「うわー! 数学わからーん!」
 夏休み、生物部が部室として使っている生物室で、私と先輩三人とで夏休みの宿題をやっている。
 部長をやっている先輩を野放しにしておくと宿題をやらないから他の先輩の監視下で宿題を進めさせるということなのだけれども、部長以外の先輩はそれ以外にも家にいたくない理由があるようだった。でも、その理由は私が知ることはない。
 数学がわからないと言っている部長に声を掛ける。
「先輩も私も数Ⅰですから、一緒にがんばりましょう!」
「おう、頼りにしてるぜ?」
 私と部長のやりとりを聞いて、他の先輩が笑いを堪えながら呆れたような溜息をつく。前に言っていたけれど、ここは部長の方に頼りにしろと言って欲しいところなのだろう。
 私が部長に数学を教えながら宿題を進めていると、チャイムが鳴った。もうお昼時だ。
「そろそろお開きだな」
 そう言って部長がそそくさとノートを閉じると、他の先輩も渋々といったようすでノートと筆記用具、テキストを片付ける。私も片付けて鞄に入れた。
 このあとは帰るだけだ。そう思って部長の方をちらっと見ると目が合って、部長がにっと笑いかけてきた。
 その笑顔を見て、私は咄嗟にこう言った。
「あの! 良かったらこのあと一緒に本屋さんを見ませんか?」
 すると、部長と先輩達が顔を見合わせてからこう返した。
「俺は構わないぜ」
 他の先輩達も、どうやら少しでも家に帰る時間を遅らせたいようで本屋に行く話に乗ってくれた。
「でも、おまえお昼ごはんはどうするんだ?」
 私と目線を合わせてそう訊ねてくる部長に、私はすこし動転しながら返す。
「えっと、ちょっと帰るの遅くなるって家に電話します」
「そっか、それなら大丈夫だな」
「先輩はごはんどうしますか? 連絡しますか?」
「俺は帰ってから自分で作ることになってるから大丈夫。心配すんな」
 他の先輩はどうなのだろうと思ってそちらを見ると、なんとかするとのことだった。
 生物室を出て、学校近くのバス停で先輩達とバスを待つ。部長だけ自転車通学なので、本屋のある駅前まで自転車で行くようだった。
 部長が一足先に自転車で走り去って、しばらくその背中を見送る。部長が見えなくなった頃にバスが来て、私は先輩達とバスに乗り込んだ。
 バスに乗っている間、先輩ふたりが私の両脇に立っている。先輩の内ひとりは私と家の方向が同じなので、普段通学するとき、私の最寄り駅まで送り迎えしてくれている。理由を直接訊いたことはないけれども、きっと痴漢やいじめ対策だろう。
 無言で先輩が守ってくれているのにもかかわらず、私の視線は他のところへと向いていた。バスが走って行く途中で、自転車に乗った部長が窓の外に見えた。部長の背中を追い越して、また離れていくのをじっと見つめていた。
 駅前について、私は先輩達と一緒に駅ビルにある本屋へと向かった。このあたりは他に本屋がないので、ここで待っていれば確実に落ち合えるのだ。そして実際、しばらく待っていたら部長がいつもの笑顔で現れた。
 部長が来たのを確認してから、先輩達は各自見たいのであろうなという本棚の方へと散っていく。部長も、コミックスのコーナーの方へ目をやっていた。
「あの」
 部長が私の側を離れる前に声を掛ける。
「ん? どしたん?」
 背をかがめて私と視線を合わせて、部長が私に訊ねかける。
「あの、先輩のお薦めの本を教えてください!」
 これは口実だ。私はすこしでも部長の近くにいたかった。そんな私の内心も知らずに、部長は頷いてこう答える。
「わかった。じゃああっちの方だな」
 そう言って先輩が向かったのは、先程目をやっていたコミックスのコーナーではなく、動物の本がまとめられている本棚だった。
 爬虫類のコーナーをじっくりと見て、部長が一冊の本を私に差し出した。
 漫画を薦められなかったことを意外に思っていると、部長はまた背をかがめて私と目線を合わせてこう言った。
「この本はカメの種類や飼育方法だけじゃなくて、病気や寄生虫についても写真付きで書いてあるからわかりやすいぞ」
 真面目な顔でそう説明されて私がぱらぱらとページを捲っていると、部長がにっと笑ってこう続ける。
「おまえ、亀が好きだっていつも言ってるから」
「は、はい! 亀さん好きです!」
 部長は私が好きなものを覚えてくれて、受け入れてくれてたんだ。そう思うとどうしようもなくうれしかった。

 あの夏の日から三年。私は獣医学部に入って夏を迎えた。
 私が獣医学部に入ったのは、部長が教えてくれたあの本がきっかけだ。
 高校に入ってからクラスの子ともうまく折り合いが付かず、未来の展望もなにもなかった私に、部長は導きをくれた。
 部長は高校にいる間、ずっと私を見守ってくれていて、それがわかっていたから私は強くなりたかった。
 私はずっと、自分を守ってくれている部長に憧れていた。それはきっと初恋で、あの頃はそのことに気づいていなかったけれども、たしかにあの夏から私は変わったんだ。