11
 10年前。

 シドと一緒に手すりにもたれて、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めていた。クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いている。クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っていて、それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。ドーム状になっている天井ガラスの中央から、青白い電飾の帯が左右に広がって吊るされている。アトリウムの中は青白く、ツリーのカラフルな電飾が混ざり合い、淡い空間になっていた。

「ねえ、写真撮ろうよ」私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」シドは笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動した。右手でシドの腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、シドの身体に首をもたれて、シドと私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。
 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。シドはベンチに座っている間も私の左手をつないでいた。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」フッと笑ったあとシドはそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、シドは私にキスをした。

12
 このベンチでシドにキスされたことを思い出して、身体が少しだけ火照った感覚がした。今はクリスマスではなく、真夏だ。しかも10年前でもない。私は、もう一度シドにキスされたいと思った。手だって繋ぎたいし、とにかくシドに会いたいと思った。

 シドと永遠に過ごすことができそうって予感を感じたのは夏だったことを思い出した。ちょうどこの時期だ。あの夏は今年の夏みたいに暑くなく、爽やかで過ごしやすい夏だった。夏休みに入ってからシドとしょっちゅう遊んだ。その日は、JRに乗って、小樽に遊びに行った。JRの車窓からはキラキラと光る海や、ゴツゴツとした岩場に波が穏やかに打ち付けているのが見えた。小樽に着いて、すぐに二人ともお腹が減ったから喫茶店に入って、モーニングセットを食べたことがあった。

13
 木で出来た扉をシドが開けると、おばちゃん二人の笑い声がちょうどこだましていた。喫茶店の中へシドと私が入ると、笑い声は自然に満足げなトーンに落ち着いた。入り口の目の前にカウンターがあり、カウンター越しに店員のおばちゃんとカウンター席に座っている客のおばさんが話しているのがわかった。
「いらっしゃいませ。好きな席、座っていいよ」店員のおばちゃんがそう言った。シドは一番窓際で角の席を指差して、その方へ行った。席に近づくと、シドは壁側の席を再び指差して、いいよ、座ってと言った。席に着いてすぐに店員のおばちゃんが木製のお盆に水が入ったコップを2つ乗せて持ってきた。そして、はいどうぞと言って、シドと私の前に水を置き、その場を去った。そして、また客のおばちゃんと話をし始めた。

 テーブルでメニューを広げると、テーブルはそれで一杯になった。私達は無言でメニューを見た。
「お腹すいた?」シドが私にそう聞いた。
「うん、お腹すいた。ねえ、私、これがいい」私はそう言ったあとモーニングセットを指差した。手書きをコピーしたメニュー表には、飲み物、トースト、サラダのセットと書いてあった。
「飲み物はどうする?」
「クリームソーダにする」と私は言った。シドは右側に振り向き、店員のおばちゃんを呼んだ。シドはモーニングセット2つと飲み物はクリームソーダ2つにすると言った。すると、おばちゃんはちょっと待っててね。と言って、奥にある厨房へ入っていった。
「クリームソーダいいね。夏らしくて」シドはそう言った。
「いいよね。アイス食べれるし。私、昔から好きなのクリームソーダ。小さい時、お母さんが家で作ってくれたんだよね。メロンソーダ買ってきて、その上にカップアイス乗っけてクリームソーダしてくれたの。だから、こういう喫茶店来たら結構頼んじゃうんだよね。ファミレスでもあるけど、あれは嫌なのさ。アイスがおまけ程度であんまり美味しくないし、ケチくさいのが気に入らないよね。なんでチェーン店ってケチなんだろう?コスパ、超悪いじゃん。あれ」
「確かに。チェーン店にとってはコスパいいんだろうけど、客にとってみりゃ、コスパ最悪だね。そもそも、飲み物の原価なんてたかが知れてるんだから、少しくらいサービスすればいいのにとは思うよね」
「そうなんだ。それって、儲けようとしてるだけってこと?」
「そういうこと」
「だからケチなんだ。私ね、世の中ってなんで、こんなに根本から外れたことばかり溢れているんだろうって時々思うの。こういうサービスの悪さは横行してるし、好きだったお菓子は値上げする割に、入ってる量はどんどん少なくなっていくし、一つのサイズもだんだん小さくなっていく。昔はこんなに大きかったのになんでってがっかりするもん」
「きっと、そういうことして喜ぶ人達がたくさん溢れかえってるんだよ。この国には」
「へえ、ケチだね。私がこういうお店やるんだったら、サービスたくさんしたい」私はそう言ったあと、足を宙に浮かせ、右足を弱く蹴り上げるとシドの靴に軽くあたった。
「俺もそう思うよ」シドはそう言ったあと、私がさっきそうしたように足を私の左足の先にあてた。
「あ、今のお返し?」
「そうだよ。先にそっちがやったでしょ」シドがそう言ったあと、もう一度足を私の左足の先にあてた。シドはいたずらをしている悪くて無垢な笑顔を私に見せた。そうやってやり取りしているときにおばちゃんがそれぞれのモーニングセットを持ってきた。トーストには目玉焼きが乗っていて、胡椒が多めにかかっている目玉焼きからは湯気が出ている。サラダはレタスの上にトマトが乗っかっていて、レタスにはオニオンドレッシングがかかっていた。

