かりそめ妻は円満な離縁を所望します!【コミカライズ原作】


 ──その夜。

 フレイヤはあれこれと考えを巡らせるのに忙しく、紙とペンを手にソファに座っていた。

(夜会はかなりの規模でしょうから、ただぼーっと参加するだけでは情報を得られないわ。ソフィアお姉様を王太子妃にすることで得をする人は誰なのか当たりをつけて、その人や関係深い人をマークしないと)

 高位貴族の名簿は、いくらじゃじゃ馬と言ってもきちんと教育は受けているので、頭の中に入っている。

(アーデン侯爵やフローレンス様には干渉しづらいなら……同格の侯爵家が怪しいかしら。でも、アーデン侯爵は知識人で、国外にも広い人脈を持っているというから、公爵家でも簡単には手を出せないわね。それに、侯爵は学者肌で、フローレンス様を介して王太子殿下に干渉しようという野心もなさそうだし……だからこそ、殿下もフローレンス様を王太子妃にと望まれたのかもしれないわ)

 考えてみると、アーデン侯爵と父・レイヴァーン伯爵は系統が似ているかもしれない。
 権力欲がなく、知識人、文官としてそれぞれ地位を確立している。

 王太子がフローレンスを婚約者としたことからして、黒幕は、残る未婚の令嬢の中ではソフィアが最有力候補になるだろうと踏んだのだろうか。

(違いといえば……一番は、階級ね)

 アーデン侯爵家は私学を開設しており、貴族のみならず知識階級に広く強い影響力を持っている。

 それに対し、父は高位文官──より細かく言うと、大臣を補佐する局長と呼ばれる官職の1人だ。
 局長は10人で、その上が5人の大臣、そのまたさらに上が宰相、頂点が国王となっている。

(国王陛下が王太子殿下の婚姻を毒なんかを使って阻むのはありえないわね。それ以外で、お父様に強く働きかけられるという観点で怪しいのは……大臣と宰相の6人かしら)

 大臣や宰相は、全員伯爵以上の高位貴族だ。
 それでも、コネリー侯爵主催の夜会には何人かは参加するだろうが……フレイヤのような小娘が情報を探るには、かなり分が悪い相手である。

「はぁ……少しでも近づけるかしら……」

 壁は高く分厚い。
 姉とローガン、想い合う2人を元あるべき関係に戻したいという意気込みはあっても、気合だけでどうにかなるものではない。

 重苦しい溜息を吐いた時のことだった。

「……フレイヤ」
「ひゃっ!」

 唐突に、地を這うような低い声が室内に響く。
 俯いていたフレイヤが顔を上げると、寝室の入り口にローガンが佇んでいた。

「ロ、ローガン様……いつの間に……?」
「…………」

 無言のまま大股で進んでくるローガンは、いつぞやの再現のようだった。
 今回は一体何事かと驚くが、2回目なだけあってフレイヤは瞬発力をもって立ち上がることに成功する。

 そして、後退りではなく駆け足で、とりあえずローガンから距離を取るため部屋の隅を目指したのだが……。

「逃げるな」

 すぐそばで低い声が聞こえたかと思うと、腕を強く掴まれる。
 その勢いでくるりと身体は半回転し、険しい──というより、どこか苦しそうな表情をしている彼と向き合うことになった。


「あの、ローガン様……?」

 彼の苦しそうな表情が気になって、フレイヤの声は心配の色を帯びる。
 しばらく沈黙していたローガンは、やがてゆっくりと問いを発した。

「……そんなに、俺が憎いか」
「えっ……?」
「逃げられるよりは、刺したいほどに憎い男もろとも手中に収めた方がまだマシだと思って、俺は最大限の譲歩をしたのに……君は愛人などいらないと言いつつ、花か蝶のように男どもを引き寄せては舞っている。……不愉快だ」
「あの……、えっ……!?」

 ローガンが何を言っているのかわからない。
 言葉は聞き取れたが、意味が理解できずにフレイヤはおろおろと視線を泳がせる。

 そうこうしているうちに軽く肩を押され、フレイヤの身体は後ろにあった寝台へとあっけなく倒れた。

 それに続いて、ローガンも寝台の上へあがってくる。
 これではまるで──というか、どう考えても押し倒されているような状態だ。

「ローガン様、あの、これは……」
「何も聞きたくない」

 薄青の瞳は微かに揺れながらも、フレイヤを捉えて離さない。

 こんな時だというのにその美しい双眸に一瞬見とれ──次の瞬間、唇が塞がれていた。

「んんっ……!?」

 彼の外見から受ける冴え冴えとした冷たい印象とは裏腹に、触れる唇は温かい。

 そして、口づけはどこまでも優しく、慈しむようなものだった。
 先ほどまでの強引な動作と、今まさにされているキスとのあまりの違い、ローガンの謎の言葉に混乱し、フレイヤはただ
 固まったままになる。

 その間に、一度離れた彼の唇は再び軽く触れるだけのキスを落とし、それから首筋、鎖骨へと点々と触れながら下っていった。

 今日も今日とてペラペラで頼りない寝間着。
 そのボタンが外される気配があり、フレイヤはぎょっとして飛び起きかける。

 が、動きを察知したローガンに肩を抑えられてそれは叶わず、はだけた胸元に唇が触れた。
 強く肌を吸われる感覚があり、胸元の薄い皮膚が鈍く痛む。

「ローガンさ、……っ!」
「……やめてくれ、止まらなくなる」
「……!?」

 もはや言葉も出てこなくなり、酸欠の魚のように口をぱくぱくさせるフレイヤ。
 もう一度、胸の合間の際どいところに痕をつけたローガンは、視線を逸らすと「すまない」と小さく呟いた。

 外したボタンをきっちり留め直した彼は、ぐしゃりと乱雑に髪をかき乱す。

「夜会には俺も行く。逃げられると思うなよ」

 まるで宣戦布告のような言葉を残し、ローガンは浴室の方へと消えていったのだった。



 ハッと、気絶から意識を取り戻すように目覚めたフレイヤは、窓の外が明るくなっていることに気づいて、己の神経の図太さに頭を抱えた。

(あんなことがあったあとで、私、いつの間にどうやって眠ったというの……!?)

