蒼葉に連れてこられたのは、二人だけの「秘密の場所」だった。夕日はさっきよりも海に近づいて、空も海も真っ赤に染まっている。昨日と同じ、血のような赤。だけど昨日よりは、怖くない。でこぼこの地面に並んで腰を下ろして、ぼくたちは夕焼けを眺めた。潮を含んだ風が、生ぬるく頬を撫でていく。かもめが甲高く鳴きながら、海の彼方へと飛んでいく。一日の終わりが近づくにつれ、ぼくらの影は濃さを増す。

 夕焼けをぼんやりと眺める、蒼葉の横顔を眺めてみた。髪に隠れて、やっぱり表情はよく見えない。蒼葉は何を考えているんだろう。ぼくのこと、どう思っているんだろう。怒ってないかな。あきれたり、してないかな。気持ち悪いって、思ってないかな。

「……ぼく、おんなになったみたい」 

 膝を抱えて俯いたら、蒼葉が振り向く気配がした。ああ、こんなこと、言いたくないのに。認めたくないのに。

「どろどろした血が出るたびに、自分が自分じゃなくなっていくみたい。……変わりたくなんてないのに。だから逃げ出したのに……」 

 何度目か分からない涙が滲む。情けなくて恥ずかしくて、ぼくは腕の中に顔を埋めた。昨日からぼくは泣いてばかりだ。きっと蒼葉もあきれている。あとどれだけ涙を流せば、悲しみはなくなるのだろう。

「……お前はまだ、おんなじゃない」 

 ぼそっと、蒼葉が呟いた。風の音にかき消されてしまいそうなほど、小さな声だった。

「立夏たちとお前、全然違うだろ」 

 ゆっくりと顔を上げてみたら、真剣な顔の蒼葉がそこにいた。

「お前はまだ、何も変わってない」
「……傍にいても、いいの」 

 ガラガラとかすれた声が出た。涙で顔はぐちゃぐちゃだし、夕日よりも真っ赤な目は重くて腫れぼったい。蒼葉はおかしそうにくすっと笑って、頬に伝う涙を指で拭った。

「好きなだけ、いればいい」 

 海の底に潜ったように、視界がじんわりと滲んでいく。食いしばった歯がガチガチと震えて、小さく開いた口の間からはまた嗚咽が漏れ始めた。 

 ぼくは大きく泣き叫びながら、蒼葉の胸に飛び込んだ。蒼葉。蒼葉。広い背中に腕をまわして、何度も何度も名前を呼ぶ。蒼葉はびっくりしたみたいだけど、やがてぎこちなくぼくの体を抱き締めてくれた。細い腕が蔓のように絡まる。あったかくて大きい蒼葉の体。心臓の音が聞こえる。 

 蒼葉はいつだってぼくに居場所をくれる。出会って少ししか経っていない。お互いのことだってよく知らない。あの夜、蒼葉がどうして駄菓子屋にいたのか。何から逃げているのか。どうしてぼくに手を差し伸べてくれたのか。ぼくには何も分からない。 

 だけど、それでもぼくは、蒼葉の傍にいたいと思った。いつかこの逃避行が終わるとしても。本物のおんなになったとしても。蒼葉に、こうして抱き締めてほしいと思った。 

 ようやく涙が枯れ果てた頃には、太陽は半分以上も海に沈んで、徐々に姿を消そうとしていた。ぼくは蒼葉の体にすっぽりと包まれながら、今日という日が死んでいくのをぼんやりと眺めた。視界いっぱいに広がる赤。魂が燃えている色だと蒼葉は言った。今日が、幾人もの魂を燃やしながら死んでいく。喜びも悲しみも道連れにして、海の底へと沈んでいく。

「……いつか、心もカラダも、おんなになる日が来るのかな」 

 ぽつりとそんなことを呟くと、蒼葉はちょっと首を傾げて、後ろからぼくの顔を覗き込んだ。

「怖いか」
「……うん」 

 きっといつか、もっと背が伸びて、胸も膨らんで、「ぼく」でいられなくなる時が来る。その時ぼくは、ぼくのままでいられるのだろうか。今抱いている感情を、変わらずに持っていられるだろうか。

「……じゃあ俺が、おんなにしてやる」 

 耳元で、そっと蒼葉が呟いた。ぼくは勢いよく振り返った。

「本当?」
「ああ」 

 ぼくを抱き締める腕に力を込めて、蒼葉が頷いた。

「その時が来たらな」 

 潮風が長い前髪を揺らして、蒼葉の黒い瞳を露わにした。蒼葉は泣き出しそうな目で海を見ていた。まるで迷子になった子供のように。消えていく夕日を惜しむような寂しい目で。夕日に照らされた蒼葉の姿は、夕焼けに呑み込まれてしまいそうなほど弱々しかった。それでも、ぼくを抱き締める腕の力だけはとても強く、また、背中から伝わるぬくもりも、震えるくらい温かかった。 

 ぼくは蒼葉に体重を預けて、もう一度、夕焼けに目線を戻した。昨日と同じ赤い色を、もう恐れることはない。蒼葉が、傍にいてくれるから。こうして、抱き締めてくれるから。きっとぼくは、おんなになっても変わらずにいられるんだ。

 夕日が海の底に沈んでいく。あとには赤い空だけが残る。遠くの空に、ぼんやりと白い月が見える。もうすぐ、夜がやってくるのだ。温かで静かな、星たちの光を連れて。