「もうひとつ持ってくるから、もうちょっと待ってね」おばちゃんはそう言って、トーストとサラダを置いた。その後すぐ、おばちゃんは一度カウンターに戻り、クリームソーダを2つ持ってきた。クリームソーダは大きなグラスに入っている。そして、アイスクリームはしっかりとした大きさがあり、アイスクリームとメロンソーダの境界は溶けたアイスクリームが白く濁り始めていた。
「これこれ。私が求めてたクリームソーダ。最高なんだけど」
「写真撮っていい?」シドは携帯を取り出してそう言った。
「いいよ。可愛く撮ってね」私はそう言ったあと、ピースサインをして、シドが写真を撮るのを待った。そのあと、私も携帯をバッグから取り出して、シドの写真を撮った。私達がこうしている間に、店員のおばちゃんと、客のおばちゃんがまた話に戻っていた。10時半の店内はまるで魔法で水晶の中に閉じ込められたように狭い世界になっていて、居心地がよかった。
 
 私は携帯をバッグにしまったあと、いただきますと言った。そして、クリームソーダを飲み始めた。一口目から幸せな甘さがした。シドも携帯をテーブルに置き、モーニングセットを食べ始めた。
 私もトーストと目玉焼きを食べ始めた。トーストと目玉焼きは普通に美味しかった。普通に美味しいことがどれだけすごいことかを誰かに伝えたいけど、普通が違う言葉に言い換えられるだけだ。そうして、しばらく私とシドは会話をあまりかわさず、黙々とモーニングセットを食べた。

「したらね。今日もありがとう。みっちゃん」そう言って、客のおばちゃんがお店から出ていこうとしていた。
「たえちゃん、ありがとね。今日もあっついから気ぃつけてね」店員のおばちゃんがそう言うのと合わせて、扉についてるベルの音がゆるやかに鳴った。そのあと、扉が重そうにバタンと閉まる音がした。

 シドと私は黙々と食べていた。シドは躊躇なく口を大きく開けてトーストとその上に乗っかている目玉焼きを美味しそうに食べていた。
「お嬢ちゃん、めんこい顔してるってよく言われるでしょ」店員のおばちゃんにそう話しかけられた。
「そんなことないですよ」私は急にそんなこと言われて、少し顔が熱くなった。
「いいや。かわいい顔してるよ。あんた。さっきからさ、話しながら、ちょっとあんた方、見てたんだけどさ、仲良さそうだね。どこから来たの?」
「札幌です」
「そうなんだ。まだ若いよね。あなた達」
「高校生です」私はそう答えた。
「そうなんだ。楽しいときだね。一番」おばちゃんはそう言ったあと、大きな声で笑った。
「ここのお店は長いんですか」シドはそう質問した。私はトーストの最後の一切れを口に放り込んだ。
「ここはね。もう30年くらいだね。うちのお父さんが脱サラして店作ったの」
「そうなんですか。旦那さんは今日はお休みですか?」
「ううん、旦那は5年前に亡くなったの。だから、ゆっくり私一人でやってるの。私も歳だし、やめようかと思ったけど、毎日来てくれるお客さんもいるしさ、まだ続けることにして、今の今までやってるってことさ」おばちゃんはそう言ったあと、カウンターに置いてあった水を一口飲んだ。

