その日、フレイヤは久しぶりにぐっすり眠り、朝になって侍女たちが入室しても気づかないくらいの熟睡ぶりを見せていた。

「おはようございます、奥様」
「ん……、マーサ……?」
「ええ。目覚めのお茶をご用意しておりますよ」
「……ありがとう」

 ようやく起き上がると、いつも通り──というよりは、少し元気控えめなマーサが微笑む。

「朝食は召し上がれそうですか?」
「ええ。普段と変わらないもので大丈夫よ」
「かしこまりました」

 昨日は、仮病を使うのは気が引けて、ただ「1人になりたい気分」ということにしておいた。

 味気ない病人食はあまり好きではないので普通の食事をお願いし、用意の間、侍女たちの手によって身支度が整えられる。

 マーサは、フレイヤの髪を手際よくまとめながら、優しく微笑んだ。

「今日明日にはきっと、旦那様がお戻りになられますよ」
「……そうなの?」

 昨日の引きこもり(その実は外出していたのだが)は、夫が帰ってこないことに気落ちしたからだと思われているのかもしれない。励ますように「ええ、きっとです」とマーサは頷いた。

「王太子殿下は地方視察を滞りなく終えられたそうで、今日のお昼には王城へ帰還されるとか。近頃の旦那様の多忙はこの視察のためですから、終えられたならば少しお休みになるはずですわ」
「そう……」

 思えば数日前、家令もそういう話をしていた。

 王太子はかなり活動的な人物のようで、昨年留学を終えて帰国してから、各領の視察などを活発に行っているらしい。
 だから王城を離れる機会も多く、賊に狙われる機会も同様に増えてしまうのだろう。

(……もしかすると、視察で何かまずいことを知られた貴族に狙われているという線もあるかしら)

 最近暇つぶしに読んでいた小説が謎解きの話だったため、フレイヤの頭にはそんな推測が浮かんだ。

 しかし、ローガンが王太子直々の指名を受けて近衛騎士よりもさらに側近くに侍る騎士へ取り立てられるきっかけとなった襲撃は、他国の賊によるものだったはずだ。

(昨日のユーリの話と、小説の内容に引きずられて考えすぎね。それより……)
「久しぶりに、ローガン様に会えるかもしれないのね」

 思い浮かんだ言葉は、ぽろりと唇からも零れ出ていた。
 鏡越しに、マーサから微笑ましげな目を向けられ、気恥ずかしくなる。

(婚約からこの方、ずっと敵でも見るような氷の視線をもらっているけれど……庭園を案内して、お花も手ずから贈ってくださったし、少ーしずつ距離は縮めていけるかもしれない。そう思いたいわ)

『……よく似合う』

 フレイヤの髪に、己の瞳の色とよく似た薄青の花を飾ったローガンの言葉が、脳内で再生される。

 この上なく渋く険しい彼の顔を記憶から一旦消してみると、存外に声は優しかったようにも思えてきた。

(結婚したからには、これから先長い時間があるもの。たとえ心からの愛をもらえなくても……お互いを必要とし、支え合える存在になっていけばいいのよ)

 気分転換も功を奏して前向きさを取り戻したフレイヤは、この日は大人しく読書と庭園の散歩をするに留めたのだった。



 マーサが言った通り、その日の昼前には王太子一行が王都に帰還したとの一報が入った。

 ただ、帰還しても、各所への報告などもあり忙しいことだろう。使いを送る余裕もなかったのか、ローガンからは屋敷に帰るとも帰らないとも連絡がないまま夜になる。

 寝支度を整え、しかしもう少しだけ待ってみようかと思ったフレイヤが、ソファに腰掛け本を開こうとした時だった。

「……! ローガン様……!?」

 ノックもなくいきなり寝室の扉が開き、まだ騎士服に身を包んだままのローガンが入ってくる。

「お、おかえりなさいませ……」
「…………」

 ローガンの視線は過去最低温度を更新しているに違いない。

 平素であれば、「ああ、騎士服姿はやっぱり最高に素敵ね」と思えたかもしれないフレイヤだったが、睨まれただけで凍りつきそうなアイスブルーの冷たい瞳に射抜かれ、本を置いてビシッと背筋を伸ばし立ち上がった。

(ど、どう考えても虫の居所が最悪だわ……! そんなに私がいる屋敷に戻るのが嫌だったっていうの!?)

 せっかく前向きになれたのに、後ろ向きな考えが湧き上がってくる。

 無言のまま後ろ手に扉を閉めたローガンは、眉間に海峡のような深い皺を刻み、大股でこちらへと歩を進めた。

(に、逃げたら負けよ、フレイヤ!)

 なお、何が負けなのかはフレイヤ自身にもよくわかっていない。

(騎士の本気の眼光、怖すぎるわ……!)

 己を鼓舞してその場に留まれたのはものの1秒足らずで、フレイヤはローガンのただならぬ様子におののき後退りした。
 が、よろよろと後退したところで、長身のローガンが大股で進んでくるのだから、あっという間に追いつかれてしまう。

「フレイヤ」

 低い声が名前を呼ぶと同時に、フレイヤの腕を掴んで引き止めた。

 冷たい瞳に胸の奥がじくりと痛んで視線を逸らそうとするが、ローガンの手がフレイヤの頬に添えられ、否応なしに見つめ合うことになる。

(これってまさか、キス、されたり……?)

 唐突に、フレイヤの脳内にそんな考えが浮かんだ。というのも、街の食堂で、酒の入った傭兵たちがこんな話をしていたのを聞いたことがあったからだ。

『やっぱ戦いのあとってのは、娼館に行かねぇと収まんねぇな! ガッハッハ!』

 なんでも、命の危険を感じるような状況下では、死ぬ前に子孫を残そうという生き物としての本能が働くとかで、そういう気分になるらしい。

 ローガンは視察の道中、王太子を守るというひとときも気が抜けない任務についており、もしかしたら戦闘もあったかもしれず、あの傭兵たちと似たような気分になっている可能性もある。

(で、でででも、無理やりにはしないって……。いえ、一応は夫婦だし、私も初日の夜に“愛さなくてもいい、義務としての行為でもいいから”みたいなことを遠回しというか割と直球で言ったわけだし、乱暴にされないならむしろ本望というか……!?)

 頬に直に触れるローガンの手から、熱いほどの体温が伝わり、余計に変な方向へと思考が飛んでいく。
 それを止めたのは、他ならぬローガンの一言だった。

「昨日は、何をしていた」
「……!」