「じいちゃん小遣い頂戴」
「ああいいよ」
「やった。じいちゃん大好き」

 ひ孫がそういって1万円札を持っていく。
 ひ孫だったかな。そうだよな。俺の子どもは全部で3人いて、孫が6人いて、ひ孫が4人いる。
 それでそのひ孫のどれかのはずだ。
 名前を覚えてないなんてよく怒られるが、年に1ぺん正月にお年玉せびりにくるだけじゃぁ覚えられるわけがねぇだろうがよ。母ちゃんが生きてた頃はそうでもなかったが、俺だけになったら誰も来やしねぇ。まぁ、来てもどうしていいかわかんねぇから困るんだが。

「お父さん、駄目ですよそんなに勝手にあげちゃ」
「駄目だったかな。俺の金なんだがな」
「ちゃんと残しておかないと」

 残した結果、どうなるというんだ。
 今は娘の佳子(よしこ)だ。多分な。なんだかたまによくわからなくなるんだよ。けれども『残しておかないと』の意味は随分変化した。二十年ほど前は『老後の資金が』だったのが今は『遺産が』が透けて見える。

「お父さん、ロウソクを吹き消してくださいな」
「わかったよ。それじゃ失礼して、いや、面倒だな。お前ら誰か代わりにやってくれ」
「やった! 僕がやる!」

 ひ孫のうちの1番小さいのが得意げに吹き消した。
 俺は目はいいからな、俺が吹き消すとなると何人かが嫌な顔をしたのが見えちまった。
 ああ、嫌だねぇ。今日は俺の誕生日だ。88歳だってさ。米寿だからお祝いだって10人ちょっとがここに集まっている。けれどもニコニコしているよりほかがないのさ。息子の嫁なんかも好き好んで来てるわけでもないんだろうしさ。おんなじだよ。お互い様だ。俺ばっかが好き勝手にやるわけにはいかねえ。
 はぁ。なんだか全てが面倒だ。なんだか全てが世知辛い。
 近所の人間に米寿を祝ってもらえるっていうと羨ましいねぇなんて言われちまうわけだから断るにも断りようがない。なにせ外堀が埋められている。佳子が予めそう話すんだよ。今度米寿のお祝いをするんだってな、近所によ。

 それにしたって窮屈だ。
 歳を取るごとに体は重く動かなくなり、節々はきしむようになり、ちょっとした動作だけでも億劫になる。それになんだか頭がぼんやりして、昔のことはだいたい霞の中だ。なんだか世界が少うしずつ小さくなって、薄暗くなって、そのうちパタンと閉じて死んじまう、そんな気すらしちまう。そいつが死ぬってことなんだろうな。
 ああ、嫌だ。けれどもそれでも世間というものは繋がっていて、にこにことするしかしようがないのさ。それが面倒くさくてたまらないが、人間というものに生まれてきちまったのだから仕方がない。そういうちょっとちょっとの人間関係がもう、たまらなく面倒くさい。
 母ちゃんが死ぬ前は母ちゃんが全部やってくれてたんだよなぁ。
 そんなことを思ってぼんやりしているとヒソヒソとした呟きが聞こえてくる。

「父さんまたぼーっとしているよ」
「やっぱりボケたんじゃないの?」
「やっぱりこの家に1人で置いておくわけにはいかないんじゃないの?」
「そうはいってもうちで面倒を見るのはゴメンですよ、あなた」
「じゃあ施設に入れるっていうのかよ」
「施設に入ったらお金がかかるじゃないの」
「家を売ればなんとかなるよ」
「こんな古屋、売ったって二束三文だ」

 この家は私の家だ。久しぶりに怒りが湧く。
 母ちゃんとの思い出の家を売るつもりはない。けれどもそんなことを言ったってせんのない話だ。俺が死んじまったらどうしようもない。
 どいつもこいつも全くたまったものじゃない。88歳も生きて結局はこれかよ。こんならとっととボケたほうがいいかもしんねぇぜ。母ちゃんはなんで先に行っちまったのかな。女のほうが長生きするって聞いたのによ。

「じいちゃん、散歩行こうぜ」
「ん? あ、あぁ」

 その声は渡りに船だった。
 だからその差し出された手を掴んでトボトボとついていくことにした。こんなところにいたくはなかった。どうせ俺がいなければ家探しでもして通帳なんかを探すんだろう。この間もそうだった。だから通帳は持ち歩くことにしてる。