 フローレンスに毒を盛った犯人、ローガンの理解不能な言葉、そしてキス。
 怒涛の情報量に頭がついていけず、強制終了してしまったのだろうか。

(……っていうか、もしかしてあれは夢だったのではなくて? やだ、私ったらいくら街で色々と色事まわりの話を聞いたことがあるからって、経験もないのにそんな……)

 自分に呆れつつ、寝間着の襟元を軽く引っ張って胸元を覗き込む。

 左寄りの胸の上と、谷間のあたりに1つずつ。
 赤紫色の痕がそれはもうくっきりはっきり見間違えようもなく刻まれていて、フレイヤは再び頭を抱えた。

「ゆ、夢じゃなかった……」
(……えっ? ということは、あれもそれもこれも全部現実……?)

 昨夜のローガンの言動が、ものすごい勢いで頭の中を駆け抜けていく。

 苦しげに吐き出された『逃げられるよりは、刺したいほどに憎い男もろとも手中に収めた方がまだマシだと思って、俺は最大限の譲歩をしたのに……君は愛人などいらないと言いつつ、花か蝶のように男どもを引き寄せては舞っている。……不愉快だ』という言葉。

 唐突に落とされた優しいキス。

 痕を刻みつけながら『……やめてくれ、止まれなくなる』と、どこか熱っぽく言う声。

 そして、『夜会には俺も行く。逃げられると思うなよ』という宣言。

(ちょっと待って……。これじゃあ、まるでローガン様が私のこと……)

 そこまで考えて、フレイヤはぶんぶんと首を横に振った。

(夢を見すぎよ、フレイヤ! 冷静に、言われた言葉から読み取れる客観的な事実を見つめなさい!)

 深呼吸して心を鎮め、フレイヤは、ノートに箇条書きで事実と思われるものを綴っていく。

 ・フレイヤ(妻)に逃げられるよりは、愛人を囲われる方がまだマシ
 ・フレイヤ(妻)が他の男と関わるのは不愉快

「あとは、ええっと……」

 ・情欲自体はある
 ・夜会にはローガン様も行く

「これくらいかしら」

 書き出してみてもまだ、(これってやっぱり……?)という気持ちが拭えずに期待を抱いてしまう。
 再び頭を抱えていると寝室の扉がノックされ、フレイヤは慌ててノートを閉じた。

「おはようございます、奥様」
「お、おはよう……」

 マーサのあとには、目覚めのお茶が載ったワゴンを押しているエヴァと、普段着用のドレスを持ったベラが続いて入室してきた。

(そうだ、着替え……!)

 胸元の赤い印を侍女たちに見られるのは、とてつもなく恥ずかしい。
 だが、名実ともに夫婦であると見せかけるために寝具を乱したりしたこともあったわけで、今更恥じらうのも怪しいだろう。

(ど、堂々と……こんなのいつも通りですわオホホホ!という感じを装うのよ)

 そう決意したフレイヤだったが……。

「まぁ、旦那様ったら!」

 マーサの声で、じわりと頬が熱を持ちはじめる。

「これでは夜会のドレスの選択肢が限られてしまいますわね。夜会の話が出た途端にこれとは、旦那様も心配性ですこと」
「心配性……」

 マーサにまでそう言われると、先ほどまでの自分の考えが正しいのではないかと思えてくる。

 しかし、では一体これまで散々険しく冷たい表情を向けられていたのはなんだったのだろうか。
 今に始まったことではないが、ローガンの考えがさっぱりわからない。

「今日は夜会用のドレス選びをいたしましょうか。旦那様は騎士服でしょうから、合わせて青みの入った色がよろしいかと思いますわ」
「ええ……いくつかよさそうなのを見繕ってちょうだい」
「お任せください、奥様」

 ローガンの騎士服には、何種類かある。

 婚姻の儀や最重要式典などの時には、純白の布地に金糸で刺繍が施された豪奢なもので、マント付き。
 通常式典やパーティーでは、濃紺の布地で刺繍装飾はないが、金の飾緒がついており、武官らしさと控えめながらも華があるものだ。

 フレイヤはまだ見たことがないが、訓練などの際には、汚れが目立ちにくい黒のシンプルな騎士服を着ることもあるらしい。

 今回は通常の夜会なので、ローガンの服装は濃紺の騎士服となる。
 パートナーとはある程度色味を合わせるものだから、フレイヤのドレスも青系統が望ましいというわけだ。

(そういえば、ローガン様とパーティーに出るのは初めてね)

 フレイヤとローガンが公の場で並んだのは、婚姻の日が最初で最後だ。
 婚約は結婚準備までに必要な最短期間だけのうえ、ローガンの多忙と社交シーズンから外れていたことも影響して、2人で揃ってパーティーに出る機会がなかった。

(一番の目的は情報収集だけれど、彼と一緒に夜会に参加できることは嬉しい──って、喜んでいる場合じゃないわ。私はお姉様と円満離縁と事件の手がかり探しのために……あれ? ちょっと待って。昨夜のローガン様のあれこれが私の都合のいい思い込みでないなら、離縁計画はナシになるのではないかしら……?)

