」私は少し顔が熱くなった。
「いいや。かわいい顔してるよ。あんた。だけど、デートのときはお化粧したほうがいいよ。もっと美人さんになるから」
「学校サボったんで化粧は勘弁してあげてください」シドがそう言った。
「あれぇ。サボってわざわざうちに来てくれたのかい。それは悪い子だ。だけど、ありがとう。おばちゃんは儲かるわ」おばちゃんはそう言ったあと、ゲラゲラと笑った。

「あんた方、どこから来たの?」
「札幌です。学校嫌になってデートしに来ました」シドはそう言った。
「札幌からかい。それはまた、ずいぶん、学校サボって遠出してきたね。したら、大学生かい?」
「いいえ、高校生です」私はそう答えた。
「そうなんだ。なんだか、ずいぶん大人びてるね。めんこい顔はしてるけどさ」おばちゃんはそう言ったあと、大きな声で笑った。
「おばちゃんもあなた方の年齢のとき、よく学校サボってたわ。おばちゃんのときは小樽から札幌の喫茶に行って、インベーダーやりに行ったなぁ。あんた方と逆だね」
「へえ、そうだったんですね」私はそう言ったあと、クリームソーダを一口飲んだ。
「さっきからさ、話しながら、ちょっとあんた方、見てたんだけどさ、仲良さそうだね。付き合いは長いの?」
「いや、まだそんなに長くないです」シドはそういいた。
「あら、そうなんだ。いいねぇ。若いって」おばちゃんはそう言ったあと、カウンターに置いてあった水を一口飲んだ。

「あなたがた、すごく似合ってる感じする。いやぁ。傍から見てだけどさ、なんかいいよね。あんた達。仲良さそうなんだもん。いいなあ。おばちゃんもそういう時あったけどさ、今じゃこんなんよ」おばちゃんはそう言ってけたたましく笑った。一体どこがおかしいのかわからないけど、おばちゃんのパーマが笑うのと合わせて派手に揺れていた。
「おばちゃんもこれからですよ」シドはおばちゃんにそう返した。
「坊っちゃん、上手いねぇ、よく言うわ。出世するよ。将来」おばちゃんはそう言ったあと、また大きな声で笑った。私もシドもそのあと、一緒に笑った。
「坊っちゃん、いいこと教えてあげる。お付き合いする人と長続きするかどうかって、フィーリングが大事なんだよ。フィーリングで通じ合うんだよ。だってさ、どんなに長く付き合っても合わないもんは合わないんだから。おばちゃんね、長続きする人達、当てるの得意なの。だから、信じてちょうだい。あなた達、結婚するよ」
「え、ホントですか」私はおばちゃんにそう聞いた。
「ホントだよ。お嬢ちゃん。楽しみに待ってて頂戴。ちょっと、おばちゃん、奥行って洗い物してきてもいいかい?」
「はい、大丈夫です。ゆっくりさせてもらいます」私はそう言った。おばちゃんはそれを聞いたあとすぐに奥の調理場へ下がっていった。

「おばちゃん、俺たちのこと完全に忘れてたな」
「うん、しかも同じようなこと言われて、びっくりした」
「俺たち、結婚するって」
「うん。結婚するって」
「本当は今すぐ結婚したい」
「――私も」
「なあ、俺と結婚してください」
「え、これってプロポーズ?」
「うん。プロポーズ」
「――指輪ないよ」
「あとで渡します。だから、お願いします」
「――生きてたらね」シドはそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私も右手の小指を差し出し、シドの小指に絡めた。そして、指切りをした。

74
 店を出て、海側へ坂を下っていった。外は時折吹く海風が冷たく、ブルブルと震えるくらい凍えた。10分歩いたところで、小樽運河にたどり着いた。観光客はまばらで、それほど人はいなかった。交差点を渡ったあと、運河の遊歩道につながる階段を降りた。そして、手を繋いだまま、ゆっくりと運河を見ながら歩くことにした。
 運河の対岸には石造りの古い倉庫やレンガで出来た倉庫が立ち並んでいた。外壁がレトロな雰囲気を作っていた。それらの建物の屋根には雪が積もっている。運河は波がなく、建物を鏡のように水面に映し出していた。遊歩道と運河の間にあるガス灯は等間隔に置かれ、夜になると、オレンジ色になって綺麗な光景になるはずだ。