「なんか大変だな」
「……まあ88にもなるとな」
「でもうーん、ちょっと言いづらいんだけどさ、もう寿命なんだよ」
「は? お前までそんな事を言うのか?」

 そう思って目を上げると、そこには確かに先程の集まりにいたけれども、よく考えると誰だっけな、と思う子どもが俺を見つめていた。そしてその子どもの目は変な色に輝いていた。色というか、この世のものではないような、一種異様なそんな深い闇が両の眼にぽかりと開いていた。
 そしてそれに慄いた。

「お、お前は何だ」
「死神だよ」
「死神……」

 その死神はクフフと笑う。
 そしてその笑いは妙に説得力を持っていた。
 確かに目の前にいる子どもは人ではない。そう感じられた。
 そうか、俺は死んじまうのか。息子たちは大喜びなんだろうな、なんだか癪だな。はぁやるせねぇ。
 そう思うとその死神はまたおかしそうにクスクス笑う。

「やっぱりあんたの奥さんの言ったとおりだ」
「なんだと?」
「あんたの奥さん、あんたんとこに俺が来たらなんだかぐちぐち言いそうな顔で諦めるっていってたから」
「そりゃぁ死神が来たんじゃどうしようもないだろ」
「そうだなぁ。まあ普通はね。でも俺にはあんたの奥さんのツケがあるからさ」
「ツケ?」

 それで死神が言ったのはこういうことだ。
 その死神は前にちょっとポカをやっちまったんだ。けれども母ちゃんの機転で何とかしたらしい。死神相手に何やってんだかと思うがそこが母ちゃんらしい。
 それで死神の業務の中には色々と抜け道が在るらしいのだ。地獄の沙汰も金次第というが、実際に寿命は買えるらしい。買うのは金ではなく徳というもので買うのらしいが。
 あの世というものは随分現金なもので、今世で積み上げた徳によって天国行きのチケットを買ったり、逆に業といって借金が多ければ地獄で強制労働をして借金を返さなきゃならんらしい。それでどっちにもいかない程度の徳しかもっていなければ、その徳は来世分の貯金に回されてしばらくたったらまた生まれ変わるらしい。

 それで俺の寿命は今日らしい。余命1日ってところだ。
 それで単位がよくわからないものの、徳100につき寿命が1日伸びるらしい。俺の徳は1000くらいだから伸びて10日。

「あんま意味ねぇな」
「うん、あんまり意味がないから普通はわざわざこの裏道を教えたりはしないんだけどね」
「じゃぁなんで俺に教えるんだ」
「それは奥さんから徳を預かってるからさ。丁度36万5000徳。つまり10年分をあんた宛に」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。それがありゃぁ母ちゃんはいい天国にいけたんじゃねぇのかい」
「ああ、奥さんはもう随分貯金持っててさ、いつでも天国にいける分はあるんだけど、生まれ変わってまたあんたと会いたいから残りは全部また貯金に回したんだよ」
「母ちゃん……」

 俺はそんなに母ちゃんに好かれてたんかな。ずっと長年連れ添っちゃいたがそんな素振りはちっとも……いや寧ろ俺が随分わがままばっかり言っていて全部家のことはまかせっきりだったのによ。

「あんた奥さんに愛されてるんだねぇ」
「いや、その徳は受け取れねぇ! 母ちゃんにかえしてくれ!」
「それはもう無理だよ。奥さんはあんたがそう言ったら受取拒否するって言われてるから」
「そんな? もし俺も拒否したらどうするんだ?」
「そしたらこの徳は所有者なしで地獄がちょっと儲かるだけさ。なぁ、あんたもらっちまえよ。自分の余命増やすのに使ったっていいし来世に溜めとくのもいいし。どうせ生まれ変わったら忘れちゃうんだから気兼ねなくさ」

 そうか……生まれ変わったら忘れちまうのか。
 母ちゃんも俺のことを忘れちゃうんだな。俺も母ちゃんを。
 それでも母ちゃんは俺に10年分も寿命をくれたのか。うん?

