どことなく浮かれた気分でいたフレイヤは、その3日後、遠い目をして宙を眺める羽目になっていた。
(私、「結婚後夫に放置されている妻選手権」があれば、優勝しているかもしれないわ)
そう。ローガンが再び帰ってこなくなったのだ。
おまけに、今日こそは話がしたいので王城へ使いを走らせて手紙を届けてもらったのだが、返事はなし。
その代わり、いつかのように、メッセージカードもない花束だけが届けられた。
「今日も帰れない」という伝言とともに。
……これは、完全に避けられている。
(いっそ、明日王城に乗り込んでみようかしら……。でも、夜会の日には必ず帰ってくるはずよね。最悪、話はその時にしましょう)
──結局、ローガンが帰宅したのはそのさらに3日後。
夜会当日の夕方になってからだった。
「……フレイヤ」
既に支度を終え、ごく淡い紫色のドレスを身にまとったフレイヤへ、濃紺の騎士服を着たローガンが手を差し出す。
今日は睨むような眼光の鋭さはなく、視線を合わせずどことなく沈んでいるような様子の彼が気になるが、話は馬車の中でしようと思ったフレイヤは、無言でその手を取った。
「行ってくる」
「行ってきます」
家令と侍女たちに見送られ、2人は馬車に乗り込んだ。
「…………」
「…………」
馬の蹄がカポカポと石畳を踏みしめる軽快な音だけが響く客室内。
目も合わせず、拒絶するようなローガンを前にして話しかける勇気はなかなか湧いてこないが、フレイヤは思い切って声を上げた。
「ローガン様、話がしたいです」
「……俺は、したくない。無理強いしないと誓っておいて、あんな真似をしてすまなかった。殿下の御身を守る騎士である以上利き腕を潰すようなことはできないが、フレイヤの気が済むように──」
「でしたら、ちゃんと話がしたいです」
「それだけは嫌だ。聞きたくない」
「私も話を聞いてもらえないのは嫌です。こうなったら勝手に話します」
「なら、俺は勝手に口を塞ぐ」
揺れる馬車の中でも危なげなくこちら側へ移ってきたローガンは、白手袋を外すと、フレイヤの頬に触れた。
(塞ぐって……もしかしなくても、その……?)
目をまたたいてローガンを見つめているうちに、彼の顔が徐々に近づいてくる。
「嫌なら、黙っていることだ」
(やっぱり、ローガン様と微妙に話が噛み合っていないというか……)
「それでは嫌がらせに──っ、……!」
ならないのですが、という言葉は、宣言通り口を塞がれたことによって、音になることはなかった。
あまりに近すぎてぼやけるローガンの顔を、フレイヤは目を閉じることも忘れて見ていた。
しかし、今日という今日こそは話をしたいので、ローガンの両肩を押して離れようとする。
(全っ然動かないのだけれど……!?)
渾身の力も虚しく、ローガンの身体はぴくりとも動かない。
それどころか抵抗を封じるように抱きしめられ、フレイヤの身体から力が抜けていった。
「何も言わないでくれ……頼むから」
唇を離し、懇願するような声音で言うローガン。
ここまでくると流石に、フレイヤも「自惚れではないのでは?」と確信に近い思いを抱き始める。
「い……ぁ、ですか……っ、らっ!」
(いや、あの、ですから……!)
なんとか意思の疎通を図ろうと、細切れにでも音を発しようと試みるが、ついには手のひらで口を塞がれてしまった。
それでもモゴモゴと話そうとするフレイヤを、ローガンは憂いを帯びた表情で見つめる。
「すまない。本当に……」
謝りながらも、額、瞼、そして目尻へと次々にキスが落とされ、フレイヤの鼓動はうるさいほどに高鳴ってゆく。
「嫌だということはわかっている。なのに俺は、フレイヤを自由にできない。おまけにこの顔も、筋肉も、身長も声も、どうしようもない」
(……???)
唐突に出てきた「顔」「筋肉」「身長」「声」というワードに、フレイヤは内心で首をかしげる。
(やっぱり、何か深刻な誤解が生じているとしか思えないのだけれど……?)
口を塞いでいるローガンの手をなんとか剥がそうと試みるが、痛くはないのにガッチリと押さえられていて、それも叶わない。
静かな攻防を繰り広げているうちに、馬車は目的地であるコネリー侯爵邸へ近づいたのか、減速を始めた。
(会場についてしまえば人目もあるし、話す機会はあるはずよ)
そう読んだフレイヤは、一旦抵抗を諦めることにする。
「旦那様、奥様。到着いたしました」
「ああ」
ここでようやく手が離され、2人はコネリー侯爵邸の正門前へと降り立った。
門の前には、招待状を確認している侯爵家の使用人らしき人物がいて、馬車を降りた招待客たちの姿もちらほらあった。
これならば流石に口は塞がれないだろうと、フレイヤは懲りずに口を開く。
「ローガン様、私……っ、や……!」
(ローガン様のことが好きだって言わせてほしいだけなのに……!)
これまでは触れるだけに留められていたキスが、今回は少し違った。
時折唇を優しく食むようにしつつ、角度を変えながら何度も唇が重ねられる。
どこからか口笛が聞こえて、フレイヤは羞恥心で顔が真っ赤になるのを感じた。
キスが止んだ瞬間、自分の手で口元を押さえてガードし、ローガンを涙目で恨みがましく睨みつける。
「……ひどいです」
「ああ、俺は酷い男だ。だからどうか今夜だけは、何も言わずに俺の妻として振る舞ってくれ。でないと、俺はどこで誰が見ていようが、今みたいに君の唇を塞ぐからな」
周囲には聞こえないように囁かれて、フレイヤは無言で何度も頷いた。
話はしたいが、ローガンが半ば自棄を起こして、公衆の面前でもキスすることを躊躇わない状態であることは嫌というほどわかった。
情報収集に来たはずが、社交界の有力者が多く集まる中で脳みそが砂糖で侵されているような振る舞いを見せつける羽目になるのは避けたい。
話し合いは帰宅まで持ち越しだ。
「ローガン・アデルブライト卿、フレイヤ夫人、ようこそいらっしゃいました」
招待状を回収され、中へと通される。
──波乱の夜会が、幕を開けようとしていた。