それは群青の空だった

 ハッとして言葉を止めた。目の前で唖然としてこちらを見ている彼が引いているのが分かる。
 初対面の相手に、宗教の如く熱弁した私はただの変人に見えるのかもしれない。思わず視線を落とすと、彼は顔を覗き込むようにして見てくる。

「君も観てたの? あの生配信」
「は、はい……」
「マジか……そっか!」

 バシン!といきなり両腕を掴まれた。驚いて顔をあげると、満面の笑みを浮かべた彼が言う。

「やっと見つけた! ずーっと捜していたんだよ!」
「…………え?」
「クラスにアズのことを知っているヤツが誰もいなくてさ、ずっとずっと誰かと話したかったんだ! 君ってめっちゃ詳しいけど、いつからアズを知ってるの? この間のライブ発表の時、鼻歌歌ってたのが新しい楽曲の匂わせだったと思うんだけど君はどう思う?」
「え、えっと……」
「あ、ごめん! 俺、好きなものの話になると止まらなくなっちゃって……引いたよな?」

 呆気をとられた、とはまさにこのことか。
 彼が私にしたことは、紛れもなく私が誰かにアズについて話すときにする行動にそっくりだった。好きなものに対して話したいだけなのに、嫌に引かれ呆れられ、消えるように離れていく。周りの人はこんな面倒な気持ちだったんだろう。きっとそうだ。
 だから彼が一瞬傷ついた顔をしたとき、私も胸の奥が痛んだ。

「――だ、だいじょうぶ。私も同じ、だから」
「同じ?」
「ろ、ろくに人と話せないのに、アズの話だけはできる。今までずっとそうで、いろんな人に呆れられてきた、から、だからその、あなたがこわくなったの、……わかるよ」

 しどろもどろながら言うと、彼はまた一層目を輝かせた。この人、一体何なんだ。

「なんか、君となら仲良くできそう!」
「……え?」
「俺は二年一組二十八番の若槻蒼汰! 君は? 二年生?」
「……え、っと」

 唐突な彼の自己紹介に圧倒されて、自分の名前を――学年はともかく、クラスと出席番号は吹っ飛んだ――一瞬忘れそうになる。まるで太陽みたいに圧倒的で、目が眩むほど眩しい。

「高田、日和……」
「高田か。ねぇ、アズが先週、歌い手のレソラさんに提供した楽曲聴いた?」
「……う、うん! すっごく爽やかで、ピアノがきれいだった! 多分アズが作曲するときに使ってるピアノじゃないかなって思うんだけど」
「やっぱり!? 俺もそうだと思ったんだよね! 提供しただけじゃなくて、演奏にも携わっているんだとしたら、熱いよなぁ……!」

 それから授業終了のチャイムが鳴るまで、彼とアズが発表した最近の楽曲についてずっと語っていた。
 彼が「次の授業は出ないと成績不味いから」と出て行った後に時計を見ると、一時間も話し込んでいたことに気付く。それと同時に、久々に沢山話したこともあって頬の筋肉が若干痛い。もしかしたら明日には筋肉痛になっているかもしれない。

「……変わった人だったな」

 いつも憂鬱だった学校にいる時間が、たとえ一時間でも「楽しかった」と思う自分に内心驚いた。不思議と嫌だと思わなかったのは、きっと彼の明るさからだろうか。

 次の授業のチャイムが図書室にも響いて、机に投げっぱなしにしたプリントを解き始める。いつもより気分がよかったのは、好きな国語の漢字の書き取りだったからかもしれない。
「そういえば、高田っていつもどこにいるの? 一通りの教室覗いても姿がなかったからさ」
「……えっと」

 梅雨の時期になり、気圧の変動で頭痛を引き起こした生徒が出てきた。保健室にも訪れる生徒が多く、邪魔になると思い図書室に移動した私は、三週間ぶりに若槻蒼汰と遭遇した。この一時間で解くはずのプリントを放って話していると、突然彼が聞いてくる。

