「じゃ、あとでね」
「うん!」
下校時刻。反対方向へ歩く寧々に手を振って、ぼくは一目散に家へと向かった。両腕を大きく振りながら、ランドセルの群れを追い越していく。右肩に掛けた水着入れの袋が、何度も何度もずり落ちてくる。ランドセルに入った教科書が上下に揺れて、ゴトゴトとひっきりなしに音を立てている。そのくらいの妨害じゃ、ぼくのスピードは落ちやしない。
十分もせずに玄関の扉を開けたぼくは、ランドセルを玄関に放り投げた。
「ただいま! いってきまぁす」
お母さんの怒鳴り声が届くより早く、ぼくは公園へと走り出した。夏の日差しがギラギラ照りつけて痛い。軽くなった体を目一杯動かして、ぼくはでこぼこの道を走る。信号になんて邪魔されない。視界を阻む大きなビルもない。絵の具をこぼしたみたいな青空と蝉の鳴き声が、どこまでもぼくを追いかけてくる。
一日の長さは日ごとに伸びて、午後四時を過ぎても空は昼の顔をしたままだ。日が沈むまで三時間もあるけれど、ぼくらにとっては短すぎる。公園で遊んで、おしゃべりをして、また遊ぶ。そんなくだらない時間を、毎日毎日繰り返す。
ぼく、御陵野ばらの住む町は、どうしようもなくつまらない場所だ。最寄駅に着く電車は一時間に一本だけ。平日でも休日でも、道路を走るのは暇をもてあました猫くらいなものだ。夏が深まると、人の話し声よりも蝉の鳴き声が溢れ返る。ぼくらの遊び場になるのは、遊具の少ない公園と、二十一世紀に乗り遅れたような商店街だけだ。しゃれたショッピングモールや遊園地なんてありゃしない。海もなければ山もない。田舎と呼ぶには中途半端で、都会と呼ぶには無理がある。そんな辺鄙な町で、ぼくたちは、四回目の夏休みを迎えようとしている。
「遅いぞぉ、野ばら」
公園に到着すると、ジャングルジムのてっぺんからテルの声が降ってきた。
「テルが、はや、すぎるんだよぉ……」
弾む息に阻まれながら、なんとか声を搾り出す。カラカラに乾いた喉が痛くて、ぼくはゴホゴホとむせこんだ。額に浮かんだ汗を拭って、よろよろとジャングルジムを登っていく。目深に被ったキャップ帽から、にっと意地悪な笑みが覗いた。
「今日、プールで溺れてただろ」
「見てたの?」
「目立ってたんだもん、お前。何で足着くのに溺れるんだよ」
「溺れてないよ。途中で疲れて立っちゃっただけ」
どうだかなぁ、と意地悪く言って、テルがぼくの手を掴んだ。へとへとに疲れたぼくの体を、力強く引き上げる。テルの隣に腰掛けて、ぼくは公園を見下ろした。
鉄棒とブランコ、シーソーに砂場。そしてこのジャングルジムが、ぼくらの王国にある大事な遊具だ。ここから見下ろすと、どれもこれも小さく見える。今、この瞬間だけ、ぼくらは小さな王様になる。
「わ、もう来てたの」
もう一人の小さな王様が、慌てた様子もなく公園に入ってきた。大きな麦わら帽子を被っている。
「寧々もこっち来いよ」
「やぁだ」
テルの誘いを断って、寧々は日陰のベンチに腰掛けた。
「だってそこ、暑そうなんだもん」
「そんなに変わんないだろ」
「変わるよ。そっちの方が太陽に近いもん」
右手で頭を触ってみると、ホッカイロみたいに熱がこもっていた。このままここにいたら、髪の毛が太陽に焼き尽くされてしまいそうだ。身の危険を感じて、ぼくはのろのろとジャングルジムを下りた。
「あっ、裏切ったな」
「今日はもう無理だよ。日陰で遊ぼう」
「何だよ、二人ともだらしないなぁ」
そう言いながらも、テルはぼくに続いてジャングルジムから下り始めた。ぶらぶらと両足を揺らしながら、寧々がくすくすと笑っている。うだる暑さを避けながら、ぼくらは砂場で遊び始めた。
ぼくと寧々、そしてテルは、保育園からの幼なじみだ。親同士が仲良しなこともあって、物心つく前から一緒にいる。学校が終わると、自然とぼくらはここに集まる。いつから始まったかも覚えていない、三人の習慣だ。こうして三人で遊んでいると、暑さも寒さもさして問題ではなくなる。どれだけ時間を与えられても足りない。まだ、足りない。そう思えるくらい、ぼくらは自由を満喫している。
