その日の朝、ジン・ファビアーニは、軽い足取りで王城内を歩いていた。
 ジンの上官である王太子付き側近騎士ローガン・アデルブライトが先日めでたく意中の令嬢と婚姻宣誓の儀を終えて、緊急事態でも起きない限り一週間は休暇を取ることになっているためだ。

 ジンは決して、ローガンが嫌いなわけではない。むしろ、家柄や恵まれた体躯に甘えることなく研鑽を重ね、王国と王太子のため献身的に勤める彼を心から尊敬している。その一方で、凍てつく氷のような冷たい雰囲気をまとった、自分にも周囲にも甘くない上官と同じ部屋に長時間いると、常に背筋に力が入ってやたらと疲れるのも事実であった。

 しかし、ただ待機しているだけで背中が攣りそうになる日々は、しばらくお休み。残り5日か、何事もなく平和ならもう1週間ほど、気楽に事務作業や見回りをする日々が待っている。
 ジンの足取りが弾むのも無理はなかったのだが……。

「おっはようございま〜──ロ、ローガン様!?」

 歌うように挨拶をしながら王太子付き側近騎士たちの執務室へ入ったジンが目にしたのは、新婚3日目、休暇中のはずのローガンだった。

「ああ……ジンか」

 ジンの姿を目に留め、重々しく言うローガンの表情は暗い。そして、肉体的にというよりは、精神的に疲労しすり減ったような、虚ろな目をしていた。

「ローガン様、ここで何を……? まさか、王太子殿下のお呼び出しがあったんですか……!?」

 行動力に溢れた王太子オウェインは、無茶なスケジュールで出かけることが度々ある。かといって、新婚ほやほやのローガンをこき使うような人非人ではないはずだ。やむを得ずローガンにまで招集がかかったのであれば、何かよほどの事態が起きている可能性もある。
 驚きつつ身構えるジンだったが、ローガンは力なく首を横に振り、「いや」と短く答えた。

「俺が自分の意思で来た。……屋敷にいては、とても……耐えられそうにない」

 普段は冷徹な上官が深刻極まりない顔でそんなことを言うので、ジンは噎せそうになるのを全力でこらえる羽目になった。ローガンは以前から、フレイヤに深い思いを抱いている様子があったが、結婚したことで歯止めが利かなくなっているらしい。

「蜜月ってそういうもんじゃないですかね……。おめでとうございます。大人しくお帰りになられてはいかがでしょう」

 未婚な上、子爵家の三男坊で、望む相手と結婚できるかも非常に怪しいジンは、ヒキガエルのような虚無の目になった。
 しかし、ローガンは苦悩するような表情を浮かべ、再び首を横に振る。

「お前は思い違いをしている。俺たちの場合は……違う。フレイヤに無理強いすることなど、俺にはできないし、したくもない」
(無理強い……と言うと、やっぱりフレイヤ嬢──じゃなくて夫人は、ローガン様との結婚は本意ではなかったのか?)

 フレイヤと婚約してからのローガンが、あれこれと悩みつつ、花やドレスなどの贈り物をしていたことをジンは知っている。なんせ、何度か助言を求められて相談にも乗っていたのだから。

 しかし、ある時フレイヤからローガン宛に、これ以上の贈り物は不要である旨がやんわりと、遠回しに書かれた手紙が届いたようだった。ローガンはしばらくの間少し沈んだ様子で、ジンも多少心配はしていたが、男女問わず結婚前に憂鬱な気分になる人は多いとも聞く。いざ結婚して、一週間か二週間ゆったりと夫婦水入らずで休暇を過ごせば、その間になんとかなるだろうと楽観視していた。
 ところが、ローガンの様子からして、希望的観測は外れたらしい。

(ローガン様にも靡かないとは……。フレイヤ夫人、なかなか手ごわい方みたいだな。まあ、姉君の婚約者だった相手と急に結婚することになったら、なかなか気持ちの整理がつかないのもわかるけど……)


 ──それからというもの、ローガンは屋敷に帰らなくなった。

 ちょうどその頃、王太子が地方視察へ行くことが決まったのも大きな要因だ。ローガンは当初同行しない予定だったのだが、本人たっての希望で護衛人員に組み込まれた。王太子がやや難色を示しつつもそれを止めなかったのは、王太子周辺の状況が予断を許さないからだろう。


 ◇◇◇


「ようやく王都に戻ってきましたね」
「ああ……長かったな」

 結局、ローガンは結婚まもなくから半月ほど屋敷に帰らないままとなってしまっていた。最初は本人が「理性を保てなくなる恐れがあるから」と帰宅を避けていたのだが、流石に半月も愛しの夫人と会えないのはこたえたらしい。

(フレイヤ夫人の方も少しは寂しく思ってて、これを期に少し距離が縮まったりして……)

 ジンの希望的観測は、再び外れることとなる。


 ──翌日。
 登城して執務室に入ったジンは、もう何度目かになる光景──すなわち、机でがっくりと項垂れるローガンの姿を目にしていた。

(うわ……今回が一番落ち込んでる気がする……)

 声をかけるか躊躇ったものの、心配さが勝り、ジンは恐る恐るローガンへと呼びかける。

「あの……ローガン様、大丈夫ですか……?」
「ジンか……」

 しばらく沈黙したローガンは、ややあって、どんよりと沈んだ声で言う。

「大丈夫とは言えない。……フレイヤを、怒らせてしまった」
「半月も帰らなかったからでしょうか」
「いや……いずれにしても、俺の身勝手さが招いたことだ。もう愛想を尽かされてしまったかもしれないが……せめて、心からの謝罪を伝えたい。何か、フレイヤの心を慰めるような贈り物をしたいのだが」

