六月の終わり。
ぼくは激しい雨に打たれていた。二時間もだ。
雲空と同じ鈍色の原付にまたがり、県境の山を越えたあたりから小雨が降り始めた。戻ろうか、先に進もうか。迷っている間に気がつけば、取り返しがつかないほどに濡れていた。
眼鏡には冬の窓のように水滴が滴り、口を開ければ小さな粒が舌をくすぐった。
目的地に着いた頃には足を一歩踏み出すごとに水たまりを作るほどの貯水量だった。溺れたようなぼくを見て、役所の人はタオルをくれ、すぐに撮影許可証にサインをくれた。
濡れ損にならずに済んで良かったと安心して、ぼくはまた雨の中原付を走らせる。
映像学科の生徒は十人程度の班を組み、夏休みの間に一本の映画を撮る。
ぼくたちの班は、人ならざる力を持ち、その力故に人々に恐れられる青年が、親しい間柄の少女とともに安寧の地を求めて旅をする、という映画を撮ることになった。
劇中、彼らは逃避行の最中、廃校となった小学校に身を潜め、かつての少年時代に想いを馳せる。
このシーンを撮影するために、ぼくたちは廃屋マニアのブログや心霊サイトなどで近隣の廃校を調べた。
そうして見つけたのが奈良の山奥にあった廃校だ。
レンタカーを借りて、実際に撮影前に現場を見にいったが、木造二階建ての小さな廃校はもう何十年も使われていないらしく、天井は朽ち、床には穴が空いていた。
監督曰く、ここがいい、らしい。
だが、実際に廃校で撮影を行うためには誰も使ってはいないとはいえ、のちのトラブルを回避するためにも地元の役所に許可をもらう必要があった。
だからぼくは、唯一の移動手段だった原付で雨にさらされながら山をいくつも超えた。
それがぼくの役割だった。
以前の現場でぼくは制作部という役職についていたが、今回も制作部として撮影スタッフに加わってほしいと言われ、ぼくは了承した。
ただし、一つだけ条件をつけて。
それは撮影前の準備に関しては全力で対応する。だけど、撮影現場にはいかない、というものだ。
同級生たちを避けていたのもあるが、この頃ぼくは小説を書きはじめていたため、そちらに時間を割きたいと考えてのことだった。
夏の間、ぼくは誰とも会う予定はなかった。
学生用の狭いアパートで一人、ぼくはあまりある時間の中でもがいていた。
そんなとき、スマートフォンが震えた。
着信の相手は撮影班の同級生の中で数少ない心を許した友達からだった。
夜になり、ぼくはそわそわと、急いで片付けたワンルームを眺めているとインターホンが何度も鳴った。
「連打するな」
ドアを開き、見えた彼の顔を見てぼくは無条件に嬉しくなる。
彼は大学に入った頃からの付き合いで、同郷で、趣味も、背丈も、高校の頃に生徒会長をやっていたことまで同じだった。
昼間の電話は、今日撮影現場として彼の家が使われるらしく、撮影は夜まで続くことから、翌日のバイトに備えてぼくの家に泊まらせてほしい、ということだった。
色黒で、猫目の彼には早い段階でカミングアウトをしていた。
それでも彼は、これまで彼氏ができたことがないことや、マッチングアプリで失敗したぼくの話を笑って聞いてくれた。
そのぶん、彼が長い間付き合っていた彼女と別れた話や吹っ切れていろんな女性と遊んでいる話などを聞いてぼくも笑った。
近所にあった餃子の王将でぼくたちは何度も語らい、慰め合い、笑いあった仲だ。
「現場こないの?」
壊れかけの折りたたみベッドの寝転びながらパソコンを前にしていると、体育座りでテレビを見ていた彼は急に言った。
「いかないよ」
ぼくはあえてぶっきらぼうに応える。
理由を聞かれたくなかったから。
「詰めて」
すると、彼はベッドに這い上がり、ぼくの隣に寝そべりテレビを見る。肩が触れ、腰が触れる。
「離れろよ」
「落ちるから」