「美味しいです」私はおばちゃんにそう言った。
「ありがとう。あんためんこいわ。今どきさ、そうやって素直に美味しいっていう子いないしょ。みんななんも言わないで食べて、それでお金払って終わり。出ていく時もさ、ごちそうさまくらい言ってくれたらいいのにさ。なんも言わないもんね。そういう子ってだいたいめんこくないんだわ」おばちゃんがそう言ったあとまた大きな声で笑った。私とシドも一緒に笑った。
「あなたがた、すごく似合ってる感じする。いやぁ。傍から見てだけどさ、なんか仲良さそうなんだもん。いいなあ。おばちゃんもそういう時あったけどさ、今じゃこんなんよ」おばちゃんはそう言ってけたたましく笑った。一体どこがおかしいのかわからないけど、おばちゃんのパーマが笑うのと合わせて派手に揺れていた。きっとこの髪型は何十年も変わっていないのだろう。変わらなくてい良いものもあるのかもしれないとふと思った。
「まだ、付き合い、そんなに長くないんですけどね」シドはおばちゃんにそう返した。
「坊っちゃん、お似合いかどうかは、付き合いの長さじゃないよ。こういうフィーリングが大事なんだよ。どんなに長く付き合っても合わないもんは合わないんだから。おばちゃんね、長続きする人達、当てるの得意なの。だから、信じてちょうだい。あなた達、結婚するわ。ちょっと、おばちゃん、奥行って洗い物してきてもいいかい?」
「はい、大丈夫です」私はそう言った。おばちゃんはそれを聞いたあとすぐに奥の調理場へ下がっていった。

「結婚するって」シドはそう言った。
「照れるね」
「めんこいって言われたときから、顔赤かったよ」
「そりゃあ、そうなるでしょ」私がそう言っている間にシドはトーストとサラダを食べ終え、クリームソーダをストローで吸っていた。
「なあ、永遠に一緒に居れたらいいなってたまに思うんだ」
「たまにしか思ってくれないの?」
「いや、たまにじゃない常に思ってる」
「本当に?」
「ホントだって。だからさ、今日みたいにさ、こうやって日奈子と二人でのんびり出来るのが最高だと思ってるよ」
「本当にずっと居れたらいいね」
「ずっと居よう」シドはそう言ったあと、右手の小指を私の方に差し出した。私は右手の小指でシドの指を握り、指切りした。

14
 今日も仕事を休んだ。風邪が長引いたことにした。店長はなぜか電話越しで怒っていた。欠勤が多いだの、仕事は具合が悪くても、意地でも来いだとか言ってたけど、ほとんど頭に入らなかった。ずっと私は「具合悪いので休みます」を機械音声みたいに繰り返して電話を切った。

 シドには夢ですら会ったことがない。今日もお風呂をいれることにした。バスタブを洗い、蛇口を捻った。

 最後があまりにも日常的だった。だから、シドと最後に交わした言葉は「バイバイ、また明日ね」だった。デートし終わって、次の日、一緒に学校に行くことになっていたんだから、当たり前だ。映画みたいにロマンティックに愛を伝え合ったり、感謝の気持ちを伝えたり、別れを惜しんだりすることなく淡々と終わってしまった。事故は日常がこのまま続くと思っているときに起きる。きっとそういうものなのだろう。
 シドの葬式では絶対に泣かないことにした。棺に入ったシドは寝てるみたいだった。シドの寝顔を初めてみた。シドとの恋が続いて結婚していたら、シドの寝顔は見慣れた姿になっていたのだろう。そんなこと、そのときは思わなかった。そもそも、結婚をイメージすることができなかった。
 桜子は私が経験したかったこと、すべてが日常になっているのだろう。好きな人の寝顔は当たり前のように毎日見れて、食べてほしいご飯を作ったら、好きな人から美味しいと当たり前のように言われているのだろう。それが普通だし、妬んでいるわけではない。ただ、私も好きな人と一緒にそんなことがしたかっただけだ。

 買った入浴剤を入れているプラスチックのかごから、青色のバスボムを手にとり、浴室に入った。湯船をみるとまだ半分もお湯が溜まっていなかった。私は裸になり、バスボムのビニールを開けた。袋にはBule Night CITRUSと書いてあった。そして、そっと湯船にバスボムを入れると思ったより水色の炭酸を吐き出した。水色がじんわりと広がっていくのと合せてシトラスの香りがした。

 もし、シドが今も生きていたらどうなっていたのだろう。今頃、結婚していたかもしれない。シドのために晩ごはんを作って、どこかに働きに行くシドへ弁当を作っていたかもしれない。もしくは、なにかあってすでに別れていたかもしれない。だけど、もし、シドが生きていたら、私はシドをどれだけ愛することができていたのだろうかと思った。
 
 シドの記憶は日に日に遠のいていく気がする。年々、シドの声を思い出すことも難しくなってきているし、私の脳内でのシドの表情は徐々に動画から静止画になっている気がする。その静止画もやがて画素数が荒くなり、そのうち消えてしまうのだろう。それが0になったとき、思い出すことはほぼ困難になるのだろう。

