心臓が止まる。
それは息を止めたからで、視界がぶれ、ゆっくりと吐き出せばどくどくと拍動する。
「寧々、久保井寧々はいますかと訊かれた。相手は親族を名乗っていたが、確証がなかったしそのような生徒はいないと伝えたよ。俺が知ってるのは生憎赤星寧々だしな」
「…ありがとうございます」
日頃、出席こそしていれど授業をまともに聞いているかいないかもわからない生徒だ。そんな私がそれでも素直に感謝したことに驚いたのか、担任は頷いて、肩を2、3叩かれた。横をすり抜けて、去っていく。音が消えて、無音になる。そこで初めて膝が笑っていること、壁に寄りかかっていること、
自分が座り込んでいることに気がついた。
貴子伯母さん。
久保井貴子。史ちゃんのお母さん。
久保井史。
三年前に捨てた。
久保井寧々。
「おっ。いつもより早じゃん」
翌朝。いつも通り作業着を着て、出勤前に煙草屋を訪れた。
いつも通りの風景。初夏。人々が喜び、鬱屈とする。梅雨前の、嫌気がさすような爽やかな日差し。昨日は日暈が見えた。きっと天気は下り坂だ。
「いいとこに来た、昨日あんたが出勤してからさ、ぼんやりここで空見てたら見つけたんだよ、だから撮った。日暈ほどではないけど…くじら? この雲、鯨に見えね、くじらだよ絶対」
今時中年か営業マンくらいしか持っていないガラケーを開いて、その画面をしきりに番台から身を乗り出し、私に向かって見せてくる。こっちは日差しで、番台は日陰だ。日に当たらない。近づかなければ、画面も暗くてよくわからない。とても見る気分にはなれなくて、目も合わさないで適当に頷いたら、「はぁ?」とボヤかれた。
「ちゃんと見ろよ。あんたが日暈だとか言うからおれも心して捕まえたクジラをだな」
「伯母さんが探してる」