翌朝、フレイヤが目を覚ました時には、既にローガンの姿はなかった。
 今日から登城することは聞かされていたので驚きはないけれど、広々とした部屋に1人というのは、やはりなんだか寂しいものだ。

 少しだけシーツに皺がついている、空っぽの寝台の端。
 これでは端と端に寝たことが明らかにわかるだろうと思い、フレイヤは侍女が来るまでの間に中央に寝そべって、行儀悪くジタバタとする。

「……結婚2日目にして閨事の痕を偽装する羽目になる女なんて、王国で私1人くらいかもしれないわね」

 そもそも、深窓のご令嬢であれば、閨教育は「旦那様のなさることに驚かず受け止めましょう」くらいのものすごくざっくりしたものだと聞くし、こんな偽装工作なんて思いつかないのが普通だろう。

 一通り寝具を乱れさせてから起き上がったフレイヤは、そこでようやく、サイドテーブルにある花に気づいた。

「……お花が、増えてる」

 昨日、ローガンがせっかく“長持ちするように”と短刀を使って花を摘んでくれたので、フレイヤは侍女のベラに頼み、それを一輪挿しにしてもらった。

 記憶にある限り、この小さな花瓶はソファ前のテーブルの上に置いてあったはずだが……場所が変わっていることと、花がもう一輪増えていることからして、誰かが意図的に動かしたのだろう。

「このお花……」

 薄紫色の小ぶりな花には、見覚えがあった。婚約後、ローガンがドレスなどとともに、最初に贈ってくれたのと同じ種類のものだ。
 フレイヤの目の色とよく似た薄紫色の花は、窓から射す朝の光を浴びながら、薄青色の花に寄り添う。

(もしも……もしも、ローガン様がこの花を加えたのなら……何を思っての行動なのかしら)

 ただ単に、一輪だけでは寂しいと思ったのか。
 なんとなく選んだ花が、たまたま薄紫だったのか。
 それとも……ソフィア、あるいはフレイヤのことを思ってなのか。

 フレイヤと姉・ソフィアは、体格や顔立ちは違えど、髪の色と目の色はかなり似ているから、何かしらの意図を込めたにしても、対象が自分なのか姉なのかがわからない。

「……意図があるとも限らないし、ね」

 あまり強い日差しを浴びるのも花によくなさそうなので、フレイヤは花瓶をもとあった場所へ戻すことにした。

 あくびを噛み殺しつつソファへ向かっていると、ノックに続いて「失礼いたします」と侍女たちの声が聞こえる。
 最初に入室したのはマーサだった。

「奥様、おはようございます。あら、そのお花は……あらあらあら!」
(この反応からすると……やっぱり、用意してくださったのはローガン様みたいね)

 気になって薄紫色の方の花を花瓶から少し引っ張り出してみると、薄青の花と同じく、斜めに鋭く茎が切られている。

 こんな、何かの捜査みたいな手法で贈り主を確認するのは微妙な心地だが、ローガンがわざわざ摘みに行ってくれた花だとわかって、ほんのり胸の奥が温かくなった。登城を控えて朝の時間は限られていただろうに、フレイヤのために庭園の花を摘み、またここに戻って飾ってくれたのだ。

(ローガン様が一体どんな顔をしてらしたのか見たかったわ)

 たとえ険しい顔だったにしても、持っているのが花なら可愛く思える気がした。



 結婚3日目にして、ようやく明るい気分で朝を迎えられたフレイヤだったが、その気分はあまり長持ちしなかった。
 それきり、ローガンが屋敷に帰ってこなくなったからだ。

 結婚から約2週間が経った今日も、フレイヤは家令から、もうすっかりお馴染みになった台詞を聞かされていた。

「本日も、旦那様はお戻りになられないとのことです」

 この言葉を聞くのは、もう10回目だ。いや、正確に言うと、最初は「本日は、旦那様はお戻りになられないとのことです」だったので9回目か。

 しょうもないことを考えて意識を逸しつつ、フレイヤは「そう」と力なく頷く。

(これは……避けられているのかしら。それとも、ただ忙しいだけ?)

 ついそんな疑念を抱いていると、マーサが「まったくもう、旦那様ったら……!」と憤慨していた。

「素敵な奥様を捕まえたのに、10日も放ったらかしにするなんて!」

 聞けば、マーサはアデルブライト伯爵夫人の遠縁で、ローガンが幼少の頃から働いているのだという。
 使用人としての節度はもちろんあれど、他の使用人たちよりは幾分か遠慮がない。

 彼女が代わりにぷんぷんしているので、フレイヤは逆に気持ちが落ち着き「仕方ないわ」と微笑んだ。

「王太子殿下をお守りするという大切なお務めがあるんですもの。無事に帰ってきてくだされば、私はそれでいいのよ」
「まぁ……!」

 マーサが感激したような表情になるので、フレイヤは苦笑混じりに微笑んだ。

 今の言葉もフレイヤの本心の一部であることに間違いはない。だが、ここまで放っておかれるのは流石に心にくる。
 それに、未来の伯爵夫人としていずれ義母からアデルブライト家の取り仕切りについて教えてもらう予定だが、今は新婚ほやほや。本来ならば甘い蜜月を過ごしているべき時期で、フレイヤに特に予定はなく、それはもう大変に暇であった。

 人間、暇だと余計なことを考えてしまう。

 仕事というのは建前で、ソフィアに会う機会がある王城の方にいたいのではないか。
 屋敷に戻ると、夫婦仲が悪くないと見せかけるために、寝室を共にしなければならないのが憂鬱だからではないか。
 仕事でも疲れている上に、望まない妻と顔を合わせれば、距離を詰める努力をしなくてはならないのが億劫なのだろうか、などなど。