「ほ、保健室……」
「そうなんだ。じゃあ行けばよかったなー」
「え?」
「だって俺が保健室に顔出せば、高田とアズの話できるだろ? それに一回しか聴いたことがない曲の、しかもドラムパートをどうして聞き分けられるのかも知りたかったし!」
「そ、それは私も聞きたい! 楽譜も一切出てないのに、どうしてわかったの?」

 私が聞き分けられるのは、ずっと同じ曲を何度も聴いたあと、一つの音に集中して聴き込むのを繰り返したものだ。ミスパプに関しては生配信のアーカイブが終了する直前まで、人差し指の指紋が消えるくらい何度も聞き直して覚えた。
 私は楽器の類は何もできない。再現はいつも記憶の中しかない。だから彼が簡単に叩けたのが不思議で仕方がなかった。
 すると彼は困ったように頬をかいて視線を逸らした。

「俺はー……その、一度聞いたものは忘れないんだ。瞬間記憶能力の、音だけバージョン?」
「しゅんかん……?」
「要は、音だけなら一度聞いたらずーっと覚えてるってこと。それに俺は軽音部で、ドラム担当。せめて絶対音感だったよかったのになぁ」

 そう言って彼は言葉を切った。横顔がやけに寂し気に見えたのは、それほどまでに良いものではないと示しているのだと思った。

「……一生、覚えてるってこと?」
「そうだね。小さい頃、家の近くで事故が遭ったんだけど、その時のブレーキ音とか叫び声、全部嫌でも覚えてる」

 音は、目を閉じても耳さえあれば感じられる。人の笑い声や泣き声だけでなく、身の回りにある音すべてが彼にとって苦痛なのかもしれない。
「聴覚なんてなくなってしまえばいいって何度も思った。でもそれを捨てる勇気なんてどこにもなくて。だから気を紛らわすためにイヤフォンをして、いろんな音楽を漁っていたんだ。好きな曲だけを覚えておけば、急に嫌な音を思い出した時でもすぐ切り替えられると思ったから。……そこで俺はアズに辿り着いて、間違っていることに気付いた」
「間違っている?」
「アズの表現力の高さは君も知っているだろ? 音だけで人の気持ちは楽しくなって、悲しくなって、涙を誘う。それを音楽で表現するアーティストのなかでも、アズは人一倍身近にいる気がするんだ。聞き手に寄り添った声がなかったら、俺は今でも自分の手で聴覚を失う手立てを模索していたかもしれないし、ドラムの楽しさを知ることもなかったと思う。……だから俺は、この聴覚をひとつの個性として受け入れていこうって決めたんだ」

 なんか気恥ずかしいな、と彼は視線を逸らす。
 彼と会って話すのはこれで二度目なのに、どんなことでも話せてしまうのは、今ここにいる状況がお互いに似通っているからだと察したのだろう。

「……あなたも、アズに救われた人なんだね」

苦痛をしいられてきた中で正体不明のアズと出会い、自分の主観を変えようと前を向いた結果だ。特に彼は自分では制御することが難しいのに、それさえを自分のものにしている。
 それなのに、私は――。

「高田も、アズに救われてここにいるんだろ?」
「……え?」

 何もできていないと痛感してぎゅっと唇を噛むと、彼がそう言ってニカッと口元を緩めた。

「ねぇ、今日の放課後、俺のために空けてくんない?」

 *

 放課後、職員室に今日分のプリントを提出して図書室に向かうと、入口で彼が待っていた。暑いのか、ワイシャツを腕まくりしており、腕の血管がうっすらと見える。

「よかったー来てくれて」
「……え、と……うん」

 曖昧な返事を返すと、彼はニッコリと笑って返した。詳しい話は聞いていないから、何をするのかわからなくて身構えた自分がいる。
 ついてきて、と言われるがまま彼の後を追うと、今は使われていない自習室に着いた。そこには教卓の前にドラムセットがどんと構えており、威圧感を醸し出していた。