一人用のベッドに身体だけは成人な男が二人。ギリギリ当たらないようにしても、彼の体温が伝わってくるようだった。
「なに書いてんの?」
「いろいろ」
彼はふーん、と興味なさげにテレビに視線を戻す。
ぼくが書いている小説、それは私小説だ。
先輩に勧めてもらった私小説に影響され、ぼくも自分の人生を本にしたいと思った。
だが、過去の記憶を掘り起こし、文字にするという作業は想像以上にダメージを伴った。
乗り越えたはずの悲しみや苦しみが、乗り越えたわけではなく、ただ時間の経過とともに風化されていただけだということを思い知らされる。
頭の中であいつの声が聞こえて、あいつの顔が浮かぶ。
ぼくは振り払うように、くたびれた緑色のクッションに顔を埋める。
ため息をついて。うぅ、と唸って。
それでも胸の内でのたうちまわる自分がどうしようもできなくて。
そんな時、隣から彼の笑い声が聞こえた。
彼はバラエティ番組が好きだった。
ぼくはなんとなく、それでいて思い切って、隣に寝そべる彼に抱きついた。
やめろよ。離せよ。
そんなリアクションを待っていた。だからすぐに離れる準備はできていた。
しかし、彼はなにも言わなかった。
服から汗と柔軟剤の混じった彼の匂いを感じながら、ぼくは彼に抱きついたままだった。
そろそろ寝るか、とぼくは部屋の真ん中に来客用の布団を床に敷く。
布団に潜った彼を跨いで、ぼくは天井からぶら下がった照明の紐を掴む。
「さっきのさ、嫌だったら言ってな」
紐を掴んだまま、彼を見下ろすぼく。
「嫌だったら蹴飛ばしてるから大丈夫」
眩しそうにぼくを見上げる彼。
あっそ、とまたぶっきらぼうに応え、電気を消した。
なにが『大丈夫』なのだろう。
真っ暗な部屋の中で、ぼくは考える。
結局、彼がなにを考えているのかはわからないが、ぼくは彼の大丈夫を聞いて、確かに嬉しい気持ちになったことはわかった。
彼の寝息を聞きながら、ぼくは眠る。
ぼくは激しい雨に打たれていた。二時間もだ。
雲空と同じ鈍色の原付にまたがり、県境の山を越えたあたりから小雨が降り始めた。戻ろうか、先に進もうか。迷っている間に気がつけば、取り返しがつかないほどに濡れていた。
眼鏡には冬の窓のように水滴が滴り、口を開ければ小さな粒が舌をくすぐった。
目的地に着いた頃には足を一歩踏み出すごとに水たまりを作るほどの貯水量だった。溺れたようなぼくを見て、役所の人はタオルをくれ、すぐに撮影許可証にサインをくれた。
濡れ損にならずに済んで良かったと安心して、ぼくはまた雨の中原付を走らせる。
映像学科の生徒は十人程度の班を組み、夏休みの間に一本の映画を撮る。
ぼくたちの班は、人ならざる力を持ち、その力故に人々に恐れられる青年が、親しい間柄の少女とともに安寧の地を求めて旅をする、という映画を撮ることになった。
劇中、彼らは逃避行の最中、廃校となった小学校に身を潜め、かつての少年時代に想いを馳せる。
このシーンを撮影するために、ぼくたちは廃屋マニアのブログや心霊サイトなどで近隣の廃校を調べた。
そうして見つけたのが奈良の山奥にあった廃校だ。
レンタカーを借りて、実際に撮影前に現場を見にいったが、木造二階建ての小さな廃校はもう何十年も使われていないらしく、天井は朽ち、床には穴が空いていた。
監督曰く、ここがいい、らしい。
だが、実際に廃校で撮影を行うためには誰も使ってはいないとはいえ、のちのトラブルを回避するためにも地元の役所に許可をもらう必要があった。
だからぼくは、唯一の移動手段だった原付で雨にさらされながら山をいくつも超えた。
それがぼくの役割だった。
以前の現場でぼくは制作部という役職についていたが、今回も制作部として撮影スタッフに加わってほしいと言われ、ぼくは了承した。
ただし、一つだけ条件をつけて。
