ユーリへの使いを出し、家令への手紙を書き終えてから2時間ほど。

 今日の夕食は果物だけもらう、しばらく1人にしてほしいと告げてエヴァ以外の侍女には下がってもらい、フレイヤは自室にこもっていた。

 夕暮れ時が近づいてきた頃、微かな羽音が聞こえたのに気づき、エヴァがバルコニーの窓を開ける。
 そこから入ってきたのは、1羽のカラス。脚には、手紙を入れるための小さな筒が固定されている。

「ありがとう」

 筒の中から取り出した手紙には、ユーリからの指示が書き連ねられていた。

 どの時間帯、どこからどうやって抜け出すのが最も成功率が高そうかという、実に細かい脱走──ではなく、お忍び外出計画だ。

「この短時間で、よくこれだけ調べたわね……」
「フレイヤお嬢様が大人しくしていらしたので、彼も暇だったのではないでしょうか。いずれこういう日が来ると予想して、用意していたのかもしれませんよ」
「それはありそうね」

 ユーリというのは、レイヴァーン伯爵家で雇っている腕利きの護衛の息子だ。

 年はフレイヤの1つ上で、彼自身も相当な実力者。
 将来レイヴァーン伯爵となる、フレイヤの弟・ルパート専属護衛への任命が内定している。

 そんなユーリだが、幼少期は毎日のようにフレイヤの剣術の稽古に付き合わされ、フレイヤがそこそこ令嬢らしくなったのちもお忍び外出の護衛を任されている苦労人だ。

 とはいえ、彼もなんだかんだで楽しんでいる節があるので、フレイヤとしても気兼ねなく頼ることができる、兄のような存在なのであった。



「それじゃあ、行ってくるわね」
「はい。どうかお気をつけて」
「ええ」

 エヴァに見送られ、侍女のお仕着せに身を包んだフレイヤは、静かに部屋を出た。

(うう……早く行かないと、鈍っている身体にこの体勢は辛いわ……!)

 ふんわりとしたスカートの中で膝を曲げ、侍女にはいない長身をごまかして、もし誰かに見られても怪しまれない範囲内での最高速度で進む。

 仕えるべき相手がローガンとフレイヤの2人しかいない別邸なので、使用人の数はそこまで多くない。
 加えて、エヴァが教えた人気の少ない道筋を辿ったおかげで、フレイヤは誰とも会うことなく庭園へと出た。

 さすがに、スカートのままでは身軽に塀を越えることはできないため、背が高い生け垣の中に隠れて、お仕着せを脱ぐ。スカートからはみ出ないよう、たくし上げて着ておいたスラックスの裾をくるぶしまで下ろせば、簡素なシャツとスラックス姿の完成だ。

 かつらも短髪のものに付け替え、ユーリからの手紙で示された位置に向かうと、すぐに縄梯子が掛けられた。

 実家にいた頃は幾度もこうして抜け出したので、フレイヤはさくさくと塀を越え、別邸の敷地の外に着地する。

「よっ、お嬢様。いや、もう奥様ですね」
「やめてよ、外ではただのレイでしょ」
「へいへい。んじゃ、さっさと行きますよ。見張りの交代が終わっちまう」

 ユーリがここを指定したのは、屋敷の見張りから見えにくい位置だから。そしてこの時間は昼から夜の見張り番へと交代が行われ、ごく短い時間ではあるが、さらに監視が弱まるからだそうだ。

 薄闇に包まれてゆく道をしばらく進むが、追ってくる人はいない。
 どうやら「抜け出す」という第一関門は突破できたようだとわかり、フレイヤはほっと息を吐いた。



 城下の大通りは、夜になっても多くの人で賑わっている。
 旅人に空室の案内をする宿屋、新酒の入荷で盛り上がる酒場、大道芸人。

 王侯貴族が催す大きなパーティーなんかも賑やかなのだが、フレイヤはこの雑然として活気に溢れた街の音が好きだった。

「連れ出したオレが言うのも変な話だけどさ」
「ん?」

 街中では完全に口調を崩したユーリが、ふと、からかうような視線を向けてくる。

「結婚して早々、他の男と2人でこっそり出歩いてていいわけ?」
「……!」

 わかりやすく目を見開くフレイヤを見て、ユーリはぷっと小さく吹き出した。

「今気づいたのかよ」
「だって、ユーリはユーリで……男だってことは忘れてないけど、そんなこと考えもしなかった」
「まぁ、そうだろうな。オレの方も、妹か弟みたいなもんだと思ってるし。じゃなきゃ、旦那様と奥様も流石に黙ってない」

