急速に、背筋が冷えていく。
 ローガンの視線が過去に例を見ないほど鋭いのは、やはり情欲などのためではなかったのだ。

(ローガン様は、昨日私がどこかへ出かけたことを知っている……)

 質問というにはあまりにも確信を帯びており、これは詰問だとフレイヤは理解する。
 問題は、行動をどこまで知られているのかと、ローガンがどれくらい怒っているかだ。

「……気分転換をしておりました」

 どうとでも取れる曖昧な表現で返すと、ローガンは微かに目を細めた。

「嘘をつかないだけ賢明だが、詳細は言いたくないというわけか?」
「……っ、そういうことでは……」

 お忍び外出……特に、この別邸を出入りした方法は、褒められたものではない。
 とはいえ、フレイヤがしたことと言えば、街の大衆食堂とカフェで2時間ほどお喋りと飲み食いしたくらいだから、そのあたりを隠す必要はないだろう。

(こうなったら、正直に話すしかないわ。今後はもうしませんって謝って──)

 そう決意したフレイヤは、ローガンを真っ直ぐに見つめ返した。

「ローガン様、私は──」
「ふらふら出歩かれては、外聞が悪い」

 説明も弁明も無用だと言うようにフレイヤの言葉は遮られ、それ以上何も言えずに固まる。

 ローガンも唇を噛んでしばらく沈黙していたが、ややあってゆっくりとフレイヤの頬を親指でなぞりつつ、苦々しい表情で口を開いた。

「……君が危険を犯して出歩かずとも、この屋敷には離れがある。そこに囲えばいい」
「えっ……?」

 彼が何を言っているのかすぐには理解できず、フレイヤは困惑の声をあげた。

(離れ……? 囲う……? ローガン様は何が言いたいの?)

「貴族や相当な権力者なら俺にもどうにもできないが、ユーリならば可能だろう。表向きは君の護衛ということにでもすればいい」
「……!」

 離れ、囲う、ユーリ。

 ここでようやく、フレイヤは彼が言わんとしていることを察して、衝撃によろめいた。
 要するに、ユーリと男女の仲にあるのなら、わざわざふらふら出歩かず、離れに愛人として囲ってしまえばいいと言っているのだ。

 衝撃のあとに湧き上がったのは、目が眩むほどに強烈な怒りだった。

「ユーリとはそんな関係ではありません! ローガン様だって、それはご存知ではなかったのですか!? 勝手な行動をしたことについては確かに私に非がありますが、だからといって、こんな侮辱……!」

 フレイヤが激怒したことに、ローガンは一瞬虚を突かれたようだった。

「違う、俺はフレイヤのためを──」
「私のためを思って? ご自分のための間違いではありませんか! 私に愛人をもたせれば、自分が愛人を作ってもおあいこだと思われたのでしょうが、愛人が欲しくばご勝手にどうぞ。私には不要です。私は色街に出かけているのではありませんし、放っておいてください! ……放っておくのはお得意でしょう?」

 一息に言い切って、フレイヤは肩で息をついた。

 ローガンからは険しい表情が抜け落ち、驚きに目をみはっている。
 フレイヤは、腕を掴んでいた彼の手を振り払い、一歩後退りした。頬に添えられていた方の手も離れ、彼の体温に温められていた分、室温が冷たく頬に触れる。

「フレイヤ、君を侮辱するつもりなど毛頭ない。俺はただ……」
「これで侮辱するつもりがなかったとおっしゃるなら、それ以上の侮辱はありません。……長旅でお疲れでしょう。私は別の部屋で休みます」

 精一杯の怒りを込めて睨み、有無を言わせぬ口調で言うと、フレイヤは半ば駆けるようにして寝室を出た。

「フレイヤ様……!?」

 自室に戻ると、隣の控え部屋にいたベラが何事かと出てくるが、精一杯平静を装った声で告げる。

「旦那様はお疲れのようだから、私はこちらで休むわ。あなたも早く寝なさい」
「は、はい……」

 夫婦の寝室とは異なり、やや小ぢんまりとした自室の寝所。
 ベッドに倒れ込むようにして、フレイヤは枕に顔をうずめた。

「何が、“傷つける気はない”よ……」

 怒りと虚しさで涙が零れそうになるが、あんな言葉に傷つけられるのが嫌で、意地でも泣くものかとこらえる。

(愛されていないことは最初からわかっていたわ。だけど、小さい頃には小猿としてでも可愛がってくれていたのだから、多少の情くらいはあると思ってた)