「俺の部活の相棒! ……って言っても、学校の備品で先輩からのおさがりなんだけどさ。高田に聴いて欲しくて!」
「聴くって」

 何を?と問いかける前に、彼はいそいそとドラムの前に座った。そしてバチを持ってすう、と息を吸い込むと、慣れた手つきでドラムを叩き始めた。ドラムは両手の他に、楽器と繋がったペダルを使って両足でも演奏をする。それだけで器用なのが伝わってくる。

 でもそれだけじゃなかった。
 しばらく聴き入っていると、演奏しているのがアズの楽曲の一つであることが分かった。メドレーのように流れるがまま、図書室で叩いていたミスパプも同様に演奏されると、頭の中で生配信の時の記憶が蘇る。ここにギターやベース、ピアノが加わったらどれほど良かっただろう。
 最後まで演奏をし終えると、彼は満足そうな顔をして立ち上がった。

「どうだった? ドラムだけのアズ楽曲メドレーは」
「すごかった……すごいよ! ほとんど楽譜がないものなのに、全部記憶だけで叩けるなんて! ミスパプのドラムが入った時、生配信の音源が聴こえた気がした!」
「まだまだだけど、そんなに褒めてくれるなら頑張ったかいがあったなぁ」

 へへっと頬を赤らめる。教室に差し込んだ夕日が彼を照らして、さらに真っ赤に見えた。

「俺はアズみたいに上手くないし、誰かの心を動かすことは一生かかっても無理かもしれない。それでも高田がそう言ってくれるだけで満足だ」
「え……?」
「高田、怖いモンは怖いんだよ。でも飛びこむ勇気だって必要だ。案外、受け入れてくれる人は多いと俺は思う。何より高田にはアズがいる。アズの歌が背中を押してくれる。教室の近くまで行けるんだから、きっと入れる日だって来るさ」

 彼は一体、誰から私の話を聞いたんだろう。
 知っていて私に話しかけたのだとしたら、悪趣味だなって引いてしまうかもしれないけど、なぜか不思議と嫌な感じはしなかった。

「そ、それに! アズの楽曲が増えるたびに高田と共有したいっていうか……ええっと、なんていうか、その……」
「……うん、そうだね」
「え……?」

 ああ、そっか。たった二回話しただけの相手でも、こんなに素直に受け入れられたのは、きっと私も話せる相手が欲しかったからだ。

「私も、若槻くんみたいに変われるかな」
「俺みたいにじゃなくていいよ。だって高田は高田だろ」

 変わらなきゃ、何もできない。
 数日後、いつもより少し早く起きてリビングに行くと、両親は目を丸くして驚いていた。

「珍しいわね、どうしたの?」
「おはよう。ご飯食べ終わったら行ってみようと思って」
「けどこの時間帯の電車は通勤ラッシュで混んでるぞ?」
「女性優先の車両なら結構空いてるから大丈夫だと思う」

 不登校気味な娘が、いきなり普通に登校すると言い出したことに困惑している様子だった。

 若槻くんに言われた日から、両親や先生と話をしてきた。一人で教科書とプリントを使った勉強なんてこの先いくらでもできるけど、せっかく全日制の高校に合格したのだから、教室で授業を受けたい。
 人の視線は怖いし、大勢の中で息苦しくなるかもしれない。でも今頑張らなくちゃ、きっと私は前に進めない。
 アズの歌に背中を押され、中学時代を頑張ったようにもう一度。

 ――ううん。もう一回(・・・・)、私は前に進みたい。

 それでも心配性なのか、はたまた信用していないのか。いつもよりおどおどした様子の両親に、私は言う。

「私、大丈夫だよ」

 朝食を食べ終えてろくに教科書も入っていないリュックといつも使っている青のヘッドフォンを持って家を出る。朝のスッキリとした空気が肺に入ってくると、不思議と気力が湧いてきた。