 愕然として固まるフレイヤを不思議に思ったらしいマーサに「奥様?」と呼びかけられて、ハッとする。

(とにかく、ローガン様としっかり話をしたいわ。気持ちをはっきり確かめるのは怖いけれど……重要なことだもの)

 近頃、ローガンは遅くなっても夜は必ず帰ってきている。
 なので、今夜にでも話をしようと思っていたフレイヤだが……。


「本日、旦那様はお帰りになられないとのことです」
「……そう」

 夕食の前に久しぶりに家令からそう伝えられて、がくりと肩を落としそうになった。
 しかし、同時に罪悪感が湧いてくる。

(もしかして……急に夜会に参加することになったから、その分のお仕事をされているのかしら)

 別に1人でも大丈夫なのに、という思いがよぎるが、「逃げられると思うなよ」とまで言われている。

(改めて思い出してみると、まるで人攫いか何かの台詞みたいね……)

 それでもなんだか嬉しく思えるのは、惚れた欲目に違いなかった。



 どことなく浮かれた気分でいたフレイヤは、その3日後、遠い目をして宙を眺める羽目になっていた。

(私、「結婚後夫に放置されている妻選手権」があれば、優勝しているかもしれないわ)

 そう。ローガンが再び帰ってこなくなったのだ。

 おまけに、今日こそは話がしたいので王城へ使いを走らせて手紙を届けてもらったのだが、返事はなし。
 その代わり、いつかのように、メッセージカードもない花束だけが届けられた。

「今日も帰れない」という伝言とともに。

 ……これは、完全に避けられている。

(いっそ、明日王城に乗り込んでみようかしら……。でも、夜会の日には必ず帰ってくるはずよね。最悪、話はその時にしましょう)


 ──結局、ローガンが帰宅したのはそのさらに3日後。
 夜会当日の夕方になってからだった。

「……フレイヤ」

 既に支度を終え、ごく淡い紫色のドレスを身にまとったフレイヤへ、濃紺の騎士服を着たローガンが手を差し出す。

 今日は睨むような眼光の鋭さはなく、視線を合わせずどことなく沈んでいるような様子の彼が気になるが、話は馬車の中でしようと思ったフレイヤは、無言でその手を取った。

「行ってくる」
「行ってきます」

 家令と侍女たちに見送られ、2人は馬車に乗り込んだ。



「…………」
「…………」

 馬の蹄がカポカポと石畳を踏みしめる軽快な音だけが響く客室内。

 目も合わせず、拒絶するようなローガンを前にして話しかける勇気はなかなか湧いてこないが、フレイヤは思い切って声を上げた。

「ローガン様、話がしたいです」
「……俺は、したくない。無理強いしないと誓っておいて、あんな真似をしてすまなかった。殿下の御身を守る騎士である以上利き腕を潰すようなことはできないが、フレイヤの気が済むように──」
「でしたら、ちゃんと話がしたいです」
「それだけは嫌だ。聞きたくない」
「私も話を聞いてもらえないのは嫌です。こうなったら勝手に話します」
「なら、俺は勝手に口を塞ぐ」

 揺れる馬車の中でも危なげなくこちら側へ移ってきたローガンは、白手袋を外すと、フレイヤの頬に触れた。

(塞ぐって……もしかしなくても、その……?)

 目をまたたいてローガンを見つめているうちに、彼の顔が徐々に近づいてくる。

「嫌なら、黙っていることだ」
(やっぱり、ローガン様と微妙に話が噛み合っていないというか……)
「それでは嫌がらせに──っ、……!」

 ならないのですが、という言葉は、宣言通り口を塞がれたことによって、音になることはなかった。

 あまりに近すぎてぼやけるローガンの顔を、フレイヤは目を閉じることも忘れて見ていた。

 しかし、今日という今日こそは話をしたいので、ローガンの両肩を押して離れようとする。

(全っ然動かないのだけれど……!?)

 渾身の力も虚しく、ローガンの身体はぴくりとも動かない。
 それどころか抵抗を封じるように抱きしめられ、フレイヤの身体から力が抜けていった。

「何も言わないでくれ……頼むから」

 唇を離し、懇願するような声音で言うローガン。
 ここまでくると流石に、フレイヤも「自惚れではないのでは?」と確信に近い思いを抱き始める。

「い……ぁ、ですか……っ、らっ!」
(いや、あの、ですから……!)

 なんとか意思の疎通を図ろうと、細切れにでも音を発しようと試みるが、ついには手のひらで口を塞がれてしまった。

 それでもモゴモゴと話そうとするフレイヤを、ローガンは憂いを帯びた表情で見つめる。

「すまない。本当に……」

 謝りながらも、額、瞼、そして目尻へと次々にキスが落とされ、フレイヤの鼓動はうるさいほどに高鳴ってゆく。

「嫌だということはわかっている。なのに俺は、フレイヤを自由にできない。おまけにこの顔も、筋肉も、身長も声も、どうしようもない」
(……???)

 唐突に出てきた「顔」「筋肉」「身長」「声」というワードに、フレイヤは内心で首をかしげる。

(やっぱり、何か深刻な誤解が生じているとしか思えないのだけれど……?)

 口を塞いでいるローガンの手をなんとか剥がそうと試みるが、痛くはないのにガッチリと押さえられていて、それも叶わない。

 静かな攻防を繰り広げているうちに、馬車は目的地であるコネリー侯爵邸へ近づいたのか、減速を始めた。

(会場についてしまえば人目もあるし、話す機会はあるはずよ)

 そう読んだフレイヤは、一旦抵抗を諦めることにする。

「旦那様、奥様。到着いたしました」
「ああ」

 ここでようやく手が離され、2人はコネリー侯爵邸の正門前へと降り立った。
 門の前には、招待状を確認している侯爵家の使用人らしき人物がいて、馬車を降りた招待客たちの姿もちらほらあった。

 これならば流石に口は塞がれないだろうと、フレイヤは懲りずに口を開く。

「ローガン様、私……っ、や……!」
(ローガン様のことが好きだって言わせてほしいだけなのに……!)

