ほっとしたように微笑んだマーサは、他の侍女たちを呼び入れて、フレイヤの身支度をする。
昨日は一日中、きっちり結い上げた髪に豪奢なドレスで疲れてしまったが、今日は体調にも気を使ってか、普段着用の少しゆったりとしたドレスだ。
亜麻色の髪は緩めの三つ編みにしたあと、丸く綺麗にまとめられてゆく。
「さぁ、参りましょう。食堂で旦那様がお待ちですよ」
「…………」
昨日の今日で、どんな顔をしてローガンと会えばいいのかわからない。
しかし悲しいことにお腹はしっかり空いているので、フレイヤは静かに頷き、立ち上がった。
食堂では、今まさに朝食が並べられているところだった。
ローガンは、仕事関係の書類だろうか、何かを確認していたようだが、それを家令に預けてこちらへと視線を向ける。
「……フレイヤ」
「おはようございます。お待たせして申し訳ありません」
「いや、気にするな」
テーブルの上に食事が揃ったところで、静かな朝食の時間が始まる。
咀嚼の音すらも聞こえてしまいそうな沈黙をローガンの方も気まずく思ったのか、数秒手を止めて、おもむろに尋ねてきた。
「……よく眠れたか?」
「…………」
昨夜のあの会話のあとで、どうやったらよく眠れるというのだろう。
内心は複雑だが、表向き、昨夜はフレイヤの体調がよくなかったので、気を使って寝室を別にしたことになっているはずだから、下手なことは言えない。
「ええ……お陰様で」
「……そうか」
会話終了。
この調子では、使用人たちの間で遠からず「夫婦仲はどうやら最悪らしい」と話題になるだろう。
使用人たちの口が固かったとしても、そういう噂はいずれ外へ漏れていく。ここは別邸だから多少時間はかかるだろうが、話がアデルブライト伯爵夫妻の耳に届くのも時間の問題だ。
レイヴァーン伯爵家との関係があるから、すぐに対応が悪くなるとも思えないが……。
先のことを考えると、フレイヤは早くも憂鬱になってくる。
美味しいはずなのにいまいち味がしない朝食を終え、憂鬱ごと嚥下しようと食後の紅茶を飲んでいた時だった。
「……フレイヤ」
「はい」
「少し、庭を散歩しないか」
唐突な提案に、フレイヤは驚いて、目をぱちくりとさせた。
一体、どういう風の吹き回しだろうか。
彼は、こちらとの関わりを最低限に留めようとしているのかと思っていたが……流石に新婚早々この雰囲気では、レイヴァーン伯爵家に申し訳が立たないとでも考えたのだろうか。
「……はい」
戸惑いつつもフレイヤが頷くと、ローガンも頷き、紅茶を飲み干して立ち上がる。
「では、行こう」
「は……はい」
さっきから自分は「はい」しか言えていないな……と思いつつ、フレイヤは差し出された逞しい腕に手を乗せて立ち上がった。
◇◇◇
ローガンは、大股ながらもゆったりとした歩調で庭園へとエスコートした。
晴天の下に広がる景色に、フレイヤは思わず歓声を上げる。
「わぁ……!」
昨日ここに到着した時には既に日が落ちかけていたためよく見えていなかったが、アデルブライト伯爵家別邸の庭園は、実に見事なものだった。
色とりどりの花が咲き誇り、庭師が丹精込めて手入れをしていることが窺える。
「母が、花の好きな人でな。本邸も別邸も、常に何かしらの花が咲いている」
「そういえば、昔アデルブライト伯爵家にお邪魔した時も、花がたくさん咲いていた覚えがあります」
「そうか」
両親、特に父伯爵同士の仲が良いこともあって、フレイヤとソフィアもアデルブライト家へ行ったことが何度かある。
小さい頃は花よりトカゲや鳥などに興味があったのでうろ覚えだが、花の蜜を吸いに来ている小鳥がとても可愛かったことは記憶に残っていた。
「今の時期は、こっちの区画が綺麗なはずだ」
ローガンはそっと進行方向を変え、広い庭園の中を迷いのない足取りで進む。
迷路のような生け垣の通路を抜けた先には、様々な色の花が咲き誇っていた。
「綺麗……」
フレイヤが思わず嘆息したきり、しばらく無言の時間が流れるが、朝食の時とは違って空気は重苦しくない。
「……これまで、時間を取れなくてすまなかった」
「いえ……お気になさらず。ローガン様は王太子殿下が最も信を置かれる騎士なのですから、無理もないことだと理解しております」
「……そうか」
またしばらく無言になるけれど、フレイヤはようやくまともな会話ができたことに感動していた。
(ローガン様も、前を向いて頑張ろうと考えているのかもしれないわ。昨日は悲観的になってしまったけれど、結婚初日で関係構築を諦めるのは早いわよね、うん)
フレイヤは元来、割と立ち直りの早い方なのであった。
気分が上向いてくると、途端に「好きな人に素敵な庭園を案内されている」という状況を意識してしまい、ふわふわとした心地になる。
しかしローガンからすれば、主君から好きな人を奪われて、意に沿わない結婚をなんとか受け入れようとしているところなのだ。
1人浮かれるほど能天気にもなれず、フレイヤは静かに花々を眺めた。
「……気に入った花はあったか?」
「えっと……」
唐突に尋ねられてフレイヤが指し示したのは、ローガンの瞳の色とよく似た薄水色の花だった。
(あっ……)
深く思考する前の咄嗟の行動に、フレイヤはぎくりと固まり、力なく手を下ろす。
ベリシアン王国含めいくつかの国では、宝石や花、ドレスなどの贈答品に自分を想起させる色を選ぶのは、特別な意味がある。
たとえば、離れていてもそばにいる、だとか。
あなたを自分の色に染め上げたい、だとか。
逆に、相手から贈り物が何かいいかを聞かれて相手の髪や目の色のものを望むのは、「そうしてほしい」という気持ちを暗に示すことになる。
「…………」
「…………」
穴があったら入りたいどころか、深い穴を掘るから埋めてほしいくらいの気分だ。
三度沈黙が訪れ、フレイヤが恐る恐るローガンの様子を窺うと──。
「…………」
彼は険しい顔で沈黙し、薄水色の花を凝視していた。
「あの、えっと……すごく綺麗だったので、それだ──ヒッ!」
けで、と続けようとした言葉は、ローガンがどこからともなく短刀を取り出したことで、微かな悲鳴に変わった。
(な、何よ今の早業、奇術!? っていうか何に使うのそのナイフ! えっ、一応は新妻を刺したくなるくらいに気に食わなかった!?)
