「どちらへ向かわれるのですか、奥様」
「奥様はやめてちょうだい。そうね……レイヤとでも呼んで」
「……レイヤお嬢様」
この王国で「レイ」は男性名のため、男装ではなく簡素なドレス姿の今日は女性名を名乗ることにする。
慣れない様子で仮の名前を復唱した青年に頷き、フレイヤは「カフェに行くわ」と告げた。
目的地は、フレイヤ行きつけのカフェ。18歳の頃からお店を切り盛りしているという店長に話を聞くためだ。
「いらっしゃいま、せ……?」
長年の接客業の賜物か、カフェの店長──グレースさんは、ドレスを着ているフレイヤが“レイ”だと気づいたようだった。
しかし、横にいるのがユーリではなく初対面の人物であること、フレイヤが男装をしていないことから何かを察したのか、余計なことを言わずにいてくれるのがありがたい。
「こんにちは。カウンター席に座ってもいいかしら」
「ええ、もちろん。どうぞ」
昼時を過ぎた中途半端な時間なので、店内はあまり混雑しておらず、接客の合間に話を聞けそうだ。
内緒話もしやすそうなカウンター席に座り、フレイヤはグレースを小さく手招きして、小声で単刀直入に明かす。
「実は私、フレイヤっていうの。フレイヤ・アデルブライト」
「えっ……!?」
「ちょ、奥さ……お嬢様!?」
グレースも護衛の青年もぎょっとするが、これから色々聞く上で、彼女にだけは正体を明かしておくべきだろう。
「私もお店を持つことに興味があるのだけれど、身近に商いをしている人はいなくて……グレースさんは、確か18歳でこのお店を継がれたのだったわよね。もしよければ、だけど、お店の運営で気をつけていることだとか、大変だったこととか……これまでのお話を、差し支えない範囲で色々聞かせてほしいの」
「ああ、なるほど……。そういうことだったのですね」
ほっと息を吐いたグレースは、「ご注文してくださるなら、喜んで色々お答えしますよ」と茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「ありがとう……! それから、明かしておいて申し訳ないけれど、私の素性は秘密にしておいてくれると助かるわ」
「ええ、もちろん。お客様の秘密を守るのが商いの基本ですもの」
今度はフレイヤがほっとする番だった。
──グレース特製のハーブブレンドティーとタルトを頼み、素朴で優しい味わいを楽しみつつ、いろいろな話をした。
「ここだけの話、貴族のご夫人がお名前を出さずに営んでいるお店って、王都には結構多いんですよ」
「そうなの? では、メイマイヤー子爵夫人のように、お名前を出されている方は少数派なのかしら」
「そうですね……特に飲食店では珍しいかと思います。やっぱり、ご夫人が商いをされていると、古い考えの方なんかは“金に困っていてみっともない”なんて思われるようで。その他の理由だと……あえて名前を表に出さず、客として行くことによって、“〇〇夫人も足繁く通う店!”って箔をつけられるからというのもありますね」
「なるほど……その考えはなかったわ」
貴婦人自らが経営陣として名前を出して広告塔になるパターンと、顧客の一人として広告に寄与するパターン。
それらは店のターゲット層によって使い分けるのがいいという。
ドレスや宝飾品の高級志向なお店なら、前者の方がいい。
逆に、飲食店では後者の方がいい。
というのも、高位貴族が関与していることを明らかにすると、王都の一般市民からするとあまりにも敷居が高く感じられるからだそうだ。
確かにフレイヤでも、王妃殿下や公爵夫人の店!と銘打たれていると入ることに躊躇しそうなので、かなり納得した。
そうして、ハーブティーのおかわりを重ねながら居座ること1時間ほど。
メモを取りつつ熱心に話を聞いていたフレイヤは、ふと視線を感じて顔を上げた。
左側には護衛が座っているので右側を見てみると、2つ空けたところの席に座っている青年が、こちらを興味深そうに伺っている。
栗色の髪と、同じ色の瞳。ちょっと童顔気味なので年齢が読みづらいが、フレイヤと同じか少し上くらいだろうか。
服装は、シャツにベスト、スラックスという簡素なものだが、布地も仕立てもなかなか良さそうで、彼のやや細身の身体をよりスタイルよく見せている。
手荒れもなくほっそりとした指は、彼が肉体労働とは無縁であることを示していた。
「お、やっと気づいた」
目が合うと、彼はちょっとしたいたずらが成功した子供のような無邪気な笑みを浮かべる。
「……あなたは?」
「おっと、失礼。僕はパトリックだよ。レディのお名前は?」
「……レイヤと呼んで」
「了解、レイヤ。すごく熱心に勉強してるけど、商いに興味があるの?」
パトリックの気安い調子に、護衛の雰囲気が少しピリつくのを感じる。
が、今は商人の娘風で通している上、街にお忍びで出る時はいつも気楽な調子で話しているので、フレイヤとしては問題ない。
「ええ。王都にお店を開くのもいいかなと思っているの」
