──その日の夜。

「奥様はすらっとしていらして何をお召しになっても素敵ですから、着せ替え甲斐がありますねぇ」

 今日こそはフレイヤの体調が万全であることを念入りに確認し、マーサは昨日と同様に張り切って世話を焼く。

「今日はどちらにいたしましょうか。お花と同じ、薄青なんていかがです?」

 庭園の散歩中にローガンがくれた一輪の花は、萎びてしまわないように、小さな花瓶にさしてある。

 その花とよく似た薄青で、やたらとひらひらとした寝間着を掲げるマーサ。そんな彼女を、レイヴァーン家からついてきてくれた侍女であるベラが、どうしたらいいのかわからないという表情で見つめていた。

 ベラは結婚式の日の馬車に同乗していて、辛気臭さが最頂点に達していたフレイヤを見ているから、心配してくれているのだろう。

「……そうね、それがいいと思うわ」

 頼りなくてもいいからとりあえず何か着たくて、フレイヤは適当に頷いた。



 一通りの支度が整うと、侍女たちは皆下がり、広々とした夫婦の寝室に1人きりになる。

 昨夜の決別、そして今朝の庭園での宣誓からして、ローガンがここに来ることはないだろう。

(……私がこの広い寝室を使っていていいのかしら。ここはむしろ、ローガン様が寝るべきところじゃない?)

 そんなことを思いつつ、さっさと寝台に入ろうとした時だった。控えめにノックの音がして、フレイヤは寝室の扉を凝視する。

(マーサ? それともベラかエヴァ?)

 ぱっと思い浮かんだのは、レイヴァーン家から連れてきた侍女2人と、アデルブライト家の侍女筆頭のマーサの名前だった。

 だが、彼女たちなら入室の許可を求める声があるはずだ──などと考えているうちに、扉がゆっくりと開く。
 現れたのは、昨日と同じく寝間着姿のローガンだった。

「ローガン様、なぜ……」

 目を見開くフレイヤに、ローガンは「誤解するな」と、ひそめた声で短く告げる。
 扉を閉めて室内に入ってきた彼がソファに腰掛けるので、フレイヤもその向かいに座った。

「今朝も言った通り、何もする気はない。だが、結婚早々寝室を別にしていては……その、余計な詮索を招く。それだけだ」
「ああ……」

 この結婚は、両伯爵家の希望と合意によって成立したものだ。

 当人たちが不仲らしいという話がそれぞれの両親に伝われば悲しませてしまうだろうし、あれこれとせっつかれ始めるまでの期限も短くなるだろう。

 ローガンとしては、そういった事態を避けるつもりはあるらしい。

「俺はここで寝る」
「ええっ」

 ここで、とローガンが指差すのは、今座っているソファだ。
 3人座れるサイズなので寝られないこともないだろうが、長身で騎士らしく体格もしっかりした彼が寝るには、どう考えても窮屈すぎる。

「私がソファで寝ます」
「いや、君はベッドだ」
「どうしてですか?」
「俺は騎士だ。なんなら床でも眠れる」
「でも、私の方が小柄ですし、ここはローガン様の家です。ソファで寝るなら私の方でしょう」
「……だめだ。ソファは寝心地がよくない」
「でしたらなおさら譲れません。お勤めに支障が出たらどうするのですか」

 ローガンは騎士、それも王太子を側近くで守る重要な役割を担っている。

 寝不足になったり、どこか寝違えたりでもしたら、仕事に支障が出て、彼自身にも王太子にも危険が及びかねない。一方フレイヤなら、多少寝不足になろうが、特に忙しくなければ昼寝もできるし、特に危険はない。

 騎士の役目について触れると、ローガンは反論しづらいようで、ぐっと言葉に詰まった。

(というか……)

 ちらりと、フレイヤは大きな寝台へ視線を向ける。
 女性なら詰めれば5人くらいは寝転がれそうな広さがあり、いかに彼が体格に恵まれているといえど、2人で寝るくらいなら十分な距離を保てる。