氷像のように固まるフレイヤをよそに、ローガンはエスコートしていた手を離し、花の方へと一歩踏み出す。
そして、一輪の花を摘み取り、短刀を懐に仕舞った。
「フレイヤ」
「は、はい」
「……すまない、驚かせてしまったか。花は手で摘むより、鋭い刃物で茎を切った方が長持ちするから……」
「ああ……なるほど……」
ほっと肩の力を抜くフレイヤのもとへ戻ったローガンは、じっとつむじのあたりを見下ろす。そして何を思ったか、頭部へと手を伸ばしてきた。
「動くな」
「はいっ!」
まるで、強盗と脅される店主のようなやりとりである。
再び氷像と化したフレイヤの髪にローガンの大きな手が触れ、三つ編みをまとめてある部分に違和感があった。
(これって……髪に花を挿してくださってる、のよね……?)
一歩下がったローガンは、「ん」と小さく頷くが、その視線は険しい。
「……よく似合う」
「えっ……」
太さはありながらも、すっきりと整った眉。その間にぐっと皺を寄せ、それはもう渋く苦い表情で言われるには、あまりにもふさわしくない台詞だった。
これはお世辞なのか。
いや、お世辞にしてももう少し顔というものがあると思う。
それに、彼は王太子の最も近くに控える騎士であり、いずれ伯爵家を継ぐ人物なのだ。
少年だった頃は雰囲気が柔らかく、ほぼ初対面の女の子に「かわいい小猿さん」なんて言葉を、まるで息をするかのように発していたし、微笑んでお世辞を言うこと自体は可能なはず。
この渋い顔を取り繕いもせずに「よく似合う」などと口にする意図がわからない。
極度の緊張と弛緩を短時間で繰り返したことで、フレイヤの脳内は完全に混乱をきたし──なんのフィルターも通すことなく、思い浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。
「あの……ローガン様は、なぜ私を睨まれるのですか?」
そんなに気に食わないなら結婚なんてしなければよかったのに、という言葉は、彼がなんとか関係を築いていこうとしているかもしれない可能性を考えて、辛うじて飲み込んだ。
「…………」
沈黙した彼の眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
「……睨んでなどいない」
なんと、無意識だったらしい。
嘘か本当かはわからないが、彼がフレイヤを見る時の表情は、もうこれが基本だと考えて諦めた方がよさそうだ。
「そうですか……。お花、ありがとうございます」
フレイヤはぎこちなくお礼を言って、再び差し出された腕に自分の手を添えた。
「そろそろ戻るか」
「はい」
屋敷へ向かい、2人は元来た道を戻り始める。
生け垣を抜けたところで、ふと、ローガンが足を止めた。
「フレイヤ」
「なんでしょうか」
名前を呼んだきり、彼は何も言わない。
一体なんだろうかと、頭1つ分はゆうに高い位置にある彼の顔を見上げると、思いのほか真剣な眼差しが注がれていた。
「この結婚が本意でないにしても……俺は、君を傷つける気はない。無理強いはしないと、騎士の剣と我が名にかけて誓う。だから、安心してほしい」
「…………」
前置きさえなければ、ローガンに関してかなりちょろいところがあるフレイヤは、「決して君を傷つけないと誓うよ」くらいに意訳して、心臓を鷲掴みにされていたことだろう。
しかし残酷なことに「この結婚が本意でないにしても」という、どう頑張っても無視できない言葉がついている。
とはいえ、気に食わない結婚だからと腹いせに乱暴なことをしないという宣誓は、一応はありがたいものかもしれない。
「……ありがとうございます」
複雑な気持ちで、フレイヤは囁くように返すのだった。