(あれ、私……)

 フレイヤが目を覚ましたのは、物置のような狭い一室だった。

 少し埃っぽい部屋のくたびれたソファに横たえられた状態で、両手は身体の前でしっかり縛られている。
 が、擦れて傷にならないようにとの配慮はあったのか、厚手のハンカチを巻いた上からなので強い痛みはない。

 それでも、容赦ない拘束によって血流が滞っているのか、手先が少し痺れていた。

 目覚めても叫んだりできないように、口には猿轡までかまされている。

(ここは……? 私を攫った奴はどこに……?)

 室内に人影はない。
 だが、続き間になっている横の部屋には誰かがいるのか、ドアの隙間から光が漏れていた。

 耳を澄ませると、遠くから微かに弦楽器の音が聞こえてくる。

(まだコネリー侯爵邸の中にいるのかしら……。夜会もまだ普通に続いているみたいだから、あれからあまり時間は経っていないのかも)

 誰がなんのために自分を攫ったのかもよくわからないが、とにかくマズい状況であることは確かだ。

 フレイヤは物音を立てないよう慎重に立ち上がった。
 くたびれたソファが微かに軋んで一瞬緊張が走るが、ドアを隔てた隣室には伝わらない程度で、肩の力を抜く。

(まずは拘束を解かないと……。万が一の時の護身用にナイフを仕込んでいてよかった……!)

 普通のご令嬢であれば、ドレスの下にナイフを仕込むなんて殺し屋みたいな真似は絶対にしないだろう。

 だが、フレイヤは今回の夜会に、フローレンス毒殺未遂犯の情報を探るためにやって来たので、丸腰では心細く、右足の太ももにナイフを括り付けておいたのだ。
 誘拐犯も、まさかフレイヤがそんなものを隠し持っているとは思わなかったのか、幸いにして取り上げられていなかった。

(フレイヤ・レイヴァーン……じゃなくて、アデルブライトを甘く見たことを後悔するがいいわ!)

 まるで悪役のような決め台詞とともに内心で高笑いしつつ、縛られたままの手を使ってドレスの裾を捲くり上げ、ナイフを取り出す。

(ええっと……手で持ったままじゃ、手を縛っている縄は切れないから……足とソファでナイフの柄を挟めばいいかしら)

 まずはナイフの柄を持ったまま、ソファの背もたれ部分と膝で鞘を挟んで抜く。
 手を切らないよう慎重にナイフの腹の部分を持ち、柄を膝で押さえた時だった。

 隣室から、ダン!と机を叩くような音が聞こえ、フレイヤは硬直する。

「一体何をお考えなのですか、父上!」
「おい、声を落とせ」

 若い男性の声と、老齢の男性の声だ。
 フレイヤが拘束され転がされていた部屋の隣室にいるのだから、無関係とは思えない。
 フレイヤは手の縄を切りつつ、2人の会話に耳をそばだてた。

 “父上”と呼ばれた男性に注意されたことを受けていくらか声は潜められたが、扉が薄いのか、会話は筒抜けのままだった。

「王太子妃殿下となられる方の妹君を攫うなど、正気の沙汰ではありません……!」
「いいや、私はこの上なく正気で、状況を正しく認識している。あちらが手段を選ばず私を破滅させようとしているのだ。正攻法ではなんともならん」
「しかし……!」
「しかしではない! あちらが汚い手を使ったのだ。こちらも多少の汚い手を使って交渉に持ち込むしか、もはや道はない」
「……っ、元はと言えば父上が──」
「黙れ!」

 パシャリと水音が響いた。

 それとほぼ同時にフレイヤの手の拘束は解けるが、ナイフの刃が肌をかすめて血が滲み、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 
(横の修羅場に気を取られて油断していたわ……。猿轡をしていて助かったわね)

 自由になった手でその猿轡も取り、ナイフも鞘にしまって、引き続き隣室の会話に耳を澄ませた。

「この出来損ないめが……!」

 吐き捨てるように言う年かさの男性の声。
 会話からして父親なのだろうが、ごく真っ当な諫言(かんげん)をしている息子に対してこの言い様とは穏やかでない。

 と、そこに第三の声が加わった。

「父上、やはりこいつに知らせるべきではなかったのですよ。邪魔にしかならないようですし、こいつも縛って転がしておいてはいかがですか?」
「サムエル……!」

 水か何かを掛けられてから沈黙していた若い男性が、苦味を含んだ声で呟いた。
 そこでフレイヤは、ようやく3人の正体を悟ってはっとする。

(まさか、宰相とその息子たち……? ということは、フローレンス様を排除してお姉様を王太子妃にしようとしたのは宰相──フォンティーヌ公爵? “あちらが破滅させようとしている”っていうのはどういうこと……?)

 次々と疑問が湧いてくるが、先ほどの話からして、フレイヤはフォンティーヌ公爵と何者かの交渉材料──人質として使われる予定だということはわかった。

(どうしましょう……。もう少し情報を得たいけれど、それより脱出の方が優先よね。知りすぎると殺されるというのは、小説の定番だもの。とにかく、ここを離れないと)

 廊下側に見張りがいないとは限らないので却下。
 残る脱出経路は窓しかない。

 隣室では、反対していた若い男性──おそらく公爵家嫡男のギデオンが、弟のサムエルの進言通り拘束されているのか、「おい、やめろ! 離せ!」など抵抗してドタバタしている。

 今ならこちらの物音がかき消える、最大のチャンスだ。
 フレイヤはそう判断すると、なるべく音を立てないように注意しつつ、バルコニーに続く窓を開けた。