 これまでは触れるだけに留められていたキスが、今回は少し違った。

 時折唇を優しく()むようにしつつ、角度を変えながら何度も唇が重ねられる。
 どこからか口笛が聞こえて、フレイヤは羞恥心で顔が真っ赤になるのを感じた。

 キスが止んだ瞬間、自分の手で口元を押さえてガードし、ローガンを涙目で恨みがましく睨みつける。

「……ひどいです」
「ああ、俺は酷い男だ。だからどうか今夜だけは、何も言わずに俺の妻として振る舞ってくれ。でないと、俺はどこで誰が見ていようが、今みたいに君の唇を塞ぐからな」

 周囲には聞こえないように囁かれて、フレイヤは無言で何度も頷いた。

 話はしたいが、ローガンが半ば自棄を起こして、公衆の面前でもキスすることを躊躇わない状態であることは嫌というほどわかった。

 情報収集に来たはずが、社交界の有力者が多く集まる中で脳みそが砂糖で侵されているような振る舞いを見せつける羽目になるのは避けたい。
 話し合いは帰宅まで持ち越しだ。


「ローガン・アデルブライト卿、フレイヤ夫人、ようこそいらっしゃいました」

 招待状を回収され、中へと通される。

 ──波乱の夜会が、幕を開けようとしていた。




 フレイヤの予想通り、夜会は若い令嬢やその父兄、有力貴族たちがひしめく豪華絢爛なものだった。

(これは……壮観ね……)

 言葉を失うフレイヤをローガンがそっと促し、2人は会場の中央へと進んでいく。

 そこでは、本日の夜会を主催するコネリー侯爵が、招待客たちから次々に挨拶を受けていた。

 若き侯爵は、見目麗しい貴公子という評判通りの人物のようだ。
 涼やかなシルバーブロンドの髪はゆったりと長く、シャンデリアの光を受けてキラキラと輝く。

 目は深く澄んだ海を思わせる深い青で、シャープで男性らしい輪郭はありながらも、「美人」と賞するのがふさわしい印象だ。

 にこやかに挨拶をする様子を見ていると、コネリー侯爵がふと、こちらへ視線を向ける。
 そしてふんわりと柔らかに微笑んだ。

(……なんだか、出会った日のローガン様を思い出すわ。寄宿学校に入られる前は、まだ線が細くて、華奢な王子様みたいだったのよね)

 懐かしい気持ちに浸っていると、ぐっと腰を抱き寄せられる。
 どうやら挨拶の順番が回ってきたようだ。

「やぁ、ローガン。久しぶりだね」
「……ああ」

 どうやら2人は知り合いらしい。
 ローガンはコネリー侯爵と打ち解けた……というよりはややぶっきら棒に、遠慮のない口調で話し始める。

「婚姻の時には顔を出せなくてごめん」
「いや、継承で大変だったんだろう」
「そうそう。国内外を飛び回っててもうバッタバタだったよ。……それで、愛しの奥様を紹介してくれないのかい?」
「…………」

 数秒沈黙していたローガンは、フレイヤをよりぐっと引き寄せながら「妻の、フレイヤだ」と短く紹介した。

 流石にこの挨拶の場面では「口を塞ぐ」宣言は無効だろうと判断して、フレイヤは礼をする。

「お初にお目にかかります、コネリー侯爵。ローガンの妻、フレイヤです。どうぞお見知りおきくださいませ」
「初めまして、フレイヤ夫人。ローガンには昔から親しくしてもらっているんだ。……遅くなったけれど、結婚おめでとう。今宵のパーティーを2人で楽しんでくれると嬉しいよ」
「ええ、ありがとうございます」
「ではな」
「うん、またね」

 挨拶待ちの人々がまだまだいるので、2人は侯爵のもとを離れる。

(侯爵様とはどういう関係なのかしら。聞いてみたいけれど……余計なことを言ってまた公衆の面前でキスされるのは避けたいわ)

 何がきっかけでローガンが暴走するかわからないので、フレイヤは沈黙を選んだ。

「何か食べるか?」
「…………」

「はい」くらいは言っても大丈夫だろうとは思ったが、話し合いの手段を封じられていることへの反抗で、黙ったまま頷いてみる。

 ローガンがほんのわずかに眉尻を落とすので、フレイヤは罪悪感を抱くのと同時に、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

(今日は睨まれていないせいかしら? それとも、ローガン様に嫌われていないようだとわかったから? なんだか彼の感情がちゃんと表情から伝わってくる気が……)

 口元を自分の手でガードして「食べます」と囁いてみると、ローガンは小さく頷いて、食事が並ぶテーブルの方へと歩を進めた。

 盛装のドレスなのであまりお腹には入らないが、用意されている食事はどれも美味しそうで、フレイヤは厳選しつつ口に運んでいく。
 果物にも手を伸ばそうとした時、会場内がにわかにざわついた。

(あれは……!)

 会場に入ってきたのは、壮年の男性1人と、2人の青年だ。

 先頭を歩く壮年の男性こそが、本日フレイヤがお目当てとしている人物の1人──ベリシアン王国宰相、フォンティーヌ公爵。
 白髪交じりの黒髪は60歳近い年相応だが、恰幅よく威厳あふれる姿に老いは感じられない。

 続く青年は、公爵家の子息たちだ。
 フレイヤの脳内に収まっている貴族名簿が正しければ、黒髪でやや冷たそうな雰囲気の方が嫡男のギデオン、栗色の髪で人当たりのよさそうな雰囲気の方が次男のサムエルのはずだ。

 ギデオンは24歳、サムエルは21歳で未婚。
 
 公爵でおまけに宰相という大貴族の子息なのに未婚なので、特に嫡男の方は訳ありなのではないかと噂され始めているが、それでも妻の座を狙う令嬢は多いことだろう。
 その証拠に、コネリー侯爵へ狙いを定めていた女性たちの一部は、2人の公爵家子息へ熱視線の先を移している。

(容疑者候補のうち、夜会に来ているのは──宰相閣下と財務大臣、開発大臣の3人ね。情報を得たいところだけれど……人前で悪巧みの話なんてするはずもないし、あとをこっそりつけてみるとか……?)