 駅に着く少し前からヘッドフォンの音量を少しばかり大きくする。視界に入ってくる人混みから少しでも自分が意識を逸らすのだ。
 予想していた通り、朝の通勤時間帯のみ、先頭車両が女性専用として解放されている。いつもより早いせいか、おかげで他の車両より人混みは少ない。いつ気持ち悪くなっても外に飛び出せるように、なるべく出入口に近い場所に立つ。
 電車が動き出すと、外の風景が移り変わっていく。いつも見ている風景なのに、どこか新鮮に見えるのは時間帯が違うからだろう。電車が最寄り駅に着くと、足早に降りて改札を抜けた。一度でも立ち止まったらその場から動けなくなると思った。

 学校に着いてまず向かったのは保健室だった。ちょうど芦名先生が来たばかりだったようで、机に鞄がどんと乗っていた。

「日和さん? おはよう」
「おはようございます。……その、今日は朝から、教室に行ってみようと思って……」

 芦名先生は手を止めて私をじっと見る。「あなたじゃ無理でしょ」って言われるんじゃないかと不安が過ぎって不意にスカートを掴んだ。
 しかし、先生は安堵したように微笑んだ。

「わかった。あなたならきっと大丈夫よ。でも無理はしないでね。私も担任の先生も、日和さんの味方だから」
「……ありがとうございます」

 芦名先生はいつも寄り添ってくれる。アズのことを聞いてくれたのは先生が初めてだった。

「さて、じゃあどうする? 教室まで一緒に行く?」
「いえ、自分で……あ」
「どうしたの?」
「……自分の席が、わかんない、です」

 教室に入った後、クラスの誰かに聞く方が良いのかもしれないけど、そこまで私ができるかは正直自信がない。そこまで考えていなかった。
 すると芦名先生がパッと顔を明るくしたかと思えば、いそいそと保健室から出て行ってしまった。しばらくして戻ってくると、後ろに一人の女子生徒がひょっこりと顔を覗かせる。
 見たことがある顔だなと思っていると、芦名先生が紹介してくれた。

「鹿原莉子さん。日和さんと同じクラスの学級委員よ」
「……あ!」

 そうだ、春先に昇降口のところで一度だけ会ったあの人だ。

「一回だけ話しかけたことがあります。覚えて――」
「ご、ごめんなさい!」

 鹿原さんが話すのを遮って、私は思い切り頭を下げた。あの時の私の態度と印象はかなり酷かったはずだ。初対面の第一声が「嫌」なんて、人見知りにも程がある!

「高田さん、なんで私が話しかけたかわかる?」
「……へ?」

 少し怒りのこもった声が聴こえる。おそるおそる顔を上げると、鹿原さんがスマホの画面を私に見せてきた。
 画面には人気グループに所属しているアイドルのポスターで、その隣には鹿原さんがアイドルの頬を指さしながら恥ずかしそうに映っている。

「私の推しがいるグループで今度出すアルバムなんだけど、そこに収録されるソロ曲でアズっていう人が楽曲提供してくれているの。知らない? ゼンっていうんだけど」

 ゼンという名前には聞き覚えがあった。確かSNSでアズが告知していたから、曲も視聴したことがある。
 クールなイメージを持つゼンを見て、アズが一番かっこいいと称賛した高揚の少ない淡々としたボーカロイドに寄せて作られた楽曲だった。難易度が高い歌をライブで生歌披露して反響を呼んでいたのは、最近の話。もちろん、私の耳にも入ってきている。

「昇降口でたまたま横を通ったときに聞こえてきたのがその曲だったことに気付いて……それでつい。驚かせちゃってごめんね」
「……あの曲、好きなの?」

 私がそう問うと、鹿原さんは満面の笑みを浮かべた。
 意外な共通点を知ってある程度話せるようになった私は、鹿原さんと一緒に教室に向かった。目的地に近付くにつれ、両手で握っていたヘッドフォンのヘッドバンドの形が変形しつつある。緊張しているのが伝わったのか、隣で話しかけてくれる鹿原さんも、心なしか顔が強張っていた。

