ベリシアン王国の貴族の結婚適齢期は、概ね18歳から23歳くらい。
フレイヤはてっきり、2人は18歳になったら結婚するものかと思っていたが、婚約から3年経ち20歳を迎えても、2人はまだ夫婦ではなく婚約者のままだった。
しかし、数ヶ月前に、ローガンが王太子殿下の側近騎士に任じられたので、いよいよ結婚か……と覚悟していたところで、まさかの婚約解消だ。
おまけに、姉の代わりに自分が婚約──いや、結婚してはどうかという話が出ている。
「それで……どうだ? フレイヤ」
「どうだと言われましても……」
「……まさか、誰か思う相手でもいるのか?」
「いえ!」
(あっ)
14歳からの4年間、恋心を絶対に悟られまいとひた隠しにしてきたので、つい反射的に否定の言葉が出ていた。
後悔するも、ホッとしたような表情の父を前に、フレイヤは何も言えなくなる。
「ならば問題はないか?」
「…………」
フレイヤは、思考しつつ視線を落とした。
初恋の人は姉の婚約者となり、決して結ばれることはないと諦めていたし、曲がりなりにも伯爵家の令嬢として、いずれ家格やらの釣り合ったところへ嫁ぐだろうとわかっていた。
それが、経緯はどうあれ好きな人と結婚できることになったのだ。
ローガンに想われていないことはわかっている。
だが、仕える主君から想い人を奪われた形になるローガンの心痛、婚約者から引き離されて王太子妃の重責を負うソフィアの負担。
それらに比べれば、自分の悩みのなんとちっぽけなことか。
そもそも、貴族の結婚に恋だの愛だのは重要ではない。
好きな人に同じ想いを返してもらえないだろうから嫌だなんて、とんでもない我儘だ。
「……ええ。問題ありません」
フレイヤは、逡巡ののち静かに頷いた。
それからは、怒涛の勢いで結婚への準備が進んでいった。
ソフィアとローガンの結婚で悠長に構えていたために、王太子に横から掻っ攫われる羽目になったからだろうか。
両親も、アデルブライト伯爵家側も「今度こそは絶対に結婚を成立させる」という並々ならぬ意気込みを抱いているように感じる。
もう何度目かになる採寸をされながら、フレイヤはローガンのことを考えた。
(両家としては結婚に乗り気だけど、彼自身はどう思っているのかしら……)
彼と姉の婚約が決まってからは、ほとんど彼と顔を合わせないようにしていた。
そういうわけで、最後に交わした会話は、「……フレイヤ?」「お……お勤めご苦労さまでした」である。あんまりだ。
せめて結婚前にはもう少し意思の疎通を図りたいと思うものの、彼は王太子殿下の側近で、とてつもなく忙しいらしい。
何やら興奮した様子の侍女たちがフレイヤのもとへとやって来たのは、結婚決定から1ヶ月近くが経ち、せめて手紙だけでも送ってみようかと思い始めた頃だった。
「フレイヤお嬢様! アデルブライト卿からドレスとお花が届きました……!」
「えっ!」
運び込まれてきたのは、数着のドレスと、薄紫と白の花が基調の可愛らしい花束だった。
「お手紙もございます」
「……ありがとう」
侍女から差し出された手紙の封を、ゆっくりと開ける。
そこには硬質で几帳面な筆致で、「なかなか会いに行けずすまない。近々時間を作る」と短く書かれていた。
「ローガン様……」
姉のように想われてはいなくても、別に嫌われてはいないようだ。
それがわかっただけでも十分で、フレイヤはローガンが訪れる日を今か今かと待ちわびるのだった。
ローガンの来訪は突然だった。
王城から新米騎士が伝令係としてやって来て、「1時間後にアデルブライト卿がいらっしゃいます!」と告げ、フレイヤ付きの侍女総出で支度が行われる。
「アデルブライト卿が贈ってくださったドレスに合う髪飾りを持ってきてちょうだい!」
「それなら紅はこっちのがいいわね」
「ええ、素敵!」
てきぱきとそれぞれの仕事をする侍女たちの為すがままになりつつ、フレイヤは落ち着かない胸の鼓動を感じていた。
(小猿時代のことは記憶から消すとして、今日はきちんと令嬢らしく、婚約者としてがっかりされないように振る舞わないと)
まともに会話をしたのは、ローガンが寄宿学校に入る前。遠目に姿を見た最後の記憶は、1年ほど前のものだ。
その時も、姉との親しげな距離感に胸が痛んですぐに目を逸したから、まともに記憶にない。