 自分が愛せないからといって、愛人を囲うように勧めてくるなんて……どうでもいい女以下の扱いだ。
 これなら「小さい頃のやんちゃを知っているからどう頑張っても恋愛対象になれない」くらいの方がまだずっとマシだろう。

(もし私が「そうします」と頷いて、本当に愛人を囲って、子供でもできたらどうするつもりだったのかしら。……もしかして、それが狙い? 不義の子を作った醜聞を盾に離縁しようと……?)

 庭園を案内し、花をくれたローガン。
 あの日の夜は、夫婦仲は決して悪くないと見せかけるために寝室を共にしたし、時間はかかってもこの結婚を受け入れていくつもりだと信じていた。

 それなのに今日は、愛人をもっても構わないなどと言ってくる。

 ローガンが何を考えているのか、何をしたいのか、さっぱりわからない。

 結婚が嫌なら、断ればよかった。
 レイヴァーン伯爵家との関係を考えて断れなかったにしても、離縁するのが目的なら、同衾している風を装う必要はない。
 最初から、夫婦仲は最悪だと印象づけて、子供ができないとかなんとかで離縁に漕ぎ着ければいいのだから。

 ローガンの行動は、筋が通らず、心底理解に苦しむものだ。

 ……ソフィアを王太子に奪われたことで、彼はどこかおかしくなってしまったのだろうか。

(こうなったら、いつ離縁されてもいいように──いえ、こちらから何か、双方丸く収まる離縁案を出せるように準備しましょう。ローガン様は私との結婚はやっぱり不本意だったのでしょうし、私といるとソフィアお姉様のことを嫌でも思い出してしまって辛いのかもしれない……そう考えれば、彼の行動もわからないこともないわね。……私では、ローガン様のためになれない。それに、私だってこれ以上無下にされるのは辛いもの。お互い、前向きに進めるような道を考えないと)

 フレイヤは、行動力と前向きさを、「なるべく平和な離縁」へ向けることにした。

(普通なら、夫と早々に離縁した女性は何かしら問題があるんじゃないかって忌避されるものでしょうけど……お姉様が王太子妃になられるおかげで、再婚でもいいと求めてくださる方はいるはずよ。でも、「王太子妃の妹」だからと私に寄ってくるような人を愛せる気もしないし……いっそ、自分1人で身を立てられるようにした方がいいのではないかしら)

 弟のルパートは、父と同じで文官になる予定だから、王都から離れられない。
 実家に戻って領地運営に力を入れ、未来の伯爵となる弟を支えるのもいいだろう。

 しかし、ルパートが結婚したなら、その役目は次期伯爵夫人のものとなる。
 出戻りの義姉がいては、ルパートの妻は居心地が悪いかもしれない。

(私が得意なことと言ったら……乗馬と簡単な護身術くらいのものだけど、それじゃあ生きていけないわよね。王都のどこかのお店で雇ってもらう……のは流石にちょっと無理があるかしら。最初だけ実家の力を借りる必要があるけれど、王都にお店を開くとか?)

 お忍び外出の時によく行くカフェの店主は、30代前半くらいの女性だ。

 彼女は、不慮の事故で亡くなってしまった両親から店を継ぎ、今のフレイヤと同じ18歳から店を切り盛りしていると話していた。彼女に一度、詳しく話を聞いてみるのもいいかもしれない。

(……でも、料理はしたことがないから、なんのお店にするかはしっかり考えないと。王都での需要、自分の適性、競合の有無……調べることはたくさんあるわね)

 ローガンのことから思考を逸らし、あれこれとやるべきことについて考えると、気が楽になってくる。

 フレイヤは、円満離縁と自立を目指し、闘志を燃やし始めるのだった。