「テニス部だよ」
「うわ、すっげ。ハードじゃん」
「そうそう。毎日バテバテ」
「それでもいいな、羨ましい」

 羨ましい。ということは、アオは渋々帰宅部を選んだということ。身体的な理由か家庭の事情か。

「ねえ、アオはどうしてっ」

 一歩踏み込んで聞いてしまおうと思ったその時、アオは逃げるようにして教室へ戻った。

「あっついからやっぱ教室で食べよー」

 だなんて空笑いをして。

 食事を終えた私たち。今度は黒板の前で話をする。日付の下に書かれたふたつの苗字を見て、アオが言う。

「日直って大体男女ペアだよな。これはどっちがどっちなんだろう?」

 深井、鈴木。同じ筆跡の二名からはそんなことわかるはずがなく、私は「さあ」と言うだけに留まった。それに対し「まいっか」と赤のチョークを持ったのはアオ。ふたりの間に一本の線を引く。

「ちょっと、なにしてんのアオっ」
「相合い傘でも描こうかと思って」
「そんなの怒られるよっ」
「誰に」
「す、鈴木さんとか」
「でも深井くんは嬉しく思うかもしれない」

 にやり。いたずらに笑って続きを描くアオ。あっという間にその傘は完成した。

「ははっ。夏休みあけのふたりの反応見てえっ」

 教卓へと背をつけ、自分の作品を嬉しそうに眺めるアオの横、私が持ったのは黒板消し。

「えー。消しちゃうの?」

 悪ふざけを阻まれたアオは、肩を落とす。ぶーぶーと膨れ出した彼には構わずに、私は自分のしたいことをした。

「アオは『瀬戸』だよね」

 ハートの傘の下、ふたつの苗字を消し終えて、今度は白のチョークを持つ。

「私は『水野』だからあ……」

 深井が瀬戸に、鈴木が水野になれば、これは私とアオの相合い傘だ。
 くるり、振り返ってアオを見ると、彼は喜とも哀とも言い難い、感情の読み取れない顔をしていた。
 嫌なのかな。
 そう不安に思った時、彼が動いた。
 サササと『瀬戸』の部分だけを消したアオは、続けざまに持った白いチョークで苗字を書き直す。最後にカツッとピリオドを打つように黒板をそれで叩くと、反転して私を見た。

「俺の名は、神田(かんだ)(あおい)

 それは、聞き覚えのある名前だった。

「神田、葵……?」
「そう」

 神田葵。それは、同級生で唯一帰宅部で、不登校だった男の子の名前だ。

「アオは、瀬戸アオじゃないの……?」

 どうして偽名なんか使っていたの、どうして俺もここが母校だよって教えてくれなかったの。
 アオに聞きたいことは山ほどあるが、私が崖の淵にでも立たされたような気分になったのは当時流れていたこんな噂を思い出したから。

 神田葵って脳の病気なんだって。
 いつ何が起きてもおかしくないからって、お母さんが学校に通わせていないらしいよ。
 遺伝性なんだって、お兄ちゃんも同じ病気で一回死にかけたんだって。
 二十歳まで生きられんのかなあ。

 同級生たちの言葉が頭の中で木霊して、身の毛がよだった。

 チョークを置いたアオは、教室の扉へ手をかけると私の顔も見ずに言う。

「そろそろ行こっか」

 またはぐらかされる。それは嫌だったから彼の背中に叫んだ。

「ちょっと待ってよアオっ!どういう意味かわかんないよ、アオはアオじゃなかったってこと!?」

 誰って、アオだけど。瀬戸アオ。アオって呼んで。

 初めて出逢った時、アオは間違いなくそう言ってたのに、あなたは脳に病気を抱えた神田葵くんだったの?

「答えてよアオ!」

 振り向きもしないアオの腕を掴み半ば強引にひっくり返すと、奥歯を噛み締めた彼と目が合った。歯の隙間から彼の濁った声が抜けてくる。

「だって寧々は、神田葵との思い出なんて覚えてないでしょ……」
「思い出?」
「中学の入学式、寧々が俺を助けてくれたこと」

 中学、入学式。咄嗟にはその記憶を取り出せずに黙り込むと、アオが私にきちんと身体を向けた。

「体育館へ向かう途中頭痛に襲われて蹲ってた俺を、寧々は保健室まで連れて行ってくれた。他の誰も見向きもしなかったのに、寧々だけは『友達だ』って言って俺を助けてくれた」

 制服の胸元に同じ花をつけた男の子。四年以上も前のことで鮮明には思い出せないが、記憶にはある。

「あ、あの時の彼はアオだったの?」
「そう。でも俺はそれがきっかけで親に過剰に心配されて学校へはあまり行けなくなったから、寧々とはそれ以来中学で会ってない」
「い、言ってくれればよかったのに。今年の夏、海で会った時にっ」
「言えるかよっ。中一からずっと好きな相手に『誰』って二回も聞かれてそんなのっ」

 ナンパだと思っていたアオとの出逢い。けれどそれは違かった。

「中一から……?」

 にわかには信じ難くてそう聞くと、彼はこくんと頷いた。

「入学式の日から俺はずっと寧々が好きだったよ。体調が回復して高校に通えるようになってからは、いつ寧々に告白しようかってずっと考えてた。でも寧々はさ、いつも兄貴を見てるんだもん。向かい側のホーム、俺の隣にいる兄貴を」
「え、向かい側のホーム?」
「寧々の好きな人は俺の兄貴だったんだよ。俺は兄貴を見てる寧々をいつも見てた」

 はっとその時目の前の空気を吸ったのは、その彼が消えた理由がわかってしまったから。

「アオのお兄さんって、たしか病気で亡くなったっていう……」

 死んだから。だから彼は突然いなくなった。

「そうだよ。だからもう二度とあのホームには戻ってこない」

 同級生の噂話が再び頭を駆け巡る。二十歳まで生きられるのかな、なんてそんな酷い言葉たちが私を支配していく。

「アオは、お兄さんと同じ病気なの……?」

 一歩近寄り、アオに聞いた。

「でも高校行けるようになったってことはもう治ったんだよね?もう大丈夫なんでしょう?」

 泣きそうになってしまう自分が嫌になる。まだ答えも言われていないのに、勝手に悲観的なことを予測している私は最低だ。けれどアオの一本に結ばれていた唇が開けば、その予測は現実のものとなった。

「今は薬で誤魔化しているだけ。俺はまだ大丈夫じゃないから、アメリカに手術しに行くんだ。成功率は三パーセント」