宇佐見とはそれから時々、屋上前の階段に腰掛けて話した。屋上は立ち入り禁止なので、そんなところにいく人は誰もいないからだ。

「ホルモン治療?っていうのかな。そういう薬もあることにはあるんだけどね。昔調べてみたんだけど、体質的に厳しそうなんだよね。副作用に血栓ができやすくなるって書いてあって。ボク昔フランスから日本に帰ってくるのに飛行機に乗ったら血栓出来ちゃって大変なことになったことがあって……。だから、体を男の子にするのって厳しいんだ」

 間違っても誰かに聞かれたくないようなディープな話題は、それこそ屋上の扉にもたれて話した。僕たちがつい最近まで顔も知らない赤の他人だったなんて信じられない。でも、教室ではあくまでその他大勢のクラスメイトの姿勢を貫く僕たちを目にしている周りの人間から見たら、こうして密会をしていることの方が信じがたいことだろう。

「ボクはさあ、なりたい自分には物理的になれないわけだけど、君にはなりたい自分になってほしいわけよ。だから、栄介が科学者になれるように応援してる」

「おう、サンクス」

 いつしか僕は、女子に対する丁寧な口調を宇佐見に対してするのをやめた。特別仲の良い男友達と同じように扱った。それが礼儀だと思ったからだ。

「それでさ、科学者になったら作ってよ、世界を壊す爆薬」

「あいにく、兵器を作る趣味はないよ」

「分かってないなー。ボクはあくまで世界そのものを壊したいのであって人類を滅ぼしたいわけじゃないんだよ。人を殺したり傷つけたりはNG。ボクらが住んでる入れ物が粉々になるところを見たいだけなんだ」

 史上最強かつ最悪といわれた爆弾、ツァーリ・ボンバですら、マントルの奥底にある地球のコア、すなわち世界そのものを破壊するには至らなかった。夢物語だとは分かっているけれども、こんな世界を壊すほどの爆発があるのなら、その瞬間はとても美しい光景なのだろうと不謹慎ながら思った。

「ノーベル賞ってダイナマイト作った人の賞だよね。だから、そういう爆薬作ってノーベル賞とりなって」

「厳密にはダイナマイト作って後悔してる人の賞だから、そんなもの作ったらノーベル賞はとれないけどな」

「言葉の綾だよ」

 妄想の中で、僕たちは危険なことを考えた。ニュースでやっているような実現可能な局所的なものじゃない。地球を丸ごと粉砕する夢を見た。

「でもさ、実際に世界を壊すにはそれこそダイナマイト一万本どころか一億本でも全然足りないわけで。人類絶滅に必要なエネルギー量と地球を木端微塵にするエネルギー量ってそれこそ桁違いってレベルじゃないし」

「おー、さすが科学者の卵」

「どうも……って今気づいたけど、宇佐見今日部活は?」

「んー、今日は休み」

 世界を壊すなんて大それた話の直後に部活の話はひどくミスマッチだが、こんな会話の組み合わせは日常茶飯事だった。

「話を戻すけどさ、世界をめちゃくちゃに壊すためにはまず、小さなところから壊していきたいよね。自分の殻とかさ」

「それが出来ないから、僕たち今こうしてるんじゃないか」

「えー、頑張ろうよ。たとえばピアス開けてみるとかさ」

「いやいや、それ一番ハードル高い。それが出来るなら何だって出来るだろ」

「じゃあ、せめて髪のばしてみるとか」

宇佐見が僕の短い髪を触る。

「肩くらいまでの長さにしたら、絶対かっこいいって。色素が元々薄めなのかな?だからあんまり重くならなさそう」

「うーん、それくらいなら」

「栄介が夏の終わりまで伸ばしてくれたらその長さまで切ろうかなあ」

「善処します」

 世界を壊す話に比べて、こういう現実的な話は逆に重い。

「僕が殻を破ったら、宇佐見も破れる?」

「ええー、ボクはこれでもすごく勇気出してるよ。自分のことボクっていうの、最初は結構緊張したんだよ」

 宇佐見が僕の前でだけ発する「ボク」はぎこちない。きっと僕の前以外で使わないから言い慣れていないのだ。しかし、一度意識するとみんなの前で使っている「アタシ」もぎこちなさを感じた。意に反する一人称だからだろう。僕は、幼少期に「俺」に一人称を変えるタイミングを親に奪われた。激しく叱られたその後、僕という一人称を使うときですらしばらくぎこちなくなってしまったのをよく覚えている。

「やっぱりさあ、ボクはボクのこと好きになりたいんだよ。本当は」

「うん、僕も」

「だからさあ、栄介にお願いがあるんだけど」

「爆薬作ってってやつ?」

「それは未来の栄介へのお願い。これから言うのは今の栄介へのお願い」

「僕に出来ることなら」

「ボクのこと、下の名前で呼んでくれない?」

「自分の名前嫌いって言ってなかった?」

 正直なことを言うと、僕は女子を下の名前で呼んだことがなかったのでお願いにはかなり動揺していた。

「まあ、宇佐見もかなり可愛い寄りの名字だし……っていうのは別に良くて、栄介に呼んでもらえたら自分の名前、ちょっとは好きになれそうな気がするんだよね。いいじゃん、ボクも栄介って呼んでるんだし。ほら、せーのっ!」

「ヒメカ……」

 合図に合わせてなんとか声を絞り出して呼んだオーケストラ部のマドンナのファーストネーム。生徒会長選挙演説の数倍は緊張した。