子供のぼくでも分かるくらい、ユリさんは美人だ。艶やかな長い髪。百合の花みたいに白い肌。花の形をした銀色のピアスがよく似合う。テレビで見るどんな女優も、ユリさんには敵わない。どうしてこんなに綺麗な人が、寂れた町にいるんだろう。結婚とかしないのかな。遠くにいる恋人を待っているとか、死んだ恋人を想い続けているとか、根も葉もない噂話ばかりを耳にするけど、本当のことは誰も知らない。
「みんなでプールに行くんだって?」
「そうだよ」
寧々が頷いた。
「私も泳ぎたいなぁ。もう何年も泳いでないや」
「じゃ、ユリさんも一緒に行こうよ」
ぼくが誘うと、ユリさんは「あら、嬉しい」と両手を合わせた。
「でも残念。水着持ってないの」
「買えばいいんだよ、そんなの」
「水着なんて着れる体じゃないわ」
どの口が言うんだ、どの口が。ユリさんが水着を着れなかったら、世の中の大半の女性は水着なんて着れないぞ。寧々も同じことを思ったのか、食べることも忘れて、ユリさんの体をじっと見ている。
ぼくたちの視線から逃れるように、ユリさんは「あ、くじ持ってくるね」と席を立った。
「……ユリさんって、何で恋人いないのかな」
「あたしも今、同じこと思った」
声を潜めて話していると、テルが「ん?」と不思議そうに顔を上げた。
「何か言った?」
「ううん、何でも」
ぼくたちは同時に首を振って、再びかき氷を食べ始めた。
すずしいはずの部屋なのに、氷はどんどん溶けていく。戻ってきたユリさんが、くじ引きの箱をテーブルに置いた。
「はい、今回の分。一人一回ね」
「俺、一番乗り」
かき氷をぺろりと平らげたテルが、すかさず穴に手を突っ込む。掴み取ったくじを開いて、テルはちぇっと舌を打った。
「なぁんだ、ハズレか。野ばらも引けよ」
「今それどころじゃない」
ぼくが食べ終わるのが先か、氷が溶けるのが先か。痛む頭を押さえながら、ぼくは真剣にスプーンを動かす。三人の会話が聞こえてくるけど、聞いている余裕なんてなかった。
「遊ぶのもいいけど、ちゃんと宿題もやらないとだめよ。夏休みって短いんだからね」
「あたしと野ばらは大丈夫。問題はテルね」
「な、何だよ」
「だってテル、いっつも最終日に慌ててやってるじゃん。テルのお母さんが言ってたよ」
「今年はちゃんとやるよ、今年は……」
「どうだかなぁ」
「みんな本当に仲良しね」
ユリさんがくすくすと笑う。そうよ、と寧々が誇らしげに胸を張った。テルが照れくさそうにほっぺたを掻く。ぼくは相変わらず、かき氷とにらめっこ中。
若いぼくらにとって、時間の流れはとても早い。どうでもいい話で笑い合って、ふざけ合って、また笑って。そうしているうちに、太陽はどんどん西に傾いていく。夕焼けに染まる空を見て、ようやくぼくらは、どれだけ時が経ったか気づくのだ。
「そろそろお帰り。おうちの人、心配するわ」
ユリさんの言葉で、ぼくたちは解散した。
地面に長く伸びた影を眺めながら、ぼくは一人家路に着いた。一日の終わりが近づいて、ようやく蝉の鳴き声が弱まってきた。ランドセルを背負って下校している子たちも、もういない。
「あ」
何気なくポケットの中に手を入れたら、小さな紙のようなものに触れた。さっき引いて、そのまま放置していたくじだ。取り出して中を開くと、大きく「あたり」と書かれていた。
ぼくは進行方向を変えて、来た道を戻り始めた。沈む太陽から逃げるように、一日の終わりを拒むように、自然と駆け足になった。
「ユリさん」
駄菓子屋に戻って名前を呼ぶと、ユリさんがひょっこりと顔を出した。
「どうしたの? 忘れ物?」
「ううん。あたり出た」
くじを見せると、ユリさんは「あら、おめでとう」とにっこり笑った。
「じゃ、好きなお菓子取っていって」
「はぁい」
ぼくは大きく返事をして、お菓子が並ぶ棚を眺めた。昔ながらのべっこう飴から、コンビニで売られているスナック菓子まで揃っている。どれにしようか悩んでいたら、ふと、美奈子先生の言葉を思い出した。
「……ねぇ、ユリさん」
「なぁに?」
畳に座っていたユリさんが身を乗り出した。ぼくはちょっとだけためらってから、
「ぼくのこと、変だと思う?」
「え?」