それは撮影前の準備に関しては全力で対応する。だけど、撮影現場にはいかない、というものだ。
同級生たちを避けていたのもあるが、この頃ぼくは小説を書きはじめていたため、そちらに時間を割きたいと考えてのことだった。
夏の間、ぼくは誰とも会う予定はなかった。
学生用の狭いアパートで一人、ぼくはあまりある時間の中でもがいていた。
そんなとき、スマートフォンが震えた。
着信の相手は撮影班の同級生の中で数少ない心を許した友達からだった。
夜になり、ぼくはそわそわと、急いで片付けたワンルームを眺めているとインターホンが何度も鳴った。
「連打するな」
ドアを開き、見えた彼の顔を見てぼくは無条件に嬉しくなる。
彼は大学に入った頃からの付き合いで、同郷で、趣味も、背丈も、高校の頃に生徒会長をやっていたことまで同じだった。
昼間の電話は、今日撮影現場として彼の家が使われるらしく、撮影は夜まで続くことから、翌日のバイトに備えてぼくの家に泊まらせてほしい、ということだった。
色黒で、猫目の彼には早い段階でカミングアウトをしていた。
それでも彼は、これまで彼氏ができたことがないことや、マッチングアプリで失敗したぼくの話を笑って聞いてくれた。
そのぶん、彼が長い間付き合っていた彼女と別れた話や吹っ切れていろんな女性と遊んでいる話などを聞いてぼくも笑った。
近所にあった餃子の王将でぼくたちは何度も語らい、慰め合い、笑いあった仲だ。
「現場こないの?」
壊れかけの折りたたみベッドの寝転びながらパソコンを前にしていると、体育座りでテレビを見ていた彼は急に言った。
「いかないよ」
ぼくはあえてぶっきらぼうに応える。
理由を聞かれたくなかったから。
「詰めて」
すると、彼はベッドに這い上がり、ぼくの隣に寝そべりテレビを見る。肩が触れ、腰が触れる。
「離れろよ」
「落ちるから」
一人用のベッドに身体だけは成人な男が二人。ギリギリ当たらないようにしても、彼の体温が伝わってくるようだった。
「なに書いてんの?」
「いろいろ」
彼はふーん、と興味なさげにテレビに視線を戻す。
ぼくが書いている小説、それは私小説だ。
先輩に勧めてもらった私小説に影響され、ぼくも自分の人生を本にしたいと思った。
だが、過去の記憶を掘り起こし、文字にするという作業は想像以上にダメージを伴った。
乗り越えたはずの悲しみや苦しみが、乗り越えたわけではなく、ただ時間の経過とともに風化されていただけだということを思い知らされる。
頭の中であいつの声が聞こえて、あいつの顔が浮かぶ。
ぼくは振り払うように、くたびれた緑色のクッションに顔を埋める。
ため息をついて。うぅ、と唸って。
それでも胸の内でのたうちまわる自分がどうしようもできなくて。
そんな時、隣から彼の笑い声が聞こえた。
彼はバラエティ番組が好きだった。
ぼくはなんとなく、それでいて思い切って、隣に寝そべる彼に抱きついた。
やめろよ。離せよ。
そんなリアクションを待っていた。だからすぐに離れる準備はできていた。
しかし、彼はなにも言わなかった。
服から汗と柔軟剤の混じった彼の匂いを感じながら、ぼくは彼に抱きついたままだった。
そろそろ寝るか、とぼくは部屋の真ん中に来客用の布団を床に敷く。
布団に潜った彼を跨いで、ぼくは天井からぶら下がった照明の紐を掴む。
「さっきのさ、嫌だったら言ってな」
紐を掴んだまま、彼を見下ろすぼく。
「嫌だったら蹴飛ばしてるから大丈夫」
眩しそうにぼくを見上げる彼。
あっそ、とまたぶっきらぼうに応え、電気を消した。
なにが『大丈夫』なのだろう。
真っ暗な部屋の中で、ぼくは考える。
結局、彼がなにを考えているのかはわからないが、ぼくは彼の大丈夫を聞いて、確かに嬉しい気持ちになったことはわかった。
彼の寝息を聞きながら、ぼくは眠る。