「なんで母ちゃんは自分の寿命伸ばすのに使わなかったんだ?」
「ああ、奥さんはやりたいことは全部やったって言ってたよ。格好いいね」
「そういや死ぬ間際に大往生だって自分で言ってたな」
「あんたのことだけが気がかりだったんだって。そんでどうする? 寿命、伸ばすか?」
「……伸ばす」
「わかった。じゃあ10年後にまた来るよ」

 そういわれて気がつくと縁側にいた。キョロキョロと見回してもいつもの庭だ。
 うん? なんだ? 今のは夢だったんだろうか。
 そう思ったけれど、不思議と体が軽いことに気がついた。
 いつもほど関節が痛くなく体を伸ばすのも億劫ではなく、足に力を込めるとスラリと立つ事ができた。だからあれは、きっと夢じゃないんだ。
 頭も幾分はっきりした気がする。

 10年か。
 なんで母ちゃんが俺にこの時間をくれたのかはなんとなくわかる。
 母ちゃんはなんかいつも元気だった。母ちゃんが生きてた頃はそれが癪だったが死んじまったらそれが電気みたいに家を照らしていたことに気がついたんだ。それで、死んじまって切れちまって、替えが無いことに気がついて。それで俺の家はずっと暗いままなんだよ。
 俺は母ちゃんがいないとぐちぐちしてばっかりだからな。どうせつまんなく生きてるんだろ。母ちゃんならそう言いそうだ。だから最後に自分で好きなようにやってみろ。そういうメッセージなんだよな、多分。
 背中からは息子やら娘やらががやがやと俺をほっぽって俺の財産をどうわけるかの話を進めている。多分俺は今にも死にそうに見えてた、のかもしれないな。

 騒がしい1日を終えた翌日。
 母ちゃんがどうやって徳を増やしたのかわからなくて母ちゃんの日記やら何やらを漁ったら、母ちゃんが色々なところに寄付をしていることを知った。どっから金を持ってきたんだと調べると、投資らしきものをして原資を賄っていたらしい。投資自体は死ぬしばらく前に全部畳んだようだ。
 お礼の手紙がたくさん来て嬉しいと日記に書いてある。母ちゃんはどうやら30歳女子を装っていたらしく、30歳ぽい言葉遣いなんかを検索してフリーアドレスで投資先や寄付先とやり取りをしていたようだ。何をやっているんだ母ちゃん……。でも母ちゃんらしいや。
 それで日記の最後に走り書きがあった。

克彦(かつひこ)さん、馬鹿みたいだけれど、私今日死神さんに会ったの。
ー今日が寿命みたい。びっくり。
ーそれでね、本当かどうかわからないけれど、徳というのを克彦さんに残すわ。
ーでも克彦さんも困るでしょうから、10年先まで大丈夫そうな投資先を書いておきます。
ーここだったら間違いないと思うの。
ー克彦さんのことだからどうせこれを読んでる時は窮屈な生活をしているんでしょう?
ーだからまぁ、最後は楽しく過ごしてね。
ーもしこの日記をみつけたのなら。
ー魔法少女ハッピーターソ

 ……最後が酷ぇ。
 そんなわけで俺は昔から知り合いの不動産屋に相談して家を売って小さなマンションを買った。それで家を売った差額を原資に母ちゃんが残した投資先と相談して投資をすることにした。
 母ちゃんは神通力でもあったのか母ちゃんが指定した投資先はことごとくあたり、手元には家を売った金額じゃ比較にならない金が転がり込んできた。
 家を売ったことですらあんだけガーガーいう子どもたちには投資をしてるなんていうと凄ぇ反対するに決まってる。そうすっとなんだか息子らに残すのも面倒に思う。アイツラも普通に働いて暮らしてるわけだしな。

 だから母ちゃんみたいに寄付をすることにした。母ちゃんは演劇だか美術だかの団体によく寄付していたが、俺が好きなのは時代劇とかだから町並み保存とかに寄付することにした。そうすると同好会みたいなのに入れてもらって友達ができた。
 10年経った頃には母ちゃんみたいにやりたいことをやりきったって言えるのかな。それともまた多少の貯金を使って寿命を伸ばすことになるんだろうか。母ちゃんほどにはたまらないだろうけれど。
 そんなのは、その時になったら考えよう。