競技場をでると、駐車場には水色と白のツートーンの軽自動車が、エンジンをかけたまま停まっていた。
つい一ヶ月ほど前に買い換えたばかりの、母、翔子の車だ。
シートにはまだ、買った時のビニールが後生大事にかけられていて、全身、砂埃だらけで乗り込こうとすると、「汚さないでぇ」と慌てて押し出される。どうせすぐ汚れるっていうのに。
形式的にジャージの埃を払うと、やっと乗って良いと許可が下りた。
っていうか、怪我人を迎えに来たんじゃなかったのか?
片足ケンケンしてるのが見えないのかな。荷物を持つとか、肩を貸すとかしてくれてもいいのに。翔子は運転席から動かなかった。
後ろのドアを開けると、持っていたスポーツバッグと、捌けていない右足の靴を座席に放った。
カケルが助手席に乗り込むと、翔子は、カケルの右足をチラッと見た。氷の袋をくっつけて、テーピングでグルグル巻きにされていた。
翔子は元々、沢山の人が集まる大会の開催にも、ましてはそれに出場することも否定的だった。地区大会とはいえ、沢山の生徒や大会関係者が集まる。
日々の練習も、そんなに外ばかりでては近所の目がどうとか、マスクをしないでランニングするのはどうなのか、とか煩かった。
マスクしたまま走ると、死ぬかもしれないからと騒ぐくせに。
もう、大会など出るなと言われるのではないかと身構えたが、翔子は何も言わずにシートベルトをし、車を発進させた。
病院へと向かう途中、何も喋らないから、なんとなく変な空気が流れていた。怒っているのだろうか。しばらく運転すると、突如、翔子が呟いた。
「お母さんねえ、高校生の時、陸上部だったの」
「……あ? うん。そうなんだ……? ーーーえ、ほんと?」
どう説得しようかと悩んでいたカケルは、一度カラ返事をしてから、目を丸くした。
「初耳なんだけど」
「お母さんの学生時代の部活なんて、あんた全然、興味無いじゃない」
「いや、まあ、そうだけど。でも一緒だったんなら、言ってくれたって……」
「お父さんに話したら、『信じられない、お前の尻のでかさで、どうやって速く走るんだ』って笑われたの。学生の時は、もう少し痩せてたに決まってるのに。そこそこ速かったのに、信じないからあったま来ちゃって」
笑われるのが嫌で、カケルには話さなかったとでも言いたいのだろうか。
「まぁ、それは良いんだけど」
「いいんだ?」
「ともかく陸上部で、毎日、頑張ってたのよ。インターバルとか、エンドレスとか、吐くまで走ったなぁなんて、久しぶりに競技場来たら、色んな事思い出して……」
「え、吐くの? 練習で?」
「お母さんの時代はさ、練習中に水は飲むな! 先輩より先に休むな! 練習は一日たりとも休むな! っていう時代だったのよ。休みは正月の一日だけで、あとは毎日走ってた。夏なんか体育館の裏に行って、何人もゲーゲーしてたわよ」
「うえぇ……」
良く耳にする、親世代の根性論であった。今とは気候や考え方が違ったとはいえ、一昔前に生まれなくて良かった、などと思ってしまう。
「それでさ、休憩中も、水はほぼ飲むなって感じだったから、喉が渇いて渇いて仕方がないんだけど、部活終わりにはちょっと飲むだけで我慢して、みんなで帰りがけにコンビニに駆け込むのが定番でね。
そこでジュースを買うんだけど、お小遣いも少ないから、ペットボトルより数十円だけ安い、紙パックの飲み物を選ぶのね。それを一気飲みするの。それがなによりも美味しかった」
翔子は懐かしそうに話した。
「お母さんも、部活が青春だったなぁって」
一瞬、チラリと視線を寄こした翔子と目が合う。翔子はシフトレバーにぶら下げていたビニール袋を取って差し出した。
「はい、これ」
「なにこれ」
「差し入れ。つい懐かしくなって買っちゃった。ありがとうは?」
「……ありがとう……」
袋には、紙パックのミルクティーとストローが入っていた。
ドリンクホルダーに入らないから、零してしまいそうだ。零したら怒るくせに。慎重に膝に挟み、歯でストローの包装をかみ切った。極力小さめに開けた穴に、ストローを差し込むと、チビチビと飲んだ。