 ローガンは、人道として、一応は妻をソファに寝かせる気はない。
 そしてフレイヤも、大事な役目を負った夫をソファや床に寝かせる気はない。

 この件については両者譲らないことは間違いないので、妥協点は1つしかなかった。

「一緒に寝ましょう」
「……!」

 憮然とした表情で、ローガンは寝台とフレイヤを交互に見る。

「あれだけ広いんですもの。端と端で眠れば問題ないと思いませんか?」
「…………」

 たっぷり10秒ほど沈黙した彼だったが、やがて、先ほどのフレイヤと同じ結論に至ったようだった。

「……そうだな」



 広い寝台の両端から、それぞれ布団に入る。

 消灯し、真っ暗になった室内は耳が痛くなりそうなほどの静寂に包まれていて、フレイヤは無意識に息をひそめていた。

(お、落ち着かない……! ソファの方がまだ眠れたかもしれないわ……)

 背中がもぞもぞして、寝返りを打つ。
 暗闇に慣れてきた目は、こちらに背中を向けて横になるローガンの姿を映し、フレイヤの口から小さな溜息が漏れた。

 広くて逞しい背中は、まるでフレイヤを遮断する壁のように見える。

 目一杯手を伸ばせば触れられる距離なのに、果てしなく遠い。

 この距離が縮まる日は来るのだろうかと思うと少しだけ悲しくなって、ほんのちょっと挙げていた手を、ぱたりと寝台の上に戻す。

 すると、マーサがうきうきと選んでくれた薄青の寝間着の布地が視界に入って再びなんとも申し訳ない気持ちになった。
 それと同時に、彼女が期待していた展開のことを思い、フレイヤの頭には1つの懸念が湧いてくる

「あの……ローガン様」
「なんだ?」

 呼びかけてみると、彼の方もまだ寝入っていなかったらしく、すぐに返事があった。

「閨を共にした体にするなら、もう少し、寝台をそれっぽくしないといけないのではないのでしょうか」
「は……!?」

 驚くほどの俊敏さで、ローガンが起き上がった。

「それっぽくというのは……」
「……その、寝台の真中のあたりのシーツを、ぐしゃっと乱してみるとか……」

 話しながら、フレイヤは「なんでこんなことを提案してるんだろう、私」と脳内で突っ込みを入れるが、口から出た言葉は戻せない。

 せめてもの悪あがきに「忘れてください」と蚊の鳴くような声で言って、羞恥心をごまかそうと毛布をかぶった。

「フレイヤ、君は……」

 毛布越しに、ローガンが何事かを言いかけたのが聞こえるが、言葉はそこで止まった。

「……いや、なんでもない」

 しばらくして、寝台が微かに揺れる。ローガンが再び横になったようだ。

「……私は、明日から登城する」
「えっ」

 もうですか?と続けそうになるのを、フレイヤはなんとか押し留めた。

「殿下の周辺は、安全とは言い難い。あまり離れるわけにはいかないんだ」

(そういえば……ローガン様が近衛兵から王太子殿下側近の騎士になったのは、殿下を襲おうとした賊を倒して御身をお守りしたからだって言ってたわね)

 王太子は、いずれ国王となる身。
 そんな方を害そうとする人間が少なくないとは、物騒な話だ。

 しかし……と、フレイヤは陸続きの諸外国や王太子について考えを巡らせる。
 ベリシアン王国周辺には、友好国だけでなく、長期停戦状態で予断を許さない関係の国もある。

 それに……自らが側近に取り立てた騎士の婚約者を自分の妻にと指名するあたり、王太子はあまり褒められた性格をしていないのかもしれない。

 欲しいものは、その立場をもってなんとしても手に入れるような人であれば……少なからず、恨みを買っていそうだ。

(お姉様は、大丈夫なのかしら)