 コネリー侯爵に挨拶をする宰相とその息子たちをぼんやり眺めつつ考えを巡らせていると、ふと、頬にローガンの手が添えられた。

 そして、フレイヤの顔の向きを正面へと戻す。

「…………」
「…………」

 渋い顔をしたローガンは何も言わず、じっとフレイヤを見下ろした。

(……なんでしょう?)

 公開キスは避けたいけれど、意思の疎通は多少図りたい。
 フレイヤが口パクで疑問を訴えかけてみると、ローガンはわずかに瞼を伏せ、溜息を吐いた。

「俺は……最低だな」
(……?)
「話を聞きたくないと言葉を奪ったのは俺なのに……フレイヤの声が聴きたい」
(話を聞いてくださるならいくらでも喋りますけれど……!)

 絶望的なすれ違い具合に頭を抱えたくなりながら、フレイヤはせめて気持ちが伝わればいいと思い、ローガンにそっと寄り添う。

「……フレイヤ?」

 逞しい腕を半ば抱きかかえるようにすると、ローガンは空いている方の手で目元を覆って天を仰いだ。

(嫌がられてはいない……というか、喜んでらっしゃる、と思っていいのかしら。でも……ローガン様が私のことを想ってくださっているとして、一体いつから……?)

 ローガンは、フレイヤの姉、ソフィアに恋をしていたはずだ。

 だが、先日の言葉の言葉から、「ユーリを愛人として囲ってはどうか」という提案の時点で既にフレイヤのことも憎からず想っていた可能性が出てきた。

 結婚から2人はあまり会話もしていないので、その間にどんな心変わりがあったのかまったくわからない。

(ああ、早くちゃんと話したい……! けれど、情報も何か得たいし、お姉様は今、ローガン様のことをどう思っているのかも確認したいわ……)

 実妹でも、王太子妃教育の真っ最中であるソフィアに会うことは容易ではない。

 ローガンとのことで姉に複雑な思いを抱いていたこともあって、手紙も頻繁にはやりとりしていなかったから、姉が彼をどう思っているのかもはっきりしない。

 わからないことだらけだ。




 フレイヤが難しい顔をして考え込んでいるうちに、夜会の会場内には優美な音楽が流れ始めていた。

 三拍子のゆったりした曲に合わせて、1組、また1組とダンスの輪に加わり始める。

「……どうか、一曲だけ」
「……!」

 驚いたフレイヤがローガンを見上げると、彼は物憂げにも切実にも思える表情でこちらを見つめていた。

「気に食わなければ足を踏もうが何をしようが構わない。一夜の思い出をくれ」
(この一夜と言わず、何度でも何曲でも踊りますが……!?)

 足を踏んだりしない、という意図を込めて首を横に振るが、ローガンは目に見えて落ち込んだ様子になってしまった。

「……すまない。高望みをした」
(だから誤解ぃぃぃ……!)

 「誰が踊るものですか」という意図だと誤解されたと察し、フレイヤは再び首を横に振る。

 口元を手のひらでガードして、「喜んで」と短く伝えると、ローガンは驚いた様子で目をみはった。

「……いいのか?」
「もちろん」
「……ありがとう」

 ふんわりと優しく微笑まれて、フレイヤは卒倒しそうになりつつ、よろよろと会場の中央へと足を進める。

(婚約からこの方、凍りつきそうに冷たい目線をもらってばかりだったし、眉間には渓谷みたいに深い皺が刻まれていたし、まともにお顔を見られないことが多くて気づかなかったけれど……こうして優しく笑うと、結構昔の面影が残ってらっしゃるのね)

 以前、寝顔を見た時にも面影を感じたものだが、微笑みとなるとさらに少年時代を彷彿とさせる。

 それでいて、凛々しく雄々しい大人の男性としての魅力も溢れているものだから、対フレイヤ限定で破壊力は倍増だ。

 ふわふわと半ば夢見心地のようになりながら、フレイヤはローガンのエスコートで会場の中央部へと立つ。
 曲に身を委ねてゆったりとステップを踏むと、ローガンの絶妙なリードもあって、淀みなく身体が動いた。

 元来活発で運動好きなフレイヤにとって、ダンスは割と得意分野だ。

 しかし、ずっと叶わぬ恋だと諦めていた相手と、もしかすると想いが通じ合っているかもしれない(フレイヤの好意は絶望的に伝わっていないが)と認識したばかりの状態では、どうにも集中できない。

 時々動きが危うくなってひやっとするけれど、すぐさまローガンのサポートが入るので、傍目には危なげなく滑らかなダンスに見えていることだろう。

 永遠に続いてほしいと願ってしまうような時間はあっという間に過ぎ、曲は終盤へ向かっていく。

 弦楽器が最後の旋律を余韻たっぷりに奏で上げ、会場内は一瞬の静寂に包まれ、次の瞬間拍手が湧き起こった。

「……ありがとう」

 再び優しい声がそう告げて、フレイヤはまた口元をガードしつつ「こちらこそ」と返す。

 その時──。

「し、失礼します……っ!」

 若干声を裏返しながら、1人の騎士が近づいてきた。

「……あ、ジンさん」
「ひぃあっ!」

 フレイヤがぽろっと名前を零すと、以前ローガンの使いで(ララ)を届けてくれた騎士は、身体を竦ませて悲鳴じみた声を上げる。

 「コロサナイデ……」だとか、裏返りきった高い声で囁くように言っているのは聞き間違いだろうか。

「……なんだ」

 地を這うように低いローガンの声にさらに身を竦ませながら、ジンは果敢にも口を開いた。

「レッ、例の件で、おはっ、お話がありまして……!」
「…………わかった」

 たっぷり間をおいて頷き、ローガンはフレイヤへと視線を向ける。

「フレイヤ、俺は少し外す。すぐ戻るから、会場内にいてくれ」
「……はい」
(お仕事の話……かしら?)