「ねえ、シドはどんな27歳だったの?」
「俺も日奈子と同じような感じだと思うよ」
「仕事は何してたの?」
「札幌で就職して、営業職やってたよ」
「へえ、営業やってたんだ」
「うん。札幌のそこそこの大学行って、卒業して、適当に就職した。やる気もなかったから、適当にやってたよ。だけど、職場の人達がそれなりにいい人達だったから、楽しかったな。飲みに行くのもそんなに嫌じゃなかった」
「そっか」
「だけど、何をやっても満たされなかったな。――気持ちが。なぜかずっと寂しいんだよ。何やってても身が入らない感覚が高校生のときからずっとあって、それは変わらなかった。日奈子が死んでから、俺のすべてが変わっちゃった」
「そうなんだ」
「あぁ。――俺、生きてる意味ないなって感じだったな。恋人がいるわけでもないし、友達もみんな就職して忙しくなってあまり遊べなくなったから、せっかく稼いだ給料も最低限の生活費、家賃とか、光熱費とか、そういうの払うこと以外、使わなかったな。だって、一人で旨い店に行ってもつまらないし、一人で旅行する気持ちにもならなかった」
「――もしかして、私が死んだことで内気になっちゃった?」
「うん。そうかもな。結局さ、日奈子がいないと楽しくないんだよ。あの時を境に俺は心の底から楽しむことができなくなったんだと思う。だから、当たるって噂の占いの店、行ったんだよね」
「やっぱり、そうなんだ」
「うん。俺もさ、実はタイムスリップ2回目なんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。あ、だけど、日奈子とは違うよ。俺はちゃんと一回27歳に戻ったんだよ。その時、タイムスリップした先は付き合い始めの頃だったよ。さっきの喫茶店、初めて行ったときにタイムスリップしたんだ」
「だから、クリームソーダのこと覚えてたんだ」
「まあな。――だけど、タイムスリップする前から日奈子がクリームソーダ好きなことはずっと覚えてたよ。そこで、小樽観光と、水風船で日奈子と遊んで、終わった。ほら、あの占いのおばさん言ってただろ。タイムスリップはツアーだって。だから、俺もツアーだと思って楽しんだんだよ」
「そっか。戻れたんだね」
「うん。それで、27歳に戻って、気がついたんだよ。過去が変わっていることに。占いのおばさんは変わらないって言ってたけど、変わってたんだよ。日奈子の命日が」
「え、死んだ日が違ったの?」
「あぁ。だって、命日なんて絶対覚え違いするわけないじゃん。時間まで覚えてたんだから。なのに1日違ったんだよ」
「もしかして、元々の命日って今日だったの?」
「そう、そういうこと。――俺さ、毎年、日奈子の命日に墓参りに行ってったんだ。それで、いつもみたいに軽く雪かきして、墓石、拭いてたらさ、墓石に刻まれてる命日が違ったのさ。え、と思って、墓参りから帰ってから、昔の手帳取り出して、日奈子が死んだ日を確認したら、やっぱり手帳も命日が違ったんだよね。――それで気づいたのさ。1日ずれてることに」
「そうだったんだ」
「あぁ。だから、タイムスリップして戻ったら、日奈子の命日は明日になってた。それで、俺わかったんだ。もしかしたら、日奈子救えるかもしれないって。だって、命日が変わるなら、死なないことにすることもできる可能性あるよなって思ったんだ。それで、またおばさんに5万円払ってタイムスリップさせてもらったんだ」
「――未来、変えられるかもしれないね。私達」
「あぁ。日奈子もそう思って、もう一回、タイムスリップしたんだろ。絶対、二人で生きよう」
「そうだね」私はそう言った。

 冷たい風がブワッと吹いた。風で遊歩道に積もっていた雪が舞い上がった。そして、あっという間に雪煙になり、白い空間が出来上がった。風が強くて、思わず、私は立ち止まってしまった。私が歩みを止めたからだろう、シドも一緒に立ち止まった。立ち込めた雪煙で遠くの景色は見えない。そして、瞬く間に空の青さがかすかに見えたと思ったら、もう雪煙は消えていた。
 何もかも消えてしまって、シドもこのまま消えてしまうんじゃないかと思った。横を振り向くとしっかりとシドが隣にいた。
 
75
 小樽運河の遊歩道を抜けて、日銀通りを小樽駅方向に歩くことにした。日銀通りは昔「北のウォール街」と呼ばれていて、日銀通りに沿って、大正時代に建てられたノスタルジックなビルが並んでいる。だから、この通りに建っている多くの建物が元々銀行だった建物ばかりだ。低層階は石造りで、高層階は白いタイルで作られていた。入口はギリシャ建築を意識した円柱が何本も建っていて、角がなく、丸みを帯びている。地面とすれすれの位置に小さな窓があり、どうして、こんな作りなんだろうって不思議に思う。そういう西洋モダンな建物がたくさん並んでいるから、この通りだけ、異国な雰囲気が出来上がっている。

 私とシドは旧拓殖銀行と郵便局の前の交差点を渡り、郵便局の前で次の信号が変わるのを待っていた。信号が青になったから私とシドは日銀通りにかかる横断歩道を渡ることにした。横断歩道は凍っていて、慎重に歩かないと滑って転びそうなくらいだった。すでに12時前なのに太陽で道の氷は溶けずにそのままだった。
 クラクションが右側から聞こえた。右側を見ると白い車が、クラクションを鳴らしていることがわかった。日銀通りのゆるい坂道から車が下ってきている。だけど、一向に減速しないのがわかった。――スリップしている。

「シド!」私がそう言ったあと、シドは私の背中に手をかけて、私のことを前へ押し出した。そして、私はシドに押し出されて、交差点の中間地点を超えた辺りで、転んだ。私は左肩から、転んだ。左腕を軸にして前に滑ったのがわかった。鈍い痛みだ。私は、シドの方を見ると、シドが立っていたはずの場所に白い車が止まっていた。