15
 そんなことばかり、繰り返し考えて、私は水色のバスタブに浸かっていた。今日も朝風呂は最高だった。火照った私の身体は相変わらず貧相だ。自分の身体を見て、自分だけ置いていかれているようなそんな気持ちになった。
 シドが死んでから、私は不眠症になった。だからもうすでに10年近く上手く眠れていない。不眠症だと気づいたのはシドが死んで数ヶ月くらい経ったときだった。その頃からすでに私は毎日寝る前にシドのことばかり考えるのが習慣になっていた。シドと見たクリスマスツリーのこととか、シドが言った言葉とか、シドが死んだ場面とか――。
 シドのことばかり考えていたら、夜更けまで寝れなくなった。寝れたとしても途中で、ハッとして目覚めて、そこから寝れなくなってしまうことが度々起きた。病院で睡眠薬をもらって対処していたけど、最初は効いていた睡眠薬もだんだん効きが悪くなり、結局、効果を得ることが少なくなった。
 
 シドのことを思い出すと、死にたくなった。これ以上、現実で生きるには、あまりにも気持ちが剥離していると私は思った。思い出の中だけで生きれたら、思い出に溺れても気づかないだろう。それ以上のことはよくわからなかった。涙がこみ上げてきた。ただ、辛くて涙が止まらくなった。
16
「来ると思った」おばさんは私にそう言った。おばさんはオレンジ色のサリーをまとっていた。きっと毎日、サリーを着ているのだろう。もしかしたら、サリーを着たまま出勤しているのかもしれない。
「5万円出すとどんな魔法かけてくれるんですか」私はおばさんにそう言った。
「そう焦らないで」
「私にとって、なけなしの5万円なんです。でも、私にとって、そんなのどうでもよくなってしまいました」
「そうなんだ。とりあえず、こっちでかけて」おばさんは占いブースの方を指差してそう言った。私は言われたとおり占いブースの椅子に座った。今日もテーブルにはインドチックなテーブルクロスがひいてあった。

 おばさんはおぼんに乗せてティーカップを2つ持ってきた。ティーカップをテーブルに置いたあと、おばさんはおぼんをパーテーションにかけた。ティーカップにはお茶が入っていた。湯気が出ていて、とても熱そうだ。お茶の匂いですぐにダージリンだとわかった。淡くフルーティーで蜜を足したような香りがした。そして、木製のダイニングチェアーを引き、両手でサリーをなぞって座った。サリーをなぞる姿はとても綺麗で、慣れていて、少しだけドキッとした。

「緊張しないで。お茶飲んでからにしましょう。リラックスすることが大事だから」おばさんはそう言ったあと、お茶を一口飲んだ。
「どう? 昨日より気持ちは落ち着いた?」
「はい、だけど、悲しい気持ちは変わらないです」
「それはそうだよね。私はね、人生って常に何かを失う行為だと思ってるの。あなたにならわかるでしょ?」
「はい、色んなものを失ってます」
「あなたが若いからとかじゃなくて、人は多かれ少なかれ何かを失って、経験を得て、そして生涯を全うするんだろうね」
「そうかもしれないですね」
「すべての生物にすべて共通していることって何だと思う?」
「――わからないです」
「生まれた瞬間からすべて死に向かっているってことだよ。だって、そうでしょ? 植物は生きるために光合成するし、動物は生まれてから死ぬまで何かを飲んだり、食べたりする。だから、人間が生きる時間って、生涯でご飯を食べる回数は最初から決まっていて、その食べる回数を超えたときに死が訪れるんじゃないかなって思ってるんだよね。不食の人が長寿なのは、もしかすると食べる回数を少なくしているからかもね」おばさんはそう言ったあと、またお茶を一口飲んだ。私もおばさんに合わせてお茶を飲んだ。一体、なんの話をしていたのか私は忘れてしまった。人が生涯でご飯を食べる回数について、私はそれほど興味が持てなかった。だから、話を膨らませずに別な話題を切り出すことにした。
「なんで、人間だけ辛い別れを経験しなくちゃならないと思いますか?」
「うーん、難しい質問だね。あなたには悪いと思うけど、別れを経験することで気づくこともあるんじゃないかしら。私はそう思うんだよね」
「どうしてですか?」
「人間、体験しないとわからないことがあるでしょ。どんなことでも。それは別れも一緒だと思うの。誰にでも死は必ず訪れるし、大切な人を失ったら、生きている人間は立ち直って、自分が死ぬまで日常を過ごさなくちゃならない。立ち直らないと、死んだ人と過ごした過去に囚われて、今を生きることができなくなるからね」おばさんはそう言ったあと、もう一口お茶を飲んだ。天井のクーラーの音だけが、部屋を支配していた。私もティーカップを手に取り、お茶を一口飲んだ。口の中いっぱいにタージリンの甘い香りが広がった。

