その後、再びローガンからドレスが贈られてきたが、義務的な行動だろうと思うと、なんとも言えない気分になる。
フレイヤが「不便はしておりませんので、これ以上のお気遣いは心苦しく思います」という旨の手紙を送ると、それ以後は申し訳程度に時折花だけが届けられるようになった。
手紙どころかメッセージカードすらもついていないので、美しい花に罪はないのに、余計に憂鬱になるフレイヤであった。
結局、結婚の日を迎えるまでにローガンと顔を合わせたのは、あの一度きりとなった。
これでいいのだろうかと散々悩んだ数ヶ月だったが、険しい顔のローガンを見ると、あれでよかったのだと思えてくる。
顔を合わせるたびに睨むように見られたのでは、心が擦り減ってしまいそうだ。
──好きな人だからこそ、なおさら。
「……手を」
「……はい」
大きな彼の手に自分の手をそっと乗せ、教会へゆっくり歩き始める。
教会の中では、婚姻見届人の主教が柔和な笑みでフレイヤとローガンを迎え、宣誓の儀式が始まった。
「汝、ローガン・アデルブライトは、フレイヤ・レイヴァーンを妻とし、生涯慈しみ、添い遂げることを宣誓しますか」
「……はい。この名にかけて誓います」
低い声が、ゆっくりと静かに言葉を紡ぐ。
「汝、フレイヤ・レイヴァーンは、ローガン・アデルブライトを夫とし、生涯慈しみ、添い遂げることを宣誓しますか」
「……はい、誓います」
婚姻の誓文にサインをし終えたところで、主教がそれを高く掲げ、参列した人々に告げた。
「宣誓は今ここに成されました」
湧き起こる拍手の中、フレイヤはこれから始まる結婚生活への不安を胸に、ぎこちなく微笑んだ。
──その日の夜。
結婚式にまつわるあれこれを終え、賓客を見送ったところで、フレイヤとローガンは2人の新居となるアデルブライト伯爵家の別邸へ向かった。
ここから先、フレイヤは真の意味でレイヴァーン家を離れることになる。
侍女も、特に親しい2人のみを残してあとはレイヴァーン家に戻るため、一層孤独感が増した。
(ローガン様は仏頂面どころか吹雪のような視線を向けてくるし、アデルブライト家にも歓迎されていなかったらどうしよう……)
不安に駆られるフレイヤだったが、彼女を出迎えたアデルブライト伯爵家の使用人たちは非常に好意的で、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし、それも束の間のこと。
「ささ、お疲れでしょうが、むしろここからが本番でございますからね!」
恰幅のよい侍女が腕まくりをしたかと思うと、休む間もなく湯浴みの時間だ。
全身ピカピカに磨いたのちに香油でしっとりとした肌に仕上げられ、頼りない薄い布地の寝間着を着ると、これから待ち受ける行為について考えざるを得なくなる。
(……私、耐えられるかしら)
それは、肉体的に──というよりは、精神的な不安だった。
結婚式には、王太子とともに、ソフィアも参列していた。
3ヶ月ぶりに目にする彼女は、やつれたりすることもなく記憶にある姉のままで、フレイヤは密かに安堵したものだ。
しかし……王太子のもとへ挨拶をしに行ったローガンに姉が何事かを囁き、それに反応した彼が憮然とした表情ながらも微かに耳を赤くしていることに気づいて、胸がズキッと痛んだ。
「フレイヤ……結婚おめでとう。幸せにね。困ったことがあれば、私に言うのよ」
優しい笑みで姉が伝えてくれた祝いの言葉に頷きながら、フレイヤの心にはますます影がさす。
(ああ……お姉様には敵わない。もし私がお姉様だったら、あんな風に笑えないし、うまくお祝いの言葉だって言えないわ)
浮かない表情のフレイヤに気づいたアデルブライト家の侍女は、それが初夜への不安からだと思ったらしい。
励ますように「大丈夫ですわ、奥様」と言って微笑んだ。
「旦那様は、今でこそあの仏頂面ですけど、立派な騎士でございますからね。決して乱暴にされることはないはずです。ゆったりと構えて、できるだけ緊張しないことが肝要ですわ」
「……ええ、ありがとう」
あの日、木から落ちて怪我をしたフレイヤを慰め、おんぶして屋敷まで連れて行ってくれた、優しいローガン。
たとえ成長して見た目が変わろうとも、彼の根幹までは大きく変わっていないと信じたい。
それよりむしろ問題は、彼が初夜を遂行できるかどうかだろう。
……男装してお忍びで街に繰り出した際、青年たちから色々と下世話な話を聞いたこともあって、フレイヤは貴族令嬢らしからぬ耳年増であった。
曰く、本当に好きな相手ができてからは娼館に行く気がなくなっただとか。
逆に、好きな人には遠慮してできない嗜好があるからこそ、遊び相手を持つのだとか。
あまりにも好みから外れた相手だと、目を瞑った方が、下半身が役に立つだとか。
(だ、大丈夫かしら……。ローガン様、私のことはずっと冷たい目で見てくるんだもの。絶対に好みからは外れてそうよね……)
夫婦生活がないとなると、貴族の最大任務であると言っても過言でもない「後継者を作ること」のスタートラインにも立てない。
(お姉様が一番辛い境遇なのに、前を向いて頑張ろうとなさってる……。私も、同じ気持ちを返してほしいだなんて我儘は捨てて、せめて妻として役に立たないと)
決意を決めたフレイヤは、それでもカチコチに緊張しつつ、スープと果物をなんとか口に運ぶ。
やがて、レイヴァーン家からついてきてくれた侍女が「まもなく旦那様がいらっしゃいます」と告げた。
(夫婦の閨で何をするかは、かなり具体的にわかっているわ。驚いたりしない。それに、私は体格的にも普通のか弱いご令嬢よりは頑丈なはずだし……大丈夫、大丈夫……)
深呼吸をしていると、コンコン、と軽くノックの音が聞こえる。
「はい」
そっと扉が開き、入ってきたのは、フレイヤと同じく寝間着に身を包んだローガンだった。
彼は、大柄な体躯とは裏腹に、大型の猫科の動物を思わせるしなやかな動きで、静かに室内へと足を踏み入れた。
「ローガン、様……」
彼の名前を呼ぶフレイヤの声は、微かに震えた。
ローガンは、所在なさげに立ち尽くしているフレイヤを見て、唇を引き結ぶ。
「フレイヤ。今日は──」
「義務は、心得ております」
険しい顔をしたローガンの言葉の続きを聞くのが怖くて、フレイヤは遮るように切り出した。
彼の片眉が、器用に釣り上げられる。
「貴方様から愛されたいなどとは思っておりません。貴方様にも、義務を果たしていただければ、と」
「…………」
ローガンの視線が、さらに冷たくなった気がした。
常々氷のような瞳なのに、まだ最低温度ではなかったのかと、フレイヤは愕然とする。
結婚初夜の夫婦の寝室というよりは、戦場のような緊迫した空気が満ち──やがて、ローガンは小さく溜息をつく。
「……そうか」
そしてくるりと踵を返し、出ていったのだった。
「……えっ」
1人残されたフレイヤは、彼が出て行った扉をぼんやりと眺める。
「義務だとしても、嫌だってこと……?」
それならばなぜ、この結婚を受け入れたのか。
ソフィアとの婚約が解消となって、自暴自棄になっていたのだろうか。
冷たい寝台で1人横になったフレイヤは、あまりの虚しさにじわりと浮かび始めた涙を零すまいと、きつく瞼を閉じた。