 フレイヤ夫人は割と短気なのだろうかと思ったジンだったが、どんよりと沈みきり、深く反省しているローガンの様子からして、本当に彼が何か重大なやらかしをしたのだろうと判断する。

「やはり、奥様が喜ばれるものでないといけませんね。お好きなものだとか、趣味などはおわかりですか?」
「あまり、服飾品に興味はないようだ。趣味……それなら、乗馬を好んでいるはずだな。領地に戻ると、遠乗りや早駆けをしているとレイヴァーン伯爵から聞いている」
「乗馬ですか。それなら、乗馬用品とか──」
「そうだ、馬だ!」
「はい……?」

 ローガンは、突然大きな声を出して立ち上がった。名案を思いついたというように、表情が一気に明るくなっている。

「ええ……? 喧嘩のあとのご機嫌取りで、夫人に馬を贈るんですか?」
「フレイヤなら、ドレスよりも馬の方を喜んでくれることだろう。それに、遠乗りにでも出かければ、気分転換になる。ただ外出したかっただけなら、俺が付き合えばいいだけのこと。ああ、最良だ」
「な、なるほど……?」
「それに……もしもフレイヤがどこかへ行ってしまった時、騎士団の馬ならば頼りになるうえ、呼び戻すこともできる。名案だ」
「えっ」

 騎士団が保有している馬は、隊ごとに異なる笛の音を覚えさせて、その音が聴こえると戻ってくるように訓練してある。ただの乗用馬ではなく、特殊な訓練を施された騎士団の馬を贈り物にしようとするあたり、心配性なのか……あるいは、執着心の表れか。

 ジンが驚いているうちに、ローガンは馬の選定を進める。そして、体格がよく、穏やかな気質ながら物怖じしないララという馬を買い上げたのだった。

「ジン。フレイヤのもとへララを届けてくれ」
「ええっ!? 俺がですか!?」
「ああ。そして、フレイヤの様子を報告してくれ。体調に問題はなさそうか、落ち込んだ様子はないか、激怒していないか……些細なことでも、何か異変があれば漏らさず俺に伝えるように」
「わ、わかりました」
「それから、フレイヤをあまり見るな」
(矛盾!!!)

 フレイヤの様子を観察して報告する任務と、彼女をあまり見るなという命令。同時に遂行するには無理がある要望に頭を抱えたくなりつつ、ジンは半ばやけっぱちで「了解しました」と頷いておいた。


 ◇◇◇


(一瞬で素早く観察、用件だけ伝えて即退散! よし!)

 脳内で予行練習を重ねつつ、ジンはアデルブライト伯爵家別邸への道のりを進んでいた。
 ローガンは、王太子の護衛がありしばらく持ち場を離れられない。また、こうして頼んできたのは、直接顔を合わせることで一層フレイヤを怒らせるのを避けたかったからだろうとジンは推測する。要するに、斥候というわけだ。

(様子を見ろと言われたからには、夫人に直接渡すようローガン様に命じられたことにするか。……ローガン様があそこまで想うフレイヤ夫人、どんな人なんだろう)

 好奇心が頭をもたげるが、じろじろ見たことがもしもローガンに伝わると、あとが恐ろしい。ぶるっと軽く背筋を震わせ、ジンはアデルブライト伯爵家別邸の門前に立った。

 門番、続いて家令に事情を伝えて待つことしばらく。ついに、お目当ての人物が現れたようだった。ジンは視線を落としたまま、一瞬の観察の機会をそわそわしつつ窺う。

「う、馬……?」

 困惑した様子の若い女性の声──フレイヤへ、家令が「ええ」と応える。

 乗馬好きといえど、ある日いきなり見知らぬ騎士団員が贈り物として馬を連れてきても、状況がいまいち飲み込めずに困惑するのは当然だろう。
 少しの沈黙のあと、フレイヤの意識は馬の横にいるジンへと向いたようだった。

「あなたは……?」
(一瞬で素早く観察、用件だけ伝えて即退散! やるぞ!)

 決意を新たに姿勢を正したジンは、目を合わせないようフレイヤから微妙に視線を逸しつつ、さっと観察。幸いにも、フレイヤは優しげな眼差しを馬へと注いでおり、ジンは数秒の観察を気づかれないうちに終えた。

「自分は、近衛騎士団所属のジンと申します! ローガン様の秘書官を務めており、奥様へこちらの馬をお届けに参りました! それでは、確かにお届けしましたので、御前失礼いたします!」
「え、ええ……」

 明らかに何が起こっているのかよくわかっていない声に申し訳なくなりながら、ジンは一目散に退散したのだった。


 ◇◇◇


 王城へ戻ったジンは、ちょうど交代時間になり執務室へ戻ってきたローガンへと報告をする。

「ジン・ファビアーニ、任務を終え帰還しました!」
「報告を頼む」
「はっ。ララを見つめる眼差しは優しく、驚いているご様子ではありましたが、お怒りではなさそうでした!」
「ご苦労。フレイヤの姿、眼差し、その他見たもの感じたものは全て記憶から消すように」
(む、無茶な!)

 内心ではずっこけそうになりながらも、ジンはなんとか真面目な表情を保ち、「善処します!」と答えた。


 ──秘書官の苦労は、まだまだ続く。