必ず、なんて答えはしたものの、ローガンはまたしばらく帰ってこなくなるだろう。
そう踏んだフレイヤは自室で寝ようかとも考えたが、あからさまに寝室を分けていては、侍女たち──特にマーサに心配をかけてしまう。
ローガンが帰らないなら、夫婦の寝室で寝るのも自室で寝るのも大した差はない。
そういうわけで、フレイヤは1日ぶりに広々とした寝台に横たわっていた。
──横になってどれくらいの時間が経った時だろうか。
微かに寝台が揺れて、微睡みの中にあったフレイヤは、ぼんやりと意識を浮上させる。
(なに……?)
背中側に少し冷たい空気が触れ、衣擦れの音まで聞こえるので、フレイヤは急速に覚醒しはじめた。
(ローガン様……!? 帰ってきたの……?)
夫婦の寝室で、フレイヤ以外に寝台に入ってくる人物はローガンしかいない。
彼が何をしたいのか、何を考えているのかはっきりとはわからないが、おおよその方向性としては、当面仮面夫婦を続けるつもりのようだ。
以前のように、端と端ならと渋々の同衾なのだろう。
それならこちらも特に気にすることはないと、フレイヤは狸寝入りを決め込むことにした。
──が。
再び微かに寝台が揺れ始めて、ローガンが身動ぎしているのが伝わってくる。
そしてどうも背中側から、彼の気配がするのだ。
(寝返りを打ったら、すぐ後ろにローガン様がいそうな気がするのだけれど……!?)
いまだかつて、こんなに必死に狸寝入りをしたことがあっただろうか。
それほどに全集中力をもって寝たふりを続けていると、ローガンはようやく寝る態勢に入ったのか、動きを止める。
「……おやすみ、フレイヤ」
(……!?)
半ば空気に解けゆくような、微かで優しい囁きが耳に届き、心臓が大きく跳ねる。
(な、なんでそんな……)
捨てきれない希望が顔を出しそうになり、フレイヤは唇を噛んだ。
いっそのこと、ローガンのことを嫌いになれたら、どんなに楽だっただろうか。
何度もそう思うのに、幼心に刷り込まれた恋だからか、なかなか想いは薄れてくれない。
(好きって、苦しい……)
これ以上そばにいて、期待したり傷ついたりするよりは、早く離縁してしまいたい。
そんな思いを胸に、フレイヤは明日から円満離縁計画を本格始動させようと固く決意するのだった。
翌朝、ローガンがいないことにほっとするのに、一抹の寂しさもあって、フレイヤは小さく溜息を吐いた。
気を取り直して、朝食のあとに早速行動を起こすことにする。
(離縁するにしても、アデルブライト家側に1人くらいは味方が欲しいわ。密かに抜け出していることがバレてしまったら、確実に心象が悪くなるし……玉砕覚悟で、マーサに相談してみようかしら)
そんなことを思いながらマーサの方を見ていると、視線に気づいた彼女が優しく微笑む。
「いかがなさいましたか、奥様」
「ええと……」
少し嘘を吐いてしまうのは心苦しいが、背に腹は代えられない。
フレイヤは、一番角が立たなさそうな言い訳を考え、ゆっくりと切り出した。
「率直に言うわ。城下にお忍びで出かけたいのだけど……手伝ってくれるかしら」
「お忍びで、ですか……?」
「ええ。実は……私、商いに興味があるの。ほら、今王都では、メイマイヤー子爵夫人が携わっているカフェが人気を博しているでしょう? アデルブライト伯爵家に金策が必要ないことはわかっているけれど、話題になるお店やブランドを持つことは、社交界でも優位に働くし……じっとしているよりは性に合っていると思うの」
反対される前にできるだけ説得してしまおうと、フレイヤは息継ぎをしてからさらに続ける。
「でも、現状はただの夢で、ほとんど知識もないから……まずは市場調査をしようと思うのよ。だけど、アデルブライト次期伯爵夫人として出かけたら、大事になるでしょう? 私がふらふら出歩いていると噂が立てば、ローガン様にもご迷惑がかかりそうだし……ということで、お忍びにしたいの。ローガン様は、護衛をつければ私1人で遠乗りに出かけても構わないとおっしゃっていたから、その応用で問題ないはずよ。ええ」
途中から、お願いというより押し売り商人のようになってしまったが、言いたいことは一通り言えた。
さて、マーサの反応は……と凝視していると、彼女は拍子抜けしたように笑う。
「奥様が改まって何をおっしゃるのかと思えば……。そういうことでしたらお手伝いいたしますよ」
「本当に!?」
「ええ。奥様は活動的な方だと伺っておりましたし、生き生きと取り組めることがある方が楽しいですものね。旦那様なら細かいことは言わず、奥様のやりたいことを応援してくださると思いますわ」
「そ、そうかしら……」
後半の意見についてはかなり疑問があるが、とにかく、お忍び外出自体はあっさりとOKが出た。
(これなら、最初からマーサに相談しておけばよかったわね……)
若干の後悔はあれど、あの時とはお忍び外出の動機が全く違うので仕方がない。
フレイヤは早々に気持ちを切り替えることにした。
「それで、いつ頃なら出かけられそう?」
「お忍び用の服を仕立てなくてはなりませんから……簡素なドレスで1週間ほどでしょうか」
「ああ、服ならあるわ」
「でしたら、最短で今日にでもお出かけの用意が整えられますが……いかがいたしましょう」
「本当? なら、急で悪いけど早速お願いするわ」
「かしこまりました。家令に護衛の選抜を頼んでまいります」
「ありがとう、マーサ」
こうして実にあっけなくお出かけの準備が整ってゆく。
護衛は全部で4人。
ただし、4人も護衛を引き連れているとどう見ても只者ではないので、フレイヤの側近くには従者としてあまり威圧感のない青年1人のみ付き、残りの3人は少し離れた位置に控えるそうだ。
アデルブライト家に離縁の下準備を手伝わせることになるのは申し訳ないが、ローガンのためでもあるからと思うことで罪悪感を和らげる。
「では、行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ、奥様」
今回はエヴァだけでなく、マーサとベラ、家令にも見送られて、堂々と正面玄関からの外出となった。