 フレイヤを避けているのか、本当に忙しいのかがいまいち判断しづらかったのだが、こうして夜会の最中にも呼び出されるところを見ると、多忙なのは間違いない。

 遠ざかっていくローガンの背中をしばらく見つめたあと、フレイヤは会場の端へと移動した。


 壁の花になっている控えめなご令嬢たちの列に混じってみようかと一瞬考えるが、すぐにやめる。
 フレイヤは普通のご令嬢より頭1つ分くらいは背が高いので、並ぶと悪目立ちしてしまうだろう。

 果実水のグラスを受け取って食事が並ぶテーブルのそばに佇み、ひっそりと会場内を観察する。

 2人の大臣は、夜会を楽しむというより、仕事の延長で来たのだろう。
 他の有力者と何やら話し込んでいて、フレイヤのような小娘が近づける雰囲気ではなかった。

 宰相と嫡男のギデオンはいつの間にか会場から消えている。

 その代わりに次男のサムエルが令嬢たちに囲まれ、コネリー侯爵とサムエルの周囲が大輪の花のようになっていた。これはこれで壮観だ。

(情報収集よ!って意気込んでいたけれど、私は特殊訓練を受けた諜報員でもないのだし、怪しまれずに話を盗み聞きすることすらも難しいわよね……どうしようかしら)

 そこでふと、フレイヤはあることに気づいた。

 夜会に参加しようと思い立った時点では、ローガンとソフィアが婚約を解消する羽目になった発端であるフローレンスの毒殺未遂事件の犯人を暴くことで、この件に関わる人物たちの関係をもとに戻すことが目標だった。

 すなわち、王太子とフローレンス、ローガンとソフィアの組み合わせだ。

 しかしよくよく考えてみれば、フレイヤは自分以外の関係者の思いについて、本人から直接はっきりと聞いたことがない。
 最も身近にいたローガンが何を考えているのかもよくわからないのだから、離縁や復縁については一旦立ち止まるべきだろう。

 一方、フローレンス毒殺未遂事件の解決は引き続き最重要だ。

 犯人やその目的がわからないままでは姉が気がかり。
 それに、姉が王太子妃になることが黒幕の狙いなのだとしたら、レイヴァーン伯爵家や王太子、果てはベリシアン王国へも、いずれ悪影響が出る可能性がある。


(ローガン様は王太子殿下の側近なのだし、私が得ている程度の情報はもうお持ちかもしれないけれど……戻ってこられたら報告を──って、迂闊には喋れないんだったわ)

 「お話が」と切り出した時点で口を塞がれる未来が見えてしまって、フレイヤは額を押さえた。

「……あ、そうだわ」

 話は屋敷に帰ってから、どうにか頑張ってたくさんするとして。
 この会場内では意思の疎通を図るのが難しいので、もう1つ切実な問題があった。

 ──お手洗いだ。

(あの、って言いかけた時点で口を塞がれたらたまったものじゃないわ。まだ平気だけれど、ローガン様がいない今のうちに一度お手洗いに行っておきましょう)

 空になったグラスを給仕に渡し、フレイヤは主会場を出る。

 ローガンには会場内にいてくれと言われたけれど、同じ建物内のお手洗いであればギリギリ「会場」の範囲内だろうし、彼が戻る前に戻れば問題ない。

 楽団の奏でる音楽や、人々の談笑の声といったパーティーの喧騒から少し離れると、一気に静かになったように感じられて、フレイヤはなんだか落ち着かない気分になった。

 足早にお手洗いへの道筋を進んでいると、後ろから駆けてくる足音が聞こえる。
 切羽詰まっているんだろう──なんて呑気に考えたその時だった。

「んんっ!?」

 突然、背後から羽交い締めにされて、口元に布が押し付けられる。

(何、この変な匂い……! どこかで嗅いだことがある、ような……)

 ジタバタともがくが、その際息を吸ってしまって、くらりと目眩がする。
 そこでフレイヤは、覚えがある匂いがなんだったのかを思い出していた。

(これ……酔酩(すいめい)の果実……)

 酔酩の木は、この大陸の森で稀に自生している植物だ。
 一見美味しそうな赤い小さな実には意識を混濁させる作用があり、ほんの少し食べただけでも酩酊したようになる。

 小さい頃に森で見つけて食べようとした時、父が珍しく血相を変えて「駄目だ!」と叫んだのだった。

 麻酔としても使われる実の果汁を含ませた布を嗅がされるというのは……どう考えても、何かしらマズい事態が起きている。

 極力吸い込まないようにと呼吸を我慢しつつ、フレイヤは力尽きたように抵抗を弱めた。
 気絶したふりをして、隙を見て逃げようと考えたのだ。

 だが……。

(だめ……意識が……)

 最初に思いっきり吸ってしまった分が効いてきたらしく、眠気よりずっと暴力的な何かが、強制的に意識を奪っていく。

(ローガン、様……)

 薄青の瞳をした愛しい人の姿を思い浮かべたのを最後に、フレイヤの意識は深く沈んでいった。





(あれ、私……)

 フレイヤが目を覚ましたのは、物置のような狭い一室だった。

 少し埃っぽい部屋のくたびれたソファに横たえられた状態で、両手は身体の前でしっかり縛られている。
 が、擦れて傷にならないようにとの配慮はあったのか、厚手のハンカチを巻いた上からなので強い痛みはない。

 それでも、容赦ない拘束によって血流が滞っているのか、手先が少し痺れていた。

 目覚めても叫んだりできないように、口には猿轡までかまされている。

(ここは……? 私を攫った奴はどこに……?)

 室内に人影はない。
 だが、続き間になっている横の部屋には誰かがいるのか、ドアの隙間から光が漏れていた。

 耳を澄ませると、遠くから微かに弦楽器の音が聞こえてくる。

(まだコネリー侯爵邸の中にいるのかしら……。夜会もまだ普通に続いているみたいだから、あれからあまり時間は経っていないのかも)

 誰がなんのために自分を攫ったのかもよくわからないが、とにかくマズい状況であることは確かだ。

 フレイヤは物音を立てないよう慎重に立ち上がった。
 くたびれたソファが微かに軋んで一瞬緊張が走るが、ドアを隔てた隣室には伝わらない程度で、肩の力を抜く。

(まずは拘束を解かないと……。万が一の時の護身用にナイフを仕込んでいてよかった……!)