 教室と廊下の境目にある扉の前にくると、中にいるクラスメイトがこちらを珍しそうに見てきた。動物園で生活する動物たちの気持ちが、少し分かった気がした。

「――高田!」

 ふと呼び止められて振り向くと、登校したばかりの若槻くんがこちらにやってきた。後ろの髪がぴょんと跳ねていることに気付いていないらしい。

「おはよう、今日はこっち?」
「うん……敷居を跨げるかは別の話だけど……」
「敷居って、もう校舎の中だろ?」

 若槻くんはそう言ってへらっと笑う。ここしばらく話して分かったけど、彼は能天気な一面がある。今はただ、切実にその余裕を分けてほしい。
 それを見て鹿原さんも私に笑いかけた。

「大丈夫! 私も一緒だもの。よく言うでしょ? 一緒に跨げば怖くない!」
「そ、それは横断歩道の話……」
「いいからっ! せぇの!」
「わっ!」

 鹿原さんが私の手を引く。一緒に教室のへ一歩、足を踏み入れた。
 それはあまりにも一瞬で、呆気ないものだった。
 廊下との境界線を越えたのを確認して、自分の足元に目を向ける。二本の足で、教室という空間に立っていることが、私にとってどれだけ意味のあることか。

「高田、気分はどう?」

 後ろでニヤリと笑みを浮かべた若槻くんが言う。ほとんど鹿原さんが手を引いてくれた勢いで入ったけど、彼が軽く私の背中を押したことに気付いていないとでも思ったのか。

「……何でも、できる気がしてきた」

 確証も自信も何もないけどね。
 引きつった笑みを浮かべる私に、若槻くんは満足そうに笑った。
 ――その日をきっかけに、私は毎朝教室に行くようになった。どうしても無理だと思ったときだけ保健室に行くけど、そのたびに芦名先生が「どうだった?」と聞いてくれるし、休み時間を挟んで行けるようになったら教室に向かうようにしていた。

 何より、鹿原さんが教室にいるということが私にとって救いだった。
 担任の先生が席を隣にしてくれたようで、いつも話しかけてくれる。話す内容は大体推しのアイドルのことで、一度クラスメイトに推しについて語ったら引かれたことがあるらしい。似た体験をしているのに、私と大違いだ。逆に私が彼女にアズの話をしても、彼女は一切嫌な顔をせず、むしろ真剣に聞いてくれた。

「アズの曲、ヤバくない!? 最近のも良いけど、教えてもらった楽曲、本当にこれが初めて作ったの!?」
「ヤバいよね? そういえば今度のゼンのソロ曲、またアズが提供するって言ってたね」
「そうなのよ! しかも今度はバラードらしくって!」

 むしろ私より盛り上がっている気がする。
 他のクラスメイトとも多少会話できるようになって、しばらくして一日ずっと教室で授業を受けられるようになった。それでも授業の時以外はヘッドフォンをお守り代わりで首から下げている。
 それももう少ししたらいらなくなるかもしれない。そう思えるほど、教室が怖いと感じなくなった。

 誰かと会話することが楽しいと、純粋に思えるようになると、品出し中に声をかけられる度に怯えていたアルバイトも気が楽になった。
 商品の場所を探している間でも何となくの会話で間を繋げられるのは、顔を覚えてもらえるのにも繋がる。いつかの固形石鹸を探していた女性も、「またお願いね」と言って帰っていくのを見て嬉しくなった。
 冷たい目で見ていた先輩も、ふいに目が合うと苦虫を噛んだ顔をしてどこかに行ってしまう。つい最近、レジが並んでいるのにお喋りに夢中になっていたのを店長に注意されたらしい。

 何より、何かを成し得たあとの帰り道に聴くアズの曲が、いつもより楽しみに思えて仕方がない。
 今まで自分が出来ないことばかりに共感して聴いていた曲が、今の自分で受け取るメッセージが全く異なることに気付いた。
 こんな楽しみ方があるなんて思いもしなくって、自分は間違っていなかったと内心安堵する。
「この調子なら行けるかもな」