(やっぱり甘い)
「ねぇ、部活帰りにミルクティー飲んでたの? お母さんの時代って、スポドリなかったん?」
「馬鹿にしてる? スポーツドリンクくらいあったわよ。でもやっぱり、部活帰りと言ったらレモンティー一気飲みなのよねぇ」
「これ、ミルクティーだけど」
「ミルクティーは、気持を入れ替えたい時によく飲んだの」
「………ふうん」
颯汰と同じような事を言っている。すっかり冷えた足首を振ってみると、ズキンと痛んだ。カケルは視線を青いパッケージに落として、不安な気持ちをかき消すように、チューと吸った。
そのまま病院に行き、診察を受ける。ちょっと筋を痛めただけで、安静にしていたら1週間くらいで治ると言われた。急激に運動量を増やしすぎたせいだった。
練習出来ない不安はあるが、大会には間に合う。
カケルは、病院の駐車場へ出ると大きく息を吐いた。受験の結果待ちのように、緊張した診察であった。結果がでるまで怖くて堪らなかったが、なんとか大丈夫そうだ。
車に乗り込むと、その様子を見ていた翔子が言った。
「お母さんは、カケルがウイルスに感染するのが怖くて、心配して口煩く言うけど、カケルから部活を奪いたいわけじゃないんだよ」
「……うん」
「監督さんがね、電話くださった時に、今日凄いタイム出したんですよって教えてくれて」
「そう、なんだ」
「お母さんも協力するから、怪我早く治そうね。それで大会頑張ろう」
また最近、全国で感染者が増え、地区大会はちゃんと開催されるかどうかなんて分からない状態であった。
それでも、応援してくれた翔子の言葉が嬉しくて、じわりと胸と目頭が熱くなる。
ジャージのポケットに入れていたスマホが震える。颯汰からのメッセージが届いていた。
『大会、頑張ろうな!』
さっき監督に伝えた検査結果を、もう聞いたのだろうか。
シフトレバーに掛けていたミルクティーを手に取ると、泣きそうなのを誤魔化すために、勢いよく飲んだ。
(頑張ろう)
すでに温まってしまっていて、いつもより強く感じる甘みが、やけに胸をじんとさせた。
了
つい一ヶ月ほど前に買い換えたばかりの、母、翔子の車だ。
シートにはまだ、買った時のビニールが後生大事にかけられていて、全身、砂埃だらけで乗り込こうとすると、「汚さないでぇ」と慌てて押し出される。どうせすぐ汚れるっていうのに。
形式的にジャージの埃を払うと、やっと乗って良いと許可が下りた。
っていうか、怪我人を迎えに来たんじゃなかったのか?
片足ケンケンしてるのが見えないのかな。荷物を持つとか、肩を貸すとかしてくれてもいいのに。翔子は運転席から動かなかった。
後ろのドアを開けると、持っていたスポーツバッグと、捌けていない右足の靴を座席に放った。
カケルが助手席に乗り込むと、翔子は、カケルの右足をチラッと見た。氷の袋をくっつけて、テーピングでグルグル巻きにされていた。
翔子は元々、沢山の人が集まる大会の開催にも、ましてはそれに出場することも否定的だった。地区大会とはいえ、沢山の生徒や大会関係者が集まる。
日々の練習も、そんなに外ばかりでては近所の目がどうとか、マスクをしないでランニングするのはどうなのか、とか煩かった。
マスクしたまま走ると、死ぬかもしれないからと騒ぐくせに。
もう、大会など出るなと言われるのではないかと身構えたが、翔子は何も言わずにシートベルトをし、車を発進させた。
病院へと向かう途中、何も喋らないから、なんとなく変な空気が流れていた。怒っているのだろうか。しばらく運転すると、突如、翔子が呟いた。
「お母さんねえ、高校生の時、陸上部だったの」
「……あ? うん。そうなんだ……? ーーーえ、ほんと?」
どう説得しようかと悩んでいたカケルは、一度カラ返事をしてから、目を丸くした。
「初耳なんだけど」
「お母さんの学生時代の部活なんて、あんた全然、興味無いじゃない」
「いや、まあ、そうだけど。でも一緒だったんなら、言ってくれたって……」
