夏、だった。

ジリジリと皮膚を焦がす日差しを浴びて、カケルは腰を上げ静止をする。直後、スターターピストルの音が体を突き抜けた。


(そうだ。この感覚)


鳴る寸前の、呼吸をとめるほどの緊張。

スターティングブロックに、スパイクを合わせるときの高揚感。

いつも通りだった。

自分の踏み出す方向を睨み、耳に全神経を傾け、即座に反応出来るように、指先まで集中する。


パァンという乾いた火薬の音を懐かしく感じた瞬間、カケルは、しばらくこの音を聞いていなかった事に気がついた。


そして、それを聞いた時から、腹の中に溜まっていた違和感が、全身から噴き出した。


スパイクにつく砂が邪魔だ。上手く地面を蹴れなかった。
ティーシャツの袖が腕に纏わり付く不快感。
腿が上がらない。体が重かった。

そんなことを感じるなんて、集中出来てない証拠だ。


(違う。こんなんじゃない)


カケルは違和感をなんとか振り切ろうと、麻痺した体を強引に動かす。

100メートル先のゴールラインまで、もがくように駆け抜けた。






「落ちてるなぁ」

監督は、ストップウォッチを確認し、ノートに数字を書き込みながら呟いた。

カケルは、息を整えながらゴール横まで戻ると、今までのタイムが記録されたノートを覗き込む。書かれた数字は、監督がストップウォッチを押し間違えたのではないかと疑うほど、ここ1年で最低のタイムであった。

ちゃんと毎日、自主練していたのに、環境が少しかわったくらいで、こうも影響がでるものなのか。カケルは悔しさに唇を噛んだ。


「ちょっと体重増えたか?」


監督に、体を頭からつま先まで一通り確認をされると、カケルは不躾な視線にイラッとして、顔を逸らした。

たしかに、学校が休みになったり、休日の外出が難しくなり、家に居る時間が増え、体重も増えた。部活動も縮小、確実に運動量は減っている。

自粛太りってやつだ。

さらには、筋肉も落ちたように感じていた。



「少し……増えたかも、です……」

「一人で練習するって、どうしたら良いのかよくわからないよな。自主練のメニューを組み直そう。地区大会は一ヶ月後だし、徐々に感覚を戻そうか」


監督は慰めるように言った。

カケルは悔しさを滲ませたまま「はい」とだけ小さな返事をした。

不調の原因は、練習不足だけではない。

気持の問題もあった。




ーーーーーーカケルが高校に入学した年。
感染力の高い新種のウイルスが世界的に蔓延し、カケルの日常はがらっと変わった。


勉強がきらいで、走ることが大好き。球技のような、技を磨くようなスポーツは苦手だけれど、ただただ走ることだけが好きだった。

友達に、走って疲れるだけの何が楽しいのって何度も聞かれたことがあるけれど、そんなのよくわからない。

風を切るのが気持ちよくて、辛い練習をこなしたときの、今日もやってやったぞという達成感。日々の努力が、数ヶ月後に芽吹いた時の喜び。何度それを説明しようとも、「苦しいことが楽しいとか、ドエムじゃん?」と笑われるだけであった。


学校の授業は眠くてつまらないけれど、部活だけは楽しい。

朝練の為の早起きは、辛くなどなかった。練習で週末が潰れるのなんか当たり前で、友達と映画を見に行くよりもカケルにとっては有意義なことだった。


カケルが得意としているのは短距離だった。中学のころは普通よりちょっと速い程度だったが、陸上で数々の実績のある高校へと入学することが出来、意気込んでいたのだ。


しかし突然、カケルが情熱をかけようとしていた場所は奪われた。

母親は、練習をしているだけで、「今優先すべきなのは感染しないこと。練習より命が大事でしょ」と、部活をやることに消極的だった。


「オリンピック選手だってやってるじゃん」

「あの人達はアスリートでしょ。カケルとは違うじゃない。全国レベルだっていうなら話が変わってくるけど、優先順位が違うでしょ。部活と仕事じゃあ、比べられないわよ」



学校の外周を走っていると、「マスクをしていない」と、近所からクレームの電話がきた。おかげで、満足に練習ができない。

見えないウイルスだけじゃなくて、周囲の声に気を遣いながらの活動となった。

さらには、目指していた大会が中止となり、何を目標に頑張ればいいのかわからなくなってしまっていた。


何がいけないのだろう。

遊びに出掛ける大人よりも、自分たちの方がよっぽど我慢しているのに。


今、この瞬間に行う部活が、カケルには必要だった。

それが生きる意味で、食べるとか寝るとか、そういうのと一緒で、なくてはならないもの。当たり前の日常は、不要不急だとレッテルを貼られた。


(ーーーー誰が決めた)


青春が、不要不急って、誰が決めたんだ。


鬱々と蓄積されるフラストレーションを叫ぶ場所もなく、カケルの日常は真っ黒に塗りつぶされていった。