こんなことを話したら、ユリさんを困らせてしまうかもしれない。迷惑だと思われるかもしれない。そう思ったら途端に怖くなって、でも誰かに聞いてほしくて、ぼくは小さな声で続けた。
「今日先生にね、女の子なのに『ぼく』って言うのはやめなさいって言われたの」
「どうして野ばらちゃんは、『ぼく』って言うの? この間からだよね」
「……おんなになりたくないんだ」
両手を背中の後ろで組みながら、ぼくは答える。お菓子を選ぶふりをしながら、なるべく自然に、「悩んでなんかいませんよ」って表情を作る。
「おんなになったら、いろんなことが変わっていくような気がして。別に男になりたいわけじゃないの。今と違う自分になるのが怖いだけなんだ」
きっともう、すぐそこまで来ている。春の桜が、夏の蝉が、沈んでいく太陽が、早く大人になれとぼくらを急かす。楽しいプールの授業も、テルたちと過ごすこの時間も、全てなくなってしまうような気がする。そしたらぼくは、真っ赤な血に汚されて、世界の外に弾き出されてしまうかもしれない。
「じゃあ、今のままでいいんじゃないかな?」
ユリさんの言葉に、ぼくは思わず棚の上から顔を出した。カウンターに肘をつきながら、ユリさんは優しく微笑んでいた。
「いつか、野ばらちゃんが本当に納得できるまで、そのままでもいいと思うよ。周りの変化に戸惑うかもしれないけど、それで全部が変わるわけじゃないんだから」
「……そう、かなぁ」
「そうよ。テル君だって寧々ちゃんだって、きっと変わらないわ。それにみんなが変わっちゃったら、私だって困るのよ」
「どうして?」
だって、とユリさんは続けた。
「三人が来てくれなかったら、うちの売上減っちゃうもん」
ぼくはぷっと吹き出した。冗談じゃないのよ、と、ユリさんが冗談っぽく頬を膨らませる。その表情がおかしくて、ぼくはおなかを抱えて笑った。
「もし悩んでいたら、またおいで。話くらい、聞いてあげるから」
「ありがとう」
笑いすぎて溢れた涙を拭った。ユリさんの笑顔に見送られながら、ミルクキャラメルを手に取って、夕日に向かって全速力で走った。
ユリさんってすごい。さっきまで心に積もっていた不安が、一瞬で吹き飛ばされてしまった。
もしいつか、おんなになる時が来たら。ユリさんみたいなおんなになりたい。綺麗で、優しくて、かっこいい。そんな大人のおんなに。
「みんなでプールに行くんだって?」
「そうだよ」
寧々が頷いた。
「私も泳ぎたいなぁ。もう何年も泳いでないや」
「じゃ、ユリさんも一緒に行こうよ」
ぼくが誘うと、ユリさんは「あら、嬉しい」と両手を合わせた。
「でも残念。水着持ってないの」
「買えばいいんだよ、そんなの」
「水着なんて着れる体じゃないわ」
どの口が言うんだ、どの口が。ユリさんが水着を着れなかったら、世の中の大半の女性は水着なんて着れないぞ。寧々も同じことを思ったのか、食べることも忘れて、ユリさんの体をじっと見ている。
ぼくたちの視線から逃れるように、ユリさんは「あ、くじ持ってくるね」と席を立った。
「……ユリさんって、何で恋人いないのかな」
「あたしも今、同じこと思った」
声を潜めて話していると、テルが「ん?」と不思議そうに顔を上げた。
「何か言った?」
「ううん、何でも」
ぼくたちは同時に首を振って、再びかき氷を食べ始めた。
すずしいはずの部屋なのに、氷はどんどん溶けていく。戻ってきたユリさんが、くじ引きの箱をテーブルに置いた。
「はい、今回の分。一人一回ね」
「俺、一番乗り」
かき氷をぺろりと平らげたテルが、すかさず穴に手を突っ込む。掴み取ったくじを開いて、テルはちぇっと舌を打った。
「なぁんだ、ハズレか。野ばらも引けよ」
「今それどころじゃない」
ぼくが食べ終わるのが先か、氷が溶けるのが先か。痛む頭を押さえながら、ぼくは真剣にスプーンを動かす。三人の会話が聞こえてくるけど、聞いている余裕なんてなかった。
「遊ぶのもいいけど、ちゃんと宿題もやらないとだめよ。夏休みって短いんだからね」
「あたしと野ばらは大丈夫。問題はテルね」
「な、何だよ」
「だってテル、いっつも最終日に慌ててやってるじゃん。テルのお母さんが言ってたよ」
「今年はちゃんとやるよ、今年は……」
「どうだかなぁ」