「お父さんに話したら、『信じられない、お前の尻のでかさで、どうやって速く走るんだ』って笑われたの。学生の時は、もう少し痩せてたに決まってるのに。そこそこ速かったのに、信じないからあったま来ちゃって」
笑われるのが嫌で、カケルには話さなかったとでも言いたいのだろうか。
「まぁ、それは良いんだけど」
「いいんだ?」
「ともかく陸上部で、毎日、頑張ってたのよ。インターバルとか、エンドレスとか、吐くまで走ったなぁなんて、久しぶりに競技場来たら、色んな事思い出して……」
「え、吐くの? 練習で?」
「お母さんの時代はさ、練習中に水は飲むな! 先輩より先に休むな! 練習は一日たりとも休むな! っていう時代だったのよ。休みは正月の一日だけで、あとは毎日走ってた。夏なんか体育館の裏に行って、何人もゲーゲーしてたわよ」
「うえぇ……」
良く耳にする、親世代の根性論であった。今とは気候や考え方が違ったとはいえ、一昔前に生まれなくて良かった、などと思ってしまう。
「それでさ、休憩中も、水はほぼ飲むなって感じだったから、喉が渇いて渇いて仕方がないんだけど、部活終わりにはちょっと飲むだけで我慢して、みんなで帰りがけにコンビニに駆け込むのが定番でね。
そこでジュースを買うんだけど、お小遣いも少ないから、ペットボトルより数十円だけ安い、紙パックの飲み物を選ぶのね。それを一気飲みするの。それがなによりも美味しかった」
翔子は懐かしそうに話した。
「お母さんも、部活が青春だったなぁって」
一瞬、チラリと視線を寄こした翔子と目が合う。翔子はシフトレバーにぶら下げていたビニール袋を取って差し出した。
「はい、これ」
「なにこれ」
「差し入れ。つい懐かしくなって買っちゃった。ありがとうは?」
「……ありがとう……」
袋には、紙パックのミルクティーとストローが入っていた。
ドリンクホルダーに入らないから、零してしまいそうだ。零したら怒るくせに。慎重に膝に挟み、歯でストローの包装をかみ切った。極力小さめに開けた穴に、ストローを差し込むと、チビチビと飲んだ。
(やっぱり甘い)
「ねぇ、部活帰りにミルクティー飲んでたの? お母さんの時代って、スポドリなかったん?」
「馬鹿にしてる? スポーツドリンクくらいあったわよ。でもやっぱり、部活帰りと言ったらレモンティー一気飲みなのよねぇ」
「これ、ミルクティーだけど」
「ミルクティーは、気持を入れ替えたい時によく飲んだの」
「………ふうん」
颯汰と同じような事を言っている。すっかり冷えた足首を振ってみると、ズキンと痛んだ。カケルは視線を青いパッケージに落として、不安な気持ちをかき消すように、チューと吸った。
そのまま病院に行き、診察を受ける。ちょっと筋を痛めただけで、安静にしていたら1週間くらいで治ると言われた。急激に運動量を増やしすぎたせいだった。
練習出来ない不安はあるが、大会には間に合う。
カケルは、病院の駐車場へ出ると大きく息を吐いた。受験の結果待ちのように、緊張した診察であった。結果がでるまで怖くて堪らなかったが、なんとか大丈夫そうだ。
車に乗り込むと、その様子を見ていた翔子が言った。
「お母さんは、カケルがウイルスに感染するのが怖くて、心配して口煩く言うけど、カケルから部活を奪いたいわけじゃないんだよ」
「……うん」
「監督さんがね、電話くださった時に、今日凄いタイム出したんですよって教えてくれて」
「そう、なんだ」
「お母さんも協力するから、怪我早く治そうね。それで大会頑張ろう」
また最近、全国で感染者が増え、地区大会はちゃんと開催されるかどうかなんて分からない状態であった。
それでも、応援してくれた翔子の言葉が嬉しくて、じわりと胸と目頭が熱くなる。
ジャージのポケットに入れていたスマホが震える。颯汰からのメッセージが届いていた。
『大会、頑張ろうな!』
さっき監督に伝えた検査結果を、もう聞いたのだろうか。
シフトレバーに掛けていたミルクティーを手に取ると、泣きそうなのを誤魔化すために、勢いよく飲んだ。
(頑張ろう)
すでに温まってしまっていて、いつもより強く感じる甘みが、やけに胸をじんとさせた。
了