 普通のご令嬢であれば、ドレスの下にナイフを仕込むなんて殺し屋みたいな真似は絶対にしないだろう。

 だが、フレイヤは今回の夜会に、フローレンス毒殺未遂犯の情報を探るためにやって来たので、丸腰では心細く、右足の太ももにナイフを括り付けておいたのだ。
 誘拐犯も、まさかフレイヤがそんなものを隠し持っているとは思わなかったのか、幸いにして取り上げられていなかった。

(フレイヤ・レイヴァーン……じゃなくて、アデルブライトを甘く見たことを後悔するがいいわ!)

 まるで悪役のような決め台詞とともに内心で高笑いしつつ、縛られたままの手を使ってドレスの裾を捲くり上げ、ナイフを取り出す。

(ええっと……手で持ったままじゃ、手を縛っている縄は切れないから……足とソファでナイフの柄を挟めばいいかしら)

 まずはナイフの柄を持ったまま、ソファの背もたれ部分と膝で鞘を挟んで抜く。
 手を切らないよう慎重にナイフの腹の部分を持ち、柄を膝で押さえた時だった。

 隣室から、ダン!と机を叩くような音が聞こえ、フレイヤは硬直する。

「一体何をお考えなのですか、父上!」
「おい、声を落とせ」

 若い男性の声と、老齢の男性の声だ。
 フレイヤが拘束され転がされていた部屋の隣室にいるのだから、無関係とは思えない。
 フレイヤは手の縄を切りつつ、2人の会話に耳をそばだてた。

 “父上”と呼ばれた男性に注意されたことを受けていくらか声は潜められたが、扉が薄いのか、会話は筒抜けのままだった。

「王太子妃殿下となられる方の妹君を攫うなど、正気の沙汰ではありません……!」
「いいや、私はこの上なく正気で、状況を正しく認識している。あちらが手段を選ばず私を破滅させようとしているのだ。正攻法ではなんともならん」
「しかし……!」
「しかしではない! あちらが汚い手を使ったのだ。こちらも多少の汚い手を使って交渉に持ち込むしか、もはや道はない」
「……っ、元はと言えば父上が──」
「黙れ!」

 パシャリと水音が響いた。

 それとほぼ同時にフレイヤの手の拘束は解けるが、ナイフの刃が肌をかすめて血が滲み、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 
(横の修羅場に気を取られて油断していたわ……。猿轡をしていて助かったわね)

 自由になった手でその猿轡も取り、ナイフも鞘にしまって、引き続き隣室の会話に耳を澄ませた。

「この出来損ないめが……!」

 吐き捨てるように言う年かさの男性の声。
 会話からして父親なのだろうが、ごく真っ当な諫言(かんげん)をしている息子に対してこの言い様とは穏やかでない。

 と、そこに第三の声が加わった。

「父上、やはりこいつに知らせるべきではなかったのですよ。邪魔にしかならないようですし、こいつも縛って転がしておいてはいかがですか?」
「サムエル……!」

 水か何かを掛けられてから沈黙していた若い男性が、苦味を含んだ声で呟いた。
 そこでフレイヤは、ようやく3人の正体を悟ってはっとする。

(まさか、宰相とその息子たち……? ということは、フローレンス様を排除してお姉様を王太子妃にしようとしたのは宰相──フォンティーヌ公爵? “あちらが破滅させようとしている”っていうのはどういうこと……?)

 次々と疑問が湧いてくるが、先ほどの話からして、フレイヤはフォンティーヌ公爵と何者かの交渉材料──人質として使われる予定だということはわかった。

(どうしましょう……。もう少し情報を得たいけれど、それより脱出の方が優先よね。知りすぎると殺されるというのは、小説の定番だもの。とにかく、ここを離れないと)

 廊下側に見張りがいないとは限らないので却下。
 残る脱出経路は窓しかない。

 隣室では、反対していた若い男性──おそらく公爵家嫡男のギデオンが、弟のサムエルの進言通り拘束されているのか、「おい、やめろ! 離せ!」など抵抗してドタバタしている。

 今ならこちらの物音がかき消える、最大のチャンスだ。
 フレイヤはそう判断すると、なるべく音を立てないように注意しつつ、バルコニーに続く窓を開けた。




(ここ、2階だったのね……)

 夜の少しひんやりとした風が頬を撫でる。

 下は芝生だが、2階とはいえ結構な高さがあるので、飛び降りたら最悪の場合足が折れるかもしれない。
 飛び降りる決心がつかず、バルコニーの手すりを握りしめ──フレイヤは、目の前にあるものに目を留めた。

(この木の枝に飛び移って、木の幹伝いに降りるというのは……?)

 大きく立派な木は、枝が建物に触れそうになったのか、途中で切り落とされている。
 しかしそのことによって、飛び移れないこともない距離にある枝はしっかりと太く、フレイヤ1人くらいの体重なら受け止めてくれそうだ。

 位置はバルコニーと同じくらいの高さで、距離は1メートルほど。
 ドレスで動きにくいのが難点だが、フレイヤなら飛び移るのは不可能ではない──と信じたい。

(もし上手く飛び移れなくても、手が引っかるとかして勢いを殺せたら、足も無事に済む確率が上がるはずよ……たぶん。ええ)

 手が震えるが、怯えている間にも、フォンティーヌ公爵とサムエル一派がフレイヤの逃走に気づくかもしれない。
 気づかれたら最後、より厳重に拘束されてナイフも取り上げられ、二度と逃げ出すことはできなくなるだろう。

(やるしか、ない……!)