「へぇ……。それじゃあ、僕からもいくつか助言しておくよ。特に最初の商いの時は、初期費用も月々の固定費もできるだけ抑えること。よくやりがちな失敗は、最初からあれこれこだわって完璧にしようとして、予算の何倍もかけちゃうことだから要注意だよ。それから、大衆店ならある程度立地も大切だね。できれば、人通りを平日と休日でよーく観察して、顧客にしたい層が十分に通りかかるか確認した方がいいと思う」
「……!」
てっきり、半ば茶化しで声をかけてきたのかと思っていたが、淀みなくすらすらと出てくる助言は素人のものとは思えない。
驚いてパトリックを凝視していると、彼はくすっと笑った。
「実家がまあまあ大きい商家でね。君が一生懸命お店のことを勉強してるから、気になっちゃったんだ。でも、ごめん。この程度はもうわかってたみたいだね」
「い、いえ……」
メモをしなかったので「そんなこともう知っている」という態度に見えたのかもしれない。
パトリックの助言はどれも有意義なものだったので、慌ててメモをしていると、1つ席を詰めた彼が横から「そう、あとは立地の件ね」などとメモを援助してくれる。
「……ありがとう。とても勉強になったわ」
「どういたしまして。僕の方も、いい刺激になったからありがとう」
「どういたしまして……?」
よくわからないまま返すと、彼は「ははっ」と軽やかに笑う。
近頃最も目にする男性と言えば、いつもあまり表情が変わらない初老の家令か険しい顔のローガンなので、普通に明るく会話ができる相手がやたら新鮮に思えた。
「いやぁ、僕、早く商売の手伝いをして跡を継げるようになれって言われててさ。のらりくらりと躱してたんだけど、レイヤを見てると頑張らないとって気になってくるよ」
「……家業を継ぐのが嫌だったの?」
「うーん、継ぐこと自体は嫌じゃないんだけど、正式に後継者として指名されると、身を固めろ〜ってうるさく言われるようになるだろうから、それが憂鬱でね」
「なるほどね」
商家も商家でなかなか大変そうだ──と思い、どんな階級、立場の人であろうと、大変でない人なんていないだろうと思い直す。
「ねぇ、パトリックは、好きな人はいるの?」
「うお、直球だなぁ。今はいないよ。だから、性格と見た目が普通にいい相手なら、別に結婚も嫌じゃないんだけどさ」
「そういうものなのね」
「そ。でも、周りの言いなりになるのはなんだか癪なだけ。好きだのなんだのの気持ちなんて永遠には続かないんだから、人間として好感が持てて、見てて可愛いな、綺麗だなって思える人をせめて自分で見つけたいじゃん?」
「……随分さっぱりした考えね」
「嫌い?」
「ううん、お互いにそういう意見で一致しているなら、合理的でいいんじゃないかしら」
貴族の結婚も、政略があまり絡まない場合はそういうものかもしれない。
夫婦として長年暮らしていける程度にはお互い好感を持てて、身分的にも釣り合いがいい相手だから、結婚する。
熱烈な恋愛感情はなくても、釣り合いが取れた一定の温度でお互いをパートナーとして認め合えるなら、それはそれで悪くはないように思えた。
「……ちなみに、これは参考までに聞きたいんだけど、僕とかどう?」
「えっ?」
護衛がいる左側から、心なしかうっすらと冷気が漂っている気がする。
「いや、あの……私、一応既婚者だから」
「なーんだ、残念。見たことない子だから、隣国あたりの出身でしょ? レイヤがベリシアンに進出予定の商家の子なら、僕と結婚するメリットは大きいし、売り込みやすいと思ったのに」
「売り込みって……」
あっけらかんと言われて、フレイヤは小さく笑ってしまった。
彼にとっては、自身の結婚すらも商売の一環なのかもしれない。
悲観的になることなく、どこか飄々としている様子は、かえってなんだか力強くも見えた。
「いい人が見つかるといいわね」
「ありがとう。レイヤの方も、勉強頑張って。カフェに興味があるなら、2番街にある“白百合の茶館”に行ってみることをおすすめするよ」
と、そこへしばらく料理を作るために離れていたグレースが戻ってきて、店の名前に反応する。
「白百合の茶館は大人気ですよね。執事みたいに洗練された振る舞いの方々が給仕をされるとかで、街の女の子たち憧れのお店になっていますし、商家や貴族のお嬢さん方にとっても不足なしで、上手くお客さんを取り込んでいるなぁって感心しましたよ」
パトリックとグレースが口を揃えて褒めるのだから、俄然行きたくなってくる。
「今度行ってみるわ。……グレースさん、パトリック、今日は本当にありがとう」
「いえいえ。ぜひまたいらしてくださいね」
「もちろん」
「またね、レイヤ」
「ええ」
釣りは取っておくように伝えて多めに支払いをし、フレイヤと護衛の青年はカフェを出る。
近日中にエヴァかベラ、もしくは2人とも連れて白百合の茶館へ行くことにしよう。
まだなんのお店をするかも決めていないけれど、グレースとパトリックから話を聞いたことで経営のイメージは今朝よりずっと鮮明になってきていて、フレイヤは胸が躍るのを感じるのだった。