とはいえ、炎天下の公園に何時間もいるのはさすがに辛い。遊び疲れたぼくたちは、いつもと同じように休憩所へと向かうことにした。
「ユリさーん、かき氷ちょうだい」
公園から徒歩一分。駄菓子屋に着いたぼくたちは、奥の部屋に向かって大きく叫んだ。「はぁい」という声とともに障子が開いて、白いワンピースを着たユリさんが出てきた。
「みんな、何味がいい?」
「俺、ブルーハワイ」
「ぼくはレモン」
「じゃあ、あたしはいちご」
「はいはい。じゃあ、ちょっと待っててね」
ユリさんはにっこり笑って、気合いを入れるみたいに長い髪を一つに束ねた。露わになった白いうなじと、ゆらゆら揺れるポニーテールが、部屋の奥に消えていく。
ユリさんの姿を目で追っていたら、寧々がひっそりと囁いてきた。
「ねぇ、ユリさんって綺麗だよね」
「うん……」
ぼくはユリさんから目を逸らせないまま、駄菓子屋の前にあるベンチに腰掛けた。汗一つかいていない白い肌が、太陽よりも光って見える。垂れた髪を耳に掛ける仕草に、どきんと心臓が跳ねた。
「だよね。テルもそう思うよね?」
「はっ? お、俺は別に」
「ちょっとぉ、何照れてんの?」
「そ、それよりさ、夏休み! どっか遊びにいこうぜ」
「あっ、ぼく、プール行きたい」
二人の方に顔を戻して、ぼくは勢いよく手を挙げた。隣に座るテルが、ええーっと不満げに叫んだ。
「プールなんて、学校にもあるじゃん」
「そういうのじゃなくて、もっとこう、ザバーンってなるやつ」
「ウォータースライダー?」
寧々がきょとんと首を傾げた。
「そう。やったことないからやってみたい」
「それもいいけど、どうせなら海に行こうぜ」
「ぼく、海行ったことない」
「えっ? そうだっけ」
びっくりしたような寧々の声に、ぼくはうん、と頷いた。
「海、すごいんだよ。夕日が映るともう、最高。ね、テル」
「おう。行ったことないなら行くべきだよ。まぁ、気軽に行ける距離じゃないけど……」
だよねぇ、と同意して、寧々はがっくりと肩を落とした。
ぼくは真っ青な空を仰いで、テレビや本でしか見たことのない海を想像した。コンクリートの壁に囲まれた、学校のプールとは全く違う。さらさらとした白い砂浜。いつまでもやまないさざなみ。広大な海に体を浮かべたら、どんな気持ちになるだろう。そう思ったら、わくわくした。
「まっ、海はいつか行くとしてさ、とりあえずプール行こうぜ」
「そうだね。いつにする?」
テルは考え込むようにうーんと唸って、
「夏休みが金曜からだから……土曜!」
「おっけー!」
ぼくと寧々は同時に叫んだ。
「みんなぁ、今日暑いからこっちでお食べ」
「はぁい!」
ぼくらはうさぎみたいに飛び跳ねて、我先にと部屋に上がり込んだ。大きなテーブルの上には、色とりどりのかき氷が並べられていた。黄色いシロップのかかったかき氷の前に座って、ぼくはいただきまぁす、と手を合わせた。
雪みたいな氷を口に含むと、舌の上がひんやりと冷えた。冷たくて、甘い。火照った体から熱を逃がすように、ぼくらは無我夢中でかき氷を口に運んだ。
「いいねぇ、小学生の夏休み。私も戻りたいな」
座布団の上に腰を下ろして、ユリさんがうらやましそうにぼくらを眺めた。キャップ帽を脱いだテルが、ふと思いついたように、
「そういえば、ユリさんって何歳?」
「こら、そういうのは女性に聞くことじゃないぞ」
茶化すようにそう言って、ユリさんはテルの頭を軽く小突いた。いてて、と頭を押さえながら、テルがはにかんだように笑う。
ユリさんは駄菓子屋の看板娘だ。数ヶ月前におばあちゃんが入院してからは、ユリさんが一人で店番をしている。町のみんなからは、「駄菓子屋小町」なんてダサいあだ名で呼ばれてるけど、本人は全く気にしていないみたいだ。