 王太子が狙われるなら、その婚約者となった姉にも危害が及ぶ可能性は否定できない。

 不安に駆られ、フレイヤは毛布から顔を出して、ローガンの背中に問いかけた。

「お姉様は……お姉様に、危険はないのですか?」

 フレイヤの不安が伝わったのだろうか。
 それとも、話題が彼の真に愛する人であり、元婚約者のソフィアのことだったからだろうか。

 寝返りを打ってこちらを見たローガンは、「大丈夫だ」と力強く頷いた。

「殿下は、ソフィア……様のことをとても大切に思われている。彼女の周辺の守りは鉄壁だ。それに、殿下と彼女がそばにいる時は、俺が2人を必ず守る」
「よかった……」

 フレイヤは、初恋絡みの勝手な事情と劣等感で素直になれずにいるが、姉・ソフィアのことは本当に大好きなのだ。

 優しく穏やかで、触れれば折れそうな儚げのある見た目とは裏腹に、内面は強く、しっかり者の姉。
 活発すぎるフレイヤと姉はタイプが違いすぎて、一緒にいる時間は弟の方が断然長かったとはいえ、大切な家族であることに変わりはない。

 だというのに、ローガンの「必ず守る」という真剣な言葉が、妙にジクジクと胸の奥を痛ませる。

(でも、本当に辛いのはお姉様とローガン様よ)

『殿下と彼女がそばにいる時は、俺が2人を必ず守る』という、先ほどの言葉を思い返す。

 そう。ソフィアは王太子妃となるべく、未来の王妃としての教育を王城で受けている。
 当然、新たに婚約者となった2人は王城の中で会う機会も多いだろう。

 王太子の側近騎士であるローガンは、今も心を寄せている女性が自分の主君のそばで婚約者として振る舞うのを間近で見なくてはならない。

 ソフィアも、一度は将来を誓い合った相手の前で王太子妃候補としての自分を見せるなんて、とても辛いはずだ。
 
 考えれば考えるほど、フレイヤには王太子が残酷な人に思えてならなかった。

 それに、敵が多いのに、側近騎士にまで恨みを買うような真似をするなんて、正気の沙汰とは思えない。

 ……いや、もしかすると、ソフィアを気に入ったのと同時に、本当にローガンを信用していいのか試していたりして?

 いずれにしても、あんまりだ。

 文句じみた言葉が喉元までせり上がってくるが、王太子の側近たる彼に向けて、滅多なことは言えない。

 少し唇を噛んで、フレイヤは小声で尋ねた。

「……ローガン様は、王太子殿下のことをどう思われるのですか?」

 返ってきたのは、迷いのない声だった。

「オウェイン殿下は、いずれ賢君になられるだろう。殿下に見出され、殿下とこの国のために力を使えることを、俺は誇りに思う」

 声に違わず、薄青の瞳にも揺るぎはない。
 王太子を恨むどころか、敬愛する主君として微塵も忠誠をたがえないローガンは、フレイヤの目に眩しく映った。

(ローガン様も、お姉様も、私とはまるで器が違う……本当に立派な方だわ)

 結婚式の日に会ったソフィアは、辛そうな素振りなど見せず、王太子の隣で穏やかに微笑んでいた。
 もはや迷いなどなく、己の役目を受け入れ、全うしようとしているのだろう。

(そっか……お姉様とローガン様って、似た者同士だったのね。だからこそ、通じ合えるものがあったのかもしれないわ)

 フレイヤは、王太子のことをよく知らない。

 だが、ローガンが敬愛し、姉が生涯を捧げる覚悟を決めた人なのだから、素晴らしい人物なのだと信じよう。そう思えた。

「さぁ、もう寝よう」
「……はい」

 促されて、目を閉じる。

 ローガンが同じ寝台にいて落ち着けなかったはずなのに、昨日の寝不足もあってか、フレイヤはいつしか深い眠りに落ちていた。