 大きく深呼吸したフレイヤは、靴を脱いで芝生の上へ放り投げた。
 少し踵が上がった華奢な靴を履いているよりは、裸足の方がまだ安定するはずだ。

 バルコニーの手すりによじ登り、震える手を強く握りしめる。
 何度か軽く膝を曲げて緊張を誤魔化し、両手を大きく振って勢いをつける。

「3,2,1──!」

 囁くような小声でカウントすることで踏ん切りをつけ、フレイヤは全力で跳躍した。

「ひっ……!」

 木の枝に足が届き、勢いのまま幹の方へと数歩駆けるように進む。
 太い幹に抱きつくようにしてしがみつき、フレイヤは浅く速い呼吸を繰り返した。

「た、助かった……?」

 エヴァが聞いていたら「地面に降りるまでが脱出です」と言うかもしれない。
 そんなことを思いつつ、地面に降りる道筋を考えていた時──先ほど脱出したばかりの部屋の方がにわかに騒がしくなる。

(もう気づかれた……!?)

 慌てて木から降りようとするが、それより先に「フレイヤ!!」と大声が響いた。

「ローガン、様……?」

 フレイヤの口から、そよ風にすらかき消されそうな、微かな声が漏れる。

 今の声は、間違いなく。

「……フレイヤ! どこだ!!」

 ダン!と勢いよく扉が蹴破られ、ローガンを先頭に、ジンやその他騎士団員が室内に雪崩込んだ。

 フレイヤはよろよろと、少しでもローガンに近づこうと、枝の先の方へ足を進める。
 しかし、明かりが灯された室内からは暗い外の様子は見えづらいらしく、ローガンはじめ騎士たちがこちらに気づく様子はない。

 その間に、隣室にいたフォンティーヌ公爵と次男のサムエルが捕らえられたようで、騎士たちによってローガンの前へと連れてこられた。

「離せ、無礼者!」
「父と私を誰だと思っている! 貴様ら全員ただで済むと思うなよ!」
「…………」

 ローガンは、先ほどまでの勢いが嘘のように沈黙し、ソファの上を凝視していた。
 やがて身をかがめ、布と縄の切れ端──先ほどまでフレイヤを拘束していたものの残骸を手に取り、握りしめる。

 顔を上げた彼の姿を見て、フレイヤは身を竦めそうになった。

 ──ローガンは、とてつもなく激怒していた。

 これまでフレイヤが見た険しい顔なんて比ではない。
 眼光だけで人を殺せるのではと思うくらいに冷たく、それでいて高温の青い炎を思わせるような瞳で、ローガンは公爵を睨みつけた。

「──フレイヤに、何をした」
「……っ!」

 喚き散らしていたフォンティーヌ公爵もサムエルも、慄いたように口を閉ざす。

 が、腐っても公爵にして宰相。
 すぐに表情を取り繕い、「なんのことやら」とせせら笑った。

「我々は少し休んでいただけのこと。ベリシアン王国宰相の大役を(あずか)る私を罪人のように捕らえるなど、貴様は気狂いでも起こしたのか?」

 フレイヤがいないのをいいことに、フォンティーヌ公爵は知らぬ存ぜぬを通すつもりのようだ。
「私はここにいます! その人たちに誘拐されました!」と木の上から叫ぶのはあまりにも間抜けに思えて、フレイヤはどうしたらいいのかわからないまま室内の様子を見守る。

「黙れ」
「……!」

 冷たく言い放ったローガンは、目にも留まらぬ早業で抜剣し、抜身の(やいば)を公爵の首筋にぴたりと当てた。

「この縄と、血のついた布はなんだ」
「わ、私は何も──」

 しらばっくれる(血については本当に知る由がないのだが)公爵だったが、言い終える前に刃が首筋に食い込み、「やめろ!」と叫ぶ。
 一度剣を引いたローガンは、その切っ先を眼球すれすれのところに突きつけた。

「ヒッ……」
「フレイヤをどこにやったか答えろ。フレイヤを傷つけたならば、貴様の両手両足の指を先端から少しずつ刻んでやる。サムエル・フォンティーヌ。貴様もだ」
「や、やめろ……!」
「気絶しても何度でも叩き起こして、歯も1本1本抜いてやる。それから貴様らの目玉を抉り出しても、フレイヤを傷つけた代償にはまだ足りない。……とっとと答えろ。フレイヤはどこだ」

 フレイヤの側からローガンの表情は見えないが、さぞかし恐ろしい目をしているのだろう。
 声だけ聞いているフレイヤでも「これは本気だわ」と背筋を凍らせたのだから、間近で睨まれている2人は命の危険すら感じているはずだ。

 海千山千の公爵はそれでも口を閉ざしたままだったが、サムエルの方は早々に音を上げた。

「ほ、本当に知らないんだ! あの女を縛ってそこに転がしておいただけで、いつの間にかいなくなっていて──」
「……言い遺すことは、それだけか?」

 怒りを通り越したのか、感情が丸ごと削がれたような無機質な声だった。
 フレイヤまで硬直しつつ、頭の片隅でぼんやりと思う。

(“氷の獅子”なんて二つ名がまだ生ぬるく思えてきたわ……。“氷の処刑人”という感じではなくて……?)

 すっかり存在を主張するタイミングを逃し、木の枝の上で立ち尽くすフレイヤ。
 その時、ふと窓の外へ視線を向けたジンと目が合い──彼の口がぽかんと開く。

「あ、あの……ローガン様。その辺りにしとかないと、奥様から逃げられますよ……」
「黙れ、ジン。お前も刻まれたいか」
「ヒィッ! お願いしますから窓の外見てください!!!」

 飛び退ってローガンとの距離をあけつつ、ジンはフレイヤがいる方を指差した。
 射殺しそうな目が、暗闇の中木の枝に立つフレイヤを見つけた途端、大きく見開かれる。

「フレイヤ!!」

 剣を取り落し、ローガンは一目散にバルコニーへと駆けた。

「ローガン様……!」

 考えるより先に、フレイヤも駆け出していた。