「うん!」
下校時刻。反対方向へ歩く寧々に手を振って、ぼくは一目散に家へと向かった。両腕を大きく振りながら、ランドセルの群れを追い越していく。右肩に掛けた水着入れの袋が、何度も何度もずり落ちてくる。ランドセルに入った教科書が上下に揺れて、ゴトゴトとひっきりなしに音を立てている。そのくらいの妨害じゃ、ぼくのスピードは落ちやしない。
十分もせずに玄関の扉を開けたぼくは、ランドセルを玄関に放り投げた。
「ただいま! いってきまぁす」
お母さんの怒鳴り声が届くより早く、ぼくは公園へと走り出した。夏の日差しがギラギラ照りつけて痛い。軽くなった体を目一杯動かして、ぼくはでこぼこの道を走る。信号になんて邪魔されない。視界を阻む大きなビルもない。絵の具をこぼしたみたいな青空と蝉の鳴き声が、どこまでもぼくを追いかけてくる。
一日の長さは日ごとに伸びて、午後四時を過ぎても空は昼の顔をしたままだ。日が沈むまで三時間もあるけれど、ぼくらにとっては短すぎる。公園で遊んで、おしゃべりをして、また遊ぶ。そんなくだらない時間を、毎日毎日繰り返す。
ぼく、御陵野ばらの住む町は、どうしようもなくつまらない場所だ。最寄駅に着く電車は一時間に一本だけ。平日でも休日でも、道路を走るのは暇をもてあました猫くらいなものだ。夏が深まると、人の話し声よりも蝉の鳴き声が溢れ返る。ぼくらの遊び場になるのは、遊具の少ない公園と、二十一世紀に乗り遅れたような商店街だけだ。しゃれたショッピングモールや遊園地なんてありゃしない。海もなければ山もない。田舎と呼ぶには中途半端で、都会と呼ぶには無理がある。そんな辺鄙な町で、ぼくたちは、四回目の夏休みを迎えようとしている。
「遅いぞぉ、野ばら」
公園に到着すると、ジャングルジムのてっぺんからテルの声が降ってきた。
「テルが、はや、すぎるんだよぉ……」
弾む息に阻まれながら、なんとか声を搾り出す。カラカラに乾いた喉が痛くて、ぼくはゴホゴホとむせこんだ。額に浮かんだ汗を拭って、よろよろとジャングルジムを登っていく。目深に被ったキャップ帽から、にっと意地悪な笑みが覗いた。
「今日、プールで溺れてただろ」
「見てたの?」
「目立ってたんだもん、お前。何で足着くのに溺れるんだよ」
「溺れてないよ。途中で疲れて立っちゃっただけ」
どうだかなぁ、と意地悪く言って、テルがぼくの手を掴んだ。へとへとに疲れたぼくの体を、力強く引き上げる。テルの隣に腰掛けて、ぼくは公園を見下ろした。
鉄棒とブランコ、シーソーに砂場。そしてこのジャングルジムが、ぼくらの王国にある大事な遊具だ。ここから見下ろすと、どれもこれも小さく見える。今、この瞬間だけ、ぼくらは小さな王様になる。
「わ、もう来てたの」
もう一人の小さな王様が、慌てた様子もなく公園に入ってきた。大きな麦わら帽子を被っている。
「寧々もこっち来いよ」
「やぁだ」
テルの誘いを断って、寧々は日陰のベンチに腰掛けた。
「だってそこ、暑そうなんだもん」
「そんなに変わんないだろ」
「変わるよ。そっちの方が太陽に近いもん」
右手で頭を触ってみると、ホッカイロみたいに熱がこもっていた。このままここにいたら、髪の毛が太陽に焼き尽くされてしまいそうだ。身の危険を感じて、ぼくはのろのろとジャングルジムを下りた。
「あっ、裏切ったな」
「今日はもう無理だよ。日陰で遊ぼう」
「何だよ、二人ともだらしないなぁ」
そう言いながらも、テルはぼくに続いてジャングルジムから下り始めた。ぶらぶらと両足を揺らしながら、寧々がくすくすと笑っている。うだる暑さを避けながら、ぼくらは砂場で遊び始めた。
ぼくと寧々、そしてテルは、保育園からの幼なじみだ。親同士が仲良しなこともあって、物心つく前から一緒にいる。学校が終わると、自然とぼくらはここに集まる。いつから始まったかも覚えていない、三人の習慣だ。こうして三人で遊んでいると、暑さも寒さもさして問題ではなくなる。どれだけ時間を与えられても足りない。まだ、足りない。そう思えるくらい、ぼくらは自由を満喫している。