つまり、フレイヤの中で、ローガンの記憶はおおむね4年前からほとんど更新されていなかった。
(今の彼は、どんな方になっているのかしら……)
ぼんやりと物思いをしていたところで、「アデルブライト卿がいらっしゃいました!」という速報が入り、フレイヤは現実へと引き戻された。
なんとか支度を終え、フレイヤは緊張に顔を強ばらせながら、ローガンが待つ客間へと足を踏み入れた。
「ローガン様、お待たせして申し訳ありません」
「……いや」
フレイヤの姿を見て立ち上がったローガンは、唇を真一文字に引き結び、目元を鋭くする。
出会った時の優しい王子様のような少年の面影は、もはやほとんど残っていない。
獲物を狙う獅子のような、感情の見えない冷たい薄青の眼差しを向けられ、フレイヤは耐えかねて視線を床へと落とした。
「婚姻も、今日の訪問も、急な話ですまない」
「……いえ」
「困っていることはないか」
正直、今こうして未来の夫に睨むように見据えられていることが一番困る──というより慄いているのだが、そんなことを言えるはずもない。
「……特に、ありません」
フレイヤとともに入室した侍女もローガンに気圧されて、紅茶が載ったワゴンを押した格好のまま硬直している。
誰1人着席せず、張り詰めた空気が漂う有様は、とてもではないが婚約者が顔を合わせた場のものではない。
「君に不自由はさせない。ドレスや宝飾品、馬でも、何か不足があれば言うといい」
「お気遣いいただきありがとうございます」
ここで「馬」という選択肢が出てくるあたり、ローガンの中のフレイヤは、まだ小猿か子犬なのだろうか。
それならそれで、小型動物が死にそうな冷たい目を向けないでほしいと、フレイヤは現実逃避気味に考えることでなんとか平静を保った。
「では、私はこれで」
「……はい」
立ち尽くすフレイヤの前で数秒立ち止まり、険しい顔でじっと見てから、ローガンは退室する。
小さな音を立てて扉が閉まると同時に、フレイヤは緊張から解放されて、よろよろとソファに腰掛けた。
「フレイヤお嬢様……!」
フレイヤ付きの侍女も、主がこれまで避けていたがためにローガンと間近で接するのは初めてで、ようやく硬直が解けてワゴンを押す。
「お茶、淹れてくれるかしら」
「は、はい! あっ、でも、渋くなってしまっているかもしれません」
「それでもいいわ」
彼女の言う通り少し渋くなった紅茶を飲み、フレイヤは肩の力を抜いて溜息を吐いた。
「お嬢様、大丈夫ですか……? 私、固まってしまってすみません……」
「いいえ、私も動けなかったもの。無理もないわ」
「氷の獅子の異名は本物ですね……」
「……氷の獅子?」
耳慣れない言葉に、フレイヤは首を傾げた。
はい、と頷いた侍女は、何やら興奮した様子で話し始める。
「アデルブライト卿が王太子殿下の側近になられたのは、王太子殿下を襲撃しようとした敵国の賊を、あっという間に倒された功績がきっかけだったそうなんです。数で勝る賊を相手に一筋の怪我も負わず、涼しい顔をしておられたとか」
「……そう」
「それで、あの冴え冴えとしたお美しさですから……誰が呼んだか、氷の獅子の異名がついたと聞いております」
初恋の記憶に刻まれた彼には似つかわしくないが、先ほど対面したローガンは、まさしく氷の獅子であった。
小柄な男性と並んでもあまり目線が変わらないほど長身のフレイヤを、はるか頭上から見下ろす大柄な身体の威圧感。
一分の隙もなく鍛え上げられた騎士らしい肉体と、雄々しくなった面差し。
少年だった頃は細く柔らかさがあった白金の髪も、やや硬質になっていた気がする。
あの日、凪いだ湖面のようだと感じた瞳は、彼が放つ冷たい圧のせいか、鋭く凍った氷柱を思わせた。
(“氷の獅子”と呼ばれるようになっても……きっと、お姉様の前では、あの照れたような表情を見せていたのよね)
いつか遠目で見た、2人の姿が脳裏によぎる。
朗らかに笑うソフィアと、少し頬を朱色に染めたローガン。
先ほどの、立ち尽くすフレイヤを冷たく見下ろすローガンとでは、雲泥の差がある。
(好きでもない相手に嫁ぐよりはずっとずっと幸せだと思っていたけれど……私を欠片も愛してくれない好きな人との結婚は、考えていたより辛いかもしれないわ)
どんよりと重くなる心を感じながら、フレイヤは数度目の溜息を吐き出した。