ことの始まりは、3ヶ月ほど前──……。
「フレイヤ、ちょっと来なさい」
いつもは柔和な父、レイヴァーン伯爵にやけに神妙な顔で呼ばれ、何か自分はまずいことでもしただろうかと少し構えながら、フレイヤは彼に続いて書斎へと入った。
そこには既に母もいて、これは本格的な説教だろうか、でも最近はおとなしくしていたから怒られるような心当たりは(たまにこっそり街に出かけていること以外は)特にないけれど、などと考えていた時だった。
「フレイヤ。お前にはローガン君と結婚してもらいたい」
「へっ……?」
淑女にあるまじき気の抜けた声が、フレイヤの口から漏れる。
「あの、お父様……今、なんと?」
「ローガン・アデルブライト次期伯爵と結婚してもらいたい、と言った」
若干言い直されたところで、フレイヤは余計に混乱するばかりだった。
というのも──……。
「お父様……何をおっしゃっているのですか? ローガン様は、お姉様の婚約者で……」
そう。ローガンは、フレイヤの姉・ソフィアの婚約者なのだから。
しかし、父はこんな妙な冗談を言うタイプではないし、表情は真剣そのものだ。混乱を極めるフレイヤに、父伯爵はさらに予想外の内容を告げる。
「ソフィアとローガン君の婚約は解消された」
「えっ!? そんな、なぜ……? お姉様とローガン様は承知しておられるのですか!?」
「ああ。2人とも納得の上だ。そして、婚約解消の理由だが……ソフィアが王太子妃となることが内定したからだ」
「ええっ!?」
立て続けにもたらされる信じがたい知らせに、フレイヤはあんぐりと口を開ける。
「し、しかし……王太子殿下には、婚約者様がいらしたはずです」
「ああ。だが、状況が変わったのだ。殿下の婚約者だったフローレンス侯爵令嬢は病に倒れ、王太子妃を務めるのが困難だと判断されてな」
フローレンス侯爵令嬢が近ごろ公の場に顔を出さないという噂は、フレイヤも耳にしたことがあった。
しかし、王太子妃候補を降りるほどの病状だとは思わず、おまけにその余波がレイヴァーン伯爵家にまで及ぶことなどなおさら思いもよらなかった。
「でも……なぜお姉様なのですか? お姉様は既に婚約者ある身なのに……」
「それはそうなのだが……王太子殿下たっての希望なのだ。なんでも、以前ソフィアと話す機会があった際に、目を留めておられたという。ソフィアとローガン君は婚約していただけで、結婚の具体的な時期はまだ決まっていなかった。是非王太子妃にと見込まれたことはこの上ない名誉でもあり……伯爵家としては、断るという選択肢はない」
「…………」
たとえば、王弟が臣籍降下したり、王女が降嫁した公爵家など、王族に準ずる権力を持つような家柄であれば、王家の打診に異を唱えることもできただろう。
しかし、伯爵家ではそうもいかない。
父も姉も、ローガンも、王太子自身の意向を前にして「はい」と言う他なかったのだ。
引き裂かれた姉とローガンのことを思い、フレイヤはきつく拳を握りしめた。
「お姉様は……」
「今朝、王城へと発った」
父が発した短い言葉は、姉が王太子妃になることは揺らがない事実なのだと、フレイヤに知らしめた。
「急な話ですまない。フレイヤがどうしても嫌だと言うなら考え直すが……アデルブライトの倅ならば、お前を安心して任せられる。私としては、ぜひこの話を受けてほしい」
「…………」
父、レイヴァーン伯爵とアデルブライト伯爵は、文官と武官で立場は違えど懇意にしており、それぞれの家に長男・長女が生まれて早々、「いつか娘と息子が結婚したらいいなぁ」などと話していたと、母から聞いたことがある。
姉・ソフィアが王太子妃筆頭候補として旅立った今、レイヴァーン伯爵家に残された娘はフレイヤのみ。両家の結びつきを考えると、繰り上がりでフレイヤがローガンと結婚するのは、ある意味順当な流れだ。
(ローガン様と私が、結婚……?)
信じられない気持ちで、フレイヤは心の中で言葉を反芻する。
湧き上がってくるのは──困惑と、押し殺せないかすかな歓喜。そして、歓喜する自分への嫌悪感。
(お姉様とローガン様の仲睦まじい様子を見て、この恋は諦めようと決めたのに……まだ、こんなに想いが残っていたなんて)