とはいえ、炎天下の公園に何時間もいるのはさすがに辛い。遊び疲れたぼくたちは、いつもと同じように休憩所へと向かうことにした。
「ユリさーん、かき氷ちょうだい」
公園から徒歩一分。駄菓子屋に着いたぼくたちは、奥の部屋に向かって大きく叫んだ。「はぁい」という声とともに障子が開いて、白いワンピースを着たユリさんが出てきた。
「みんな、何味がいい?」
「俺、ブルーハワイ」
「ぼくはレモン」
「じゃあ、あたしはいちご」
「はいはい。じゃあ、ちょっと待っててね」
ユリさんはにっこり笑って、気合いを入れるみたいに長い髪を一つに束ねた。露わになった白いうなじと、ゆらゆら揺れるポニーテールが、部屋の奥に消えていく。
ユリさんの姿を目で追っていたら、寧々がひっそりと囁いてきた。
「ねぇ、ユリさんって綺麗だよね」
「うん……」
ぼくはユリさんから目を逸らせないまま、駄菓子屋の前にあるベンチに腰掛けた。汗一つかいていない白い肌が、太陽よりも光って見える。垂れた髪を耳に掛ける仕草に、どきんと心臓が跳ねた。
「だよね。テルもそう思うよね?」
「はっ? お、俺は別に」
「ちょっとぉ、何照れてんの?」
「そ、それよりさ、夏休み! どっか遊びにいこうぜ」
「あっ、ぼく、プール行きたい」
二人の方に顔を戻して、ぼくは勢いよく手を挙げた。隣に座るテルが、ええーっと不満げに叫んだ。
「プールなんて、学校にもあるじゃん」
「そういうのじゃなくて、もっとこう、ザバーンってなるやつ」
「ウォータースライダー?」
寧々がきょとんと首を傾げた。
「そう。やったことないからやってみたい」
「それもいいけど、どうせなら海に行こうぜ」
「ぼく、海行ったことない」
「えっ? そうだっけ」
びっくりしたような寧々の声に、ぼくはうん、と頷いた。
「海、すごいんだよ。夕日が映るともう、最高。ね、テル」
「おう。行ったことないなら行くべきだよ。まぁ、気軽に行ける距離じゃないけど……」
だよねぇ、と同意して、寧々はがっくりと肩を落とした。
ぼくは真っ青な空を仰いで、テレビや本でしか見たことのない海を想像した。コンクリートの壁に囲まれた、学校のプールとは全く違う。さらさらとした白い砂浜。いつまでもやまないさざなみ。広大な海に体を浮かべたら、どんな気持ちになるだろう。そう思ったら、わくわくした。
「まっ、海はいつか行くとしてさ、とりあえずプール行こうぜ」
「そうだね。いつにする?」
テルは考え込むようにうーんと唸って、
「夏休みが金曜からだから……土曜!」
「おっけー!」
ぼくと寧々は同時に叫んだ。
「みんなぁ、今日暑いからこっちでお食べ」
「はぁい!」
ぼくらはうさぎみたいに飛び跳ねて、我先にと部屋に上がり込んだ。大きなテーブルの上には、色とりどりのかき氷が並べられていた。黄色いシロップのかかったかき氷の前に座って、ぼくはいただきまぁす、と手を合わせた。
雪みたいな氷を口に含むと、舌の上がひんやりと冷えた。冷たくて、甘い。火照った体から熱を逃がすように、ぼくらは無我夢中でかき氷を口に運んだ。
「いいねぇ、小学生の夏休み。私も戻りたいな」
座布団の上に腰を下ろして、ユリさんがうらやましそうにぼくらを眺めた。キャップ帽を脱いだテルが、ふと思いついたように、
「そういえば、ユリさんって何歳?」
「こら、そういうのは女性に聞くことじゃないぞ」
茶化すようにそう言って、ユリさんはテルの頭を軽く小突いた。いてて、と頭を押さえながら、テルがはにかんだように笑う。
ユリさんは駄菓子屋の看板娘だ。数ヶ月前におばあちゃんが入院してからは、ユリさんが一人で店番をしている。町のみんなからは、「駄菓子屋小町」なんてダサいあだ名で呼ばれてるけど、本人は全く気にしていないみたいだ。