 子供の頃のユーリ、フレイヤ、ルパートは、まるで三兄弟のようだったと言われる。

 フレイヤが伯爵令嬢らしく振る舞えるようになり、ユーリが一応は敬語を使い始めるようになったのちも、きょうだいのような関係や気安さはあまり変わらない。

「さて、今日はどこに行く?」
「これが最後になるかもしれないし……馴染みのお店にちょっとずつ、全部顔を出そうかな」
「そいつは大変だ」

 肩をすくめたユーリだが、「これが最後になるかも」というフレイヤの言葉がその通りであろうことは理解していた。

「食いすぎて腹壊すなよ」
「ぎゃっ!」

 ぐしゃっとフレイヤの頭を撫で、令嬢とは思えない濁った悲鳴にけらけら笑いながらも、彼の瞳の奥には複雑な感情が微かに揺らぐのだった。

 ある程度馴染みがある店全部に顔を出そうかと意気込んだフレイヤだったが、時間は限られている。

 いくら腕が立つユーリがそばにいると言っても、彼は1人。
 街がまだ賑わいの最中(さなか)で、治安的にも問題がない時間帯でしか留まる気はない。

 そのため、特にお気に入りで、仲のいい常連客もいる2つの店へ行くことにした。

 そこで「親に見つかってしまったから、今後はなかなか来られないかも」のような話をしておけば、街の情報網で、交流があった人たちにはそのうち伝わるだろうと踏んだのだ。

「うおっ、レイじゃん! 無事だったのか!」
「うん……まぁ、一応」

 毎日のようにこの大衆食堂で夕食を食べているという馴染みの面々が、3〜4ヶ月ぶりに見るフレイヤの姿を見てわらわらと近づいてくる。

「もしかして、お父さんとかに見つかっちゃった?」
「俺はてっきり、結婚でもしちまったのかと思ってたぜ」
「あー、僕も」

 理由案として考えていたものと、実際の理由の両方が出て、フレイヤは曖昧に笑った。

「そんなところ。だから、次はいつ抜け出せるかわからないんだ」
「そっかぁ」

 “稀によくいる”お忍び客に、こういう例は少なくないのだろう。

 それ以上深く尋ねられることはなく、話題は王都の流行や身近なニュース、時に猥談、そして真面目な話など、脈絡なく様々に移り変わっていくいつもの流れになるのだった。



 2つの店でそれぞれ1時間ほど過ごし、フレイヤは屋敷へ戻ることにする。

 来た時と変わらず活気に溢れている街を見納めるようにしながら、帰路を辿った。

 豪商や貴族の邸宅が立ち並ぶエリアが近づくにつれ少し気が重くなるが、短い時間とはいえ思い切り羽を伸ばせたので、少なくとも半月くらいは頑張れるだろう。

「……お嬢様が夜に出歩けるってことは、ダンナ様の帰り、やっぱり遅いんです?」
「遅いっていうより……しばらく帰ってきてないの」
「うわ、新婚なのにこき使われて可哀想ですね。……まぁ、仕方ないか」

 何か含みのある言い方が気になって、フレイヤは「どういうこと?」と首を傾げた。

「いや……どうも、殿下のまわりがなーんかきな臭いみたいで」
「……ローガン様も、殿下の周辺は安全じゃないって言ってたわ」
「…………」

 ユーリが沈黙し、立ち止まる。

「あの話、いよいよ真実味が増してきた気がするな」
(あの話……?)

 またもや首を傾げるフレイヤを、ユーリの青い瞳が真っ直ぐに見つめた。

「なんの確証もないから、与太話の域を出ない程度の話なんですけど」
「ええ」
「フローレンス嬢はどうも、病気じゃなさそうなんですよね」
「え……?」

 フローレンス嬢──王太子の元婚約者で、アーデン侯爵家の次女だ。

 彼女が突然の病に倒れ、王太子妃を務めるのが困難な病状であることから、新たな王太子妃候補を立てる必要に迫られ、姉のソフィアが殿下に指名を受けた。それを受けてソフィアとローガンの婚約は解消され、代わりにフレイヤがローガンと結婚することになった──いわば、すべての起点のような人物である。

 その彼女が病気ではないとは、一体どういうことなのだろうか。