 読書にも身が入らず、かといってアデルブライト伯爵夫人のもとへ「旦那様に相手にされず暇すぎるので教育を早めてください!」と乗り込めば、夫婦仲を心配されてしまいかねない。八方塞がりであった。



「……ねぇ、エヴァ。退屈っていうのは、1つの凶器だわ。私の死因はきっと“退屈”よ」

 結婚から半月、夫と過ごしたのは、式当日を含め約2日。
 暇を極めたフレイヤが半ば死んだ目で呟くので、侍女のエヴァは主の限界を悟った。

「フレイヤ様、気分転換いたしましょう」
「……気分転換?」
「ええ。私は幼少の(みぎり)よりフレイヤお嬢様のおそばにおりますが、お嬢様がこんなにも長期間ひとところでじっとしておられたのは今回が初めてです」
「……! 確かに、そうだわ」

 思えばこの結婚が決まってからというもの、愛馬と早駆けもしていないし、月に一度くらいはお忍びで出かけていた街にも顔を出せていない。

 貴族の結婚というのはやたらと準備することが多く、また、ローガンとソフィアのことについてもあれこれと考えていたから、フレイヤにしては異常なほどに大人しく日々を送っていた。

「慣れない環境というのはただでさえ気疲れするものですし、じっと引きこもっているなど、お嬢様には苦痛でしかないのではないかと思います」
「その通りよ……。読書も好きだけれど、こんなにずーっとじーっとしているなんて、どうにも落ち着かないわ。それに、結婚の話があまりにも突然で、街の顔なじみに何も言わないまま3ヶ月以上経ってしまったし、心配されているかもしれないわね」

 レイヴァーン伯爵令嬢だった頃のフレイヤは、月に1度くらいは城下の街へお忍びで遊びに行っていた。見た目で絡まれたりしないように、長身を生かした男装をして。

 ただ、遠目には15、16くらいの少年に見えたとしても、間近でまじまじと見られたり、話したりすれば、女だということは隠しきれない。
 なので、街でできた顔なじみには『裕福な商家の娘が、親の目を盗むために男装して屋敷を抜け出し息抜きをしている』という設定で通しているのだ。

 何かを偽る時には、嘘の中に事実を混ぜると説得力が増すと言うが、まさにその通り。
 加えて、お忍びで街にやってくる大富豪や貴族の子女は“稀によくいる”くらいの存在らしく、商いをする者たちにとっては上客なので、深く突っ込まれることもない。

 だが、アデルブライト伯爵家の使用人たちに「ちょっと男装して最低限の護衛だけ連れて街に出かけてくるわね!」と言うわけにはいかない。

「街へ出かけたい」と言ったならば、大所帯を引き連れ、おまけに「ローガン・アデルブライト次期伯爵の夫人」としての装いで赴くことになるだろう。それは避けたかった。



 フレイヤは悩んだ。

(皆に“外出したい”と伝えたら、半月も妻を放置しているのが悪いのよって暗に言っている感じになるわよね。それに、ローガン様と一緒じゃないのにフレイヤとしておおっぴらに街に行けば、夫婦仲を疑われそうだわ。かといって、こっそり抜け出したと気づかれるのも……)

 そこまで考えて、フレイヤははたと気づく。

(堂々と外出したら、“失敗”することはないわ。だけど確実に3つは大きな悪影響がある)

 まずは、暗にローガンを責めるような行動になりかねないこと。

 次に、街でアデルブライト次期伯爵夫妻の不仲説が出ること。そうすると、遅かれ早かれ社交界にも噂が広まる。

 最後に、はっきりと顔を覚えられたり、街での顔なじみがフレイヤに気づいたりした場合、これまでのように自由に街を歩けなくなるだろうこと。

 それに対し、お忍びで出かけた場合は、たとえ事が露見したとしても、しばらくは屋敷の中だけで情報を留めておける見込みは高い。

(本当は、ここで大人しくしているのが一番だってわかってる。だけど……このままだと、息が詰まりそうだもの。ローガン様やみんなには迷惑がかからないように、どうにか最善を尽くしましょう)

 目を閉じて長く息を吐き、フレイヤは顔を上げた。

「……エヴァ」
「はい、フレイヤ様」
「ユーリに連絡をつけてちょうだい」
「かしこまりました」
「それから、便箋と封筒の用意を。私の不在に気づかれてしまった時は、まず家令に手紙を渡してほしいの。護衛は連れているから、どうか騒ぎにせず、帰るまで待ってほしいと書くわ」

 フレイヤの作戦はこうだ。

 まず大前提として、忍び出たことが露見しないように、細心の注意を払う。

 しかし、それでも使用人たちに気づかれる可能性はゼロではない。
 もし気づかれてしまった時は、屋敷に残すエヴァから事実を伝えてもらうのだ。

 家令へ向けては、「旦那様の不在への当てつけなどではなく、大仰な外出で手間を取らせたくもなかったので、勝手は承知の上で少しだけ息抜きに出ました。今回だけはどうかお許しください」という旨の手紙を書いておく。

 なにせ半月放置された実績があるし、アデルブライト家の古株である家令ならば、小さい頃のフレイヤのやんちゃぶりを多少は耳にしているはずだ。納得感と、多少の同情くらいは得られるだろう。

 そして帰宅次第、忙しいローガンを煩わせたくないので内密にしてほしいと家令たちを改めて説得すれば、なんとかなるのではないかと思う。

 ……猪突猛進なようでいて、フレイヤは案外したたかでもあった。