──フレイヤがローガンへ淡い恋心を抱いたのは、10歳の頃。
当時のフレイヤは、それはもうお転婆娘だった。
時折父を訪ねてやってくる武官の名門アデルブライト伯爵のきりっとした近衛騎士団長服に憧れ、刺繍やダンスなどはそっちのけで、年子の弟と一緒になって乗馬や剣術の稽古に明け暮れる日々。
母は、フレイヤが大怪我をしないかとはらはらしていたそうだが、フレイヤ自身は子供らしい無鉄砲さで楽しくやんちゃに過ごしていた。
そんなある日。
フレイヤは何を思ったかひっそり木に登り、そして見事に失敗して落ちた。
木登りなんかしたら怒られそうだからと侍女たちもまいての挑戦だったので、周囲には誰もいない。痛みと心細さで泣いていた時、ふと、影がさした。
「大丈夫?」
涙でぼやけた視界。少し硬い指先がフレイヤの涙をそっと拭い、声を掛けてきた人物の姿が明瞭になる。
白金のさらさらとした髪に、穏やかに凪いだ湖の水面のような、淡い水色の瞳。
絵本で読んだ、王子様みたいな人だ……と、フレイヤは目を奪われて、いつしか涙は止まっていた。
「ああ、膝を怪我してるね。転んだ?」
上手く言葉を紡げず、フレイヤは首を横に振って、木を指差した。
「もしかして、この木に登ったの? ははっ……父さんからやんちゃだって聞いてたけど、想像以上だ」
おかしそうにくすっと笑った彼は、フレイヤの頭にそっと手を乗せ、優しく、しかし言い聞かせるように言う。
「元気なのはいいことだけど、気をつけないと大怪我をするよ。もうこんなことしたら駄目だからね、かわいい小猿さん」
「うん……」
この時、フレイヤの心には、小さな恋が確かに芽生えた。
……当時「かわいい」という部分にぽわっとなってしまったが、18歳になった今では「小猿さん」はなかなかひどい気がする。
しかしそれでも、彼──ローガンとの出会いの一幕は、今なお鮮やかにフレイヤの中に刻まれているのだった。
ローガンはソフィアと同い年で、フレイヤの2つ年上。
アデルブライト伯爵家の嫡男で、親同士が懇意にしていることもあり、幼少期からたまにレイヴァーン伯爵家に遊びに来ていたらしい。
「らしい」というのは、あの鮮烈な出会い以前に、フレイヤには彼と会った記憶がろくにないからだ。
ローガンとしてはあれが初対面ではなく、遠目に見かけたことは何度もあったそうだが、当時のフレイヤは遊びに夢中で、来訪者のことなど気にしていなかった。
しかし、あの出会いを期に、少しずつフレイヤは変わり始めた。
ローガンが来るのを楽しみに待ち、剣術の稽古の相手をしてほしいと頼んでまとわりつき、さながら飼い主が大好きな子犬のようだったことだろう。
微笑ましく見守られる中、アデルブライト伯爵は、「おじさま剣術教えてって言ってくれなくなった……」と嘆いていたという。
そうして、幼すぎる恋心を、フレイヤ自身ですら恋だと認識することのないままだったある日。 13歳になったローガンは、近衛騎士志望者向けの寄宿学校に入学した。
ぱったりと現れなくなったローガンを恋しがって泣いたというのは、フレイヤの消し去りたい恥ずかしい過去である。
寄宿学校は、13歳から15歳の貴族子弟が入学し、卒業までに最低3年は在学する必要がある。
入学から3年経過すると卒業検定への挑戦権が得られ、新米騎士として騎士団に入団できる程度の実力があると判断されると、ようやく卒業が許可される仕組みだそうだ。
ローガンはきっかり3年、16歳で卒業した数少ない生徒だった。
卒業からまもなく、約3年ぶりにレイヴァーン伯爵家にやってきたローガンを出迎えた14歳のフレイヤは、雷に打たれたような衝撃とともに己の恋心を自覚した。
成長期の男子の3年は、あまりに大きな変化をもたらしていた。
線が細くて儚げな王子様のようだった彼は、ぐんと背が伸び、体つきもしっかりと逞しくなって、まるで別人のようだった。生来の整った顔立ちに凛々しさまで加わって、出会いのあの日のように再び目を奪われてしまう。
「……フレイヤ?」
すっかり声変わりして、低く響くようになった声で自分の名前を呼ばれると、フレイヤはどうしたらいいのかわからなくなって、駆け寄る足がピタリと止まった。
(わ、私……3年前はどうやってローガン様に話しかけてたんだっけ……?)
3年という月日で、フレイヤにも大きな変化があった。
相変わらず、普通の令嬢と比べると2倍か3倍は活発でお転婆だろうが、ちゃんとダンスや作法のレッスンもして、令嬢らしさも身につけた。さすがにもう剣術の稽古はしていないし、木登りだってローガンにたしなめられたあの日一度きりで、あれ以来挑戦していない。
そう、小猿も子犬も卒業したのだ。
しかし、ローガンと過ごしたのは、その小猿・子犬時代。
普通の令嬢として彼に接するにはどうすればいいのか、フレイヤにはさっぱりわからなかった。
それに、思い返すと3年前までの自分が恥ずかしく、まともに顔すら合わせられない。
結果、フレイヤは「お……お勤めご苦労さまでした」という謎の挨拶をして、そそくさと踵を返す羽目になったのだ。
それからというもの、ローガンは以前のように、時折レイヴァーン伯爵家へ顔を出すようになった。
が、フレイヤは過去の自分への羞恥心と、恋心を自覚したことによる照れから、ローガンとろくに顔を合わせられずにいた。
それでも、好きな人の姿は一目見たい。
そこである日、庭園で姉と話している様子をバラの茂みからこっそり眺め──フレイヤは、衝撃に硬直することになった。
(ローガン様のあんな顔、初めて見た……)
姉、ソフィアに何事かを囁かれ、少し怒ったような表情になるローガン。しかしその頬はほんのりと赤く色づいており、本気で怒っている様子ではない。
その表情が何を示すのか……「令嬢」になったフレイヤにはわかってしまった。
(そっか……ローガン様は、お姉様のことが好きなのね)
ズキッと痛む胸を押さえて、その場にしゃがみ込む。
(そうよね……。ローガン様にとって、私はお転婆な小猿か、よく懐いた子犬みたいなものでしょうし。お姉様とは幼馴染で、年も同じ。それに……)
小猿時代には、優しくてお菓子をくれる姉のことがただまっすぐに好きだったフレイヤだが、周囲の人からの見られ方を理解し始めてからは、少し劣等感を刺激されるようになっていた。
(ソフィアお姉様は、お姫様みたいにふわふわしていて可愛いもの。私みたいな、華奢の「き」の字もない大女を好きになってくれるはずがないわ)
フレイヤがソフィアの背を追い抜いたのは、12歳の時だった。その後もフレイヤの身長は伸び、今では母よりも高い。
小さい頃は、男の子にも負けない体格を誇っていたけれど、年頃となったフレイヤにとって、身長やしっかりとした骨格はコンプレックスになっていた。
皮肉にも、ソフィアとフレイヤは髪も瞳の色もよく似ていて、だからこそ違いが強調される。
(あっという間の失恋だったなぁ……)
無理だとわかっていて思いを告げるほどの度胸もなく、フレイヤは恋心に蓋をする道を選んだ。
──それから約1年後。
ソフィアとローガンが17歳になった年に、2人の婚約が発表されたのだった。