 ある日の放課後、若槻くんに「アズの新曲を覚えたんだ。自慢したいから来て」と呼ばれて自習室へ行くと、いつものドラムセットを準備をしながら彼が言った。

「行くって、どこに?」
「ライブだよライブ。七月にやるじゃん」
「……そう、だね」

 七月に迫った、アズがプロデュースする合同ライブ。すでにチケットは発売後、十分足らずで完売したらしい。一般購入も難しいと噂も聞く。やはり有名なアーティストが来るのだから、ライブハウスではなくもっと大きな会場でないと入りきらないのではないか。
 しかし、今回のライブはあくまでライブハウスを守ること。すでに枠は限られている。外れてしまっても、それはそれで仕方がないのだ。

「もしかして若槻くんはライブ行くの?」
「それがさ、先行も優先も全部応募したけど全滅。今、誰か余ってないか聞いてまわってるところ」

 若槻くんの行動力にはいつも驚かされる。それに比べて私は、ようやく教室で一日中授業を受けられるようになったところだ。スタートラインにようやく立っただけ。

「私、まだ行けない」
「へ? そうなの?」
「うん。ちゃんと私が胸を張れるくらい自信がついたら行く。やれることが増えたから、バイトもレジ対応できるようにならなくちゃ」
「……そっか。じゃあ近いうちに、アズに会いに行こうぜ」

 きっと大丈夫だから。と若槻くんは愛用のバチを持ってドラムの前に座った。

 以前より前向きに物事を捉えるようになって、気付けは六月の後半に差し掛かっていた。ようやく梅雨入りしたようで、夜でもしんしんと雨が降り続いている。
 なんとなく寝つきが悪くて、スマホにヘッドフォンのコードを挿したままリビングに降りた。
 冷蔵庫から牛乳を取り出して、適当にマグカップに注いで数十秒、電子レンジで温める。取り出して、息を吹きかけて冷ます。

「あれ、どうしたの? 随分贅沢な恰好ね」

 お風呂から上がったばかりの母がひょっこりと顔を覗かせる。このまま寝室に行くらしい。「早めに寝なさいよ」と言い残して出ていくと、リビングには私一人残った。
 片手にスマホでSNSをチェックしつつ、反対の手には温めすぎたホットミルク。首にかけたヘッドフォンからは、アズが一年前のこの時期に発表した曲が流れている。我ながら至福な恰好だった。

「……さすがに欲張りすぎたか」

 椅子に座ろうとスマホをテーブルに置こうとすると、突然、緊急速報のニュースがSNSに流れてきた。何の気なしにスクロールして、表示された記事に目を疑う。

【動画サイトで話題のアーティスト・アズ、死去】

 すぐ近くで、世界が崩壊する音がした。
 突然入ってきたニュースの速報でアズの名前が目に入った後のことは、よく覚えていない。

 何となく思い出せるのは、持っていたマグカップを床に落として、温めたホットミルクが破片と共に散らばったことだ。素足にかかったようで、赤く腫れあがったのに何も感じられなかった。
 割れた音を聞きつけてやってきた母が、慌てて私を座らせてタオルと保冷剤を持ってくる。私は画面をじっと見つめていた。その間にも母は床を片付け、火傷の具合を尋ねる。
 私はなにもせず、何も答えず、ただ黙ったまま画面を見ていた。
 呆れた母が強引にスマホを奪って表示された記事を見る。眉をひそめ、不思議な顔をしていた。

「日和、これって……」
「いわないで‼」

 信じられない。信じたくない。

 今も首に下げたヘッドフォンから、あなたの歌が聞こえるのに。
 最近上手くいかないこともあったけど、もう一回頑張るって教えてくれたのはあなただった。
 新しい曲も準備してライブをしているときが一番楽しいって言ってくれたのも、来たことがない人はぜひ来てほしいって、顔なんてわからなくても、画面の向こうにいるのは確かにあなただったのに。

「……っ、死にたい」

 顔を埋め、その場に倒れ込む。遠くで母の声が聞こえるけど応じる気力もなく、だんだん意識が薄れていった。このまま永遠の眠りについたなら、あなたに会えるだろうか。

 ああ、死にたい。