「みんな本当に仲良しね」
ユリさんがくすくすと笑う。そうよ、と寧々が誇らしげに胸を張った。テルが照れくさそうにほっぺたを掻く。ぼくは相変わらず、かき氷とにらめっこ中。
若いぼくらにとって、時間の流れはとても早い。どうでもいい話で笑い合って、ふざけ合って、また笑って。そうしているうちに、太陽はどんどん西に傾いていく。夕焼けに染まる空を見て、ようやくぼくらは、どれだけ時が経ったか気づくのだ。
「そろそろお帰り。おうちの人、心配するわ」
ユリさんの言葉で、ぼくたちは解散した。
地面に長く伸びた影を眺めながら、ぼくは一人家路に着いた。一日の終わりが近づいて、ようやく蝉の鳴き声が弱まってきた。ランドセルを背負って下校している子たちも、もういない。
「あ」
何気なくポケットの中に手を入れたら、小さな紙のようなものに触れた。さっき引いて、そのまま放置していたくじだ。取り出して中を開くと、大きく「あたり」と書かれていた。
ぼくは進行方向を変えて、来た道を戻り始めた。沈む太陽から逃げるように、一日の終わりを拒むように、自然と駆け足になった。
「ユリさん」
駄菓子屋に戻って名前を呼ぶと、ユリさんがひょっこりと顔を出した。
「どうしたの? 忘れ物?」
「ううん。あたり出た」
くじを見せると、ユリさんは「あら、おめでとう」とにっこり笑った。
「じゃ、好きなお菓子取っていって」
「はぁい」
ぼくは大きく返事をして、お菓子が並ぶ棚を眺めた。昔ながらのべっこう飴から、コンビニで売られているスナック菓子まで揃っている。どれにしようか悩んでいたら、ふと、美奈子先生の言葉を思い出した。
「……ねぇ、ユリさん」
「なぁに?」
畳に座っていたユリさんが身を乗り出した。ぼくはちょっとだけためらってから、
「ぼくのこと、変だと思う?」
「え?」
こんなことを話したら、ユリさんを困らせてしまうかもしれない。迷惑だと思われるかもしれない。そう思ったら途端に怖くなって、でも誰かに聞いてほしくて、ぼくは小さな声で続けた。
「今日先生にね、女の子なのに『ぼく』って言うのはやめなさいって言われたの」
「どうして野ばらちゃんは、『ぼく』って言うの? この間からだよね」
「……おんなになりたくないんだ」
両手を背中の後ろで組みながら、ぼくは答える。お菓子を選ぶふりをしながら、なるべく自然に、「悩んでなんかいませんよ」って表情を作る。
「おんなになったら、いろんなことが変わっていくような気がして。別に男になりたいわけじゃないの。今と違う自分になるのが怖いだけなんだ」
きっともう、すぐそこまで来ている。春の桜が、夏の蝉が、沈んでいく太陽が、早く大人になれとぼくらを急かす。楽しいプールの授業も、テルたちと過ごすこの時間も、全てなくなってしまうような気がする。そしたらぼくは、真っ赤な血に汚されて、世界の外に弾き出されてしまうかもしれない。
「じゃあ、今のままでいいんじゃないかな?」
ユリさんの言葉に、ぼくは思わず棚の上から顔を出した。カウンターに肘をつきながら、ユリさんは優しく微笑んでいた。
「いつか、野ばらちゃんが本当に納得できるまで、そのままでもいいと思うよ。周りの変化に戸惑うかもしれないけど、それで全部が変わるわけじゃないんだから」
「……そう、かなぁ」
「そうよ。テル君だって寧々ちゃんだって、きっと変わらないわ。それにみんなが変わっちゃったら、私だって困るのよ」
「どうして?」
だって、とユリさんは続けた。
「三人が来てくれなかったら、うちの売上減っちゃうもん」
ぼくはぷっと吹き出した。冗談じゃないのよ、と、ユリさんが冗談っぽく頬を膨らませる。その表情がおかしくて、ぼくはおなかを抱えて笑った。
「もし悩んでいたら、またおいで。話くらい、聞いてあげるから」
「ありがとう」
笑いすぎて溢れた涙を拭った。ユリさんの笑顔に見送られながら、ミルクキャラメルを手に取って、夕日に向かって全速力で走った。
ユリさんってすごい。さっきまで心に積もっていた不安が、一瞬で吹き飛ばされてしまった。
もしいつか、おんなになる時が来たら。ユリさんみたいなおんなになりたい。綺麗で、優しくて、かっこいい。そんな大人のおんなに。