「私ね、この装置で多くの人達に感謝されたの。私は管理人だから、実際に自分でこの装置を使ったことはないけどね。だけど、体験した人の顔は多く見た。大体の人は過去を見に行ったあと、現実に折り合いがつくみたい。だけど、そうでもない人も一部いる」
「そうでもない人」私はおばさんにそう聞いてみた。
「そう。まるで別人みたいになった人もいたの。多分だけど、過去から帰って来れなくなって、そうなるんだと思う。ごく一部だけどね」おばさんはまるで他人事のようにそう言った。
「帰って来れなくなるとどうなるんですか」
「安心して、死ぬわけではないから。その人たちは戻ってきて、そのままお礼を言って、帰っていくよ。だけど、なにかが違うの。様子とかね」そう言ったあと、おばさんはもう一口お茶を飲んだ。私は何も言えずに黙っていた。
「怖がらないで。今はリスクの話してるだけだから。ほとんどの人はそのまま今に帰ってくるよ。ツアーから帰ってきたように満足してね」
「これって、本当に過去に戻れるんですか」
「私にはわからない。大体は思い出を見に行ってきて終わりって感じかな。旅行みたいにね」おばさんはニコッと笑ってそう言った。そして、おばさんはまた一口、お茶を飲んだ。

「もうひとつ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「タイムスリップして、死んだ人を生き返らせることはできますか?」
「例えば、どういうこと?」
「えーと、例えば、事故を未然に防いで事故で死ぬはずだった人を助けるとか、そういうことです」
「なるほど、そうね。私は聞いたことない。だけど、断言できる。私は過去は変えられないと思ってる。だって、過去が変わると、今、タイムスリップした事実もなくなる可能性が出てくるでしょ。ここにいるAさんは事故で死んだBさんを生き返らせたくて今、この店からタイムスリップしようとしているでしょ。だけど、Bさんが生きたことになってここの世界に戻ってきたとき、Aさんはそもそもこの店に来る動機がなくなるから、このお店には来ていないことになるでしょ」
「え、どういうことですか?」
「つまり、Bさんを助けたら、そもそもAさんはこの店に存在しないことになるの。タイムパラドックスって言うんだよね。確か、こういうこと。例えば、自分が生まれる前にタイムスリップして、自分の親を殺したら、自分は生まれなくなるでしょ? だって、親が自分を産まないでこの世から存在しなくなるんだからね。これをタイムパラドックスって言うらしいんだよね。だから、これと似たようなことが起きるから、Bさんを助けることができないんじゃないかなって私は思ってるの」
「そうなんですね」
「だけど、うちのタイムスリップじゃ、自分が生きている時までしかタイムスリップできないから、親殺しはできないんだけどね」おはさんはそう言ったあと、軽やかに笑った。おばさんの笑い声だけが部屋に響いた。

「どう?それでも体験してみる?」おばさんがそう言ったあと、私はおばさんに銀行の名前がついた封筒を渡した。おばさんは封筒の中を確認していた。

17
 別の部屋へ移動した。そこには使い古されたダイニングチェアーが一脚置いてあった。それ以外の家具はなにもなく、この部屋だけが急にそれまでの世界観がすっぽり消えていた。窓には黒い遮光カーテンが取り付けられていた。蛍光灯が事務所の一室である雰囲気をより作り上げていた。
「大体、2日くらい過去に戻れるの。2日目の夜、寝て起きたら、ここに戻ってる感じかな」おばさんはそう言いながら、私を椅子に座るようにと左手でジェスチャーした。私はおばさんの指示通り、椅子に座った。

「この椅子があなたを過去に連れて行ってくれるの。やり方は簡単。あなたが目を瞑ったあと、あなたの胸に私は手をあてるから。その間、あなたは戻りたい過去の断片だけを思い出してほしいの。戻りたい過去の場面がイメージできたら私に言って」おばさんがそう言ったあと、沈黙が流れた。私はすでに帰る場所を決めていた。

「決まったね」おばさんはそう言った。
「はい。もう大丈夫です」私はそう言った。
「目を瞑って」私はおばさんに言われたとおりにした。視界は黒くなり、何もなくなった。そのあとすぐ、おばさんの手が私の胸に当たるのがわかった。手は温かく、何かが胸を流れていっているような感覚がする。私は言われたとおり、イメージをした。