命姫~影の帝の最愛妻~

 ちょうど今の雪為と初音のよう。

 宿命に引き込まれるように想いを通わせたものだった。

 甘い甘い幸福、永くは続かない。

 だからこそ強く、美しく、燃えあがる。

 あのふたりからも、〝終焉〟の匂いが立ち昇りはじめていた。

 私はペロリと舌なめずりをする。黄金色のふたつの目玉が、暗がりのなかでギラリと光った。

 ふたりが出会った日に感じた〝楽しげな予感〟が現実になる日が近づいている。その事実に私はワクワクしていた。

 愛らしい猫に扮していても、私の正体は異形。おぞましく穢れた存在だ。

 苦痛、絶望、憎悪、人間の吐き出すそういった感情は、私にとっての〝またたび〟なのだ。

 
 それから、また数か月。

 抱かれて泣くばかりだった成匡も、柱にしがみついて立ちあがることができるようになった。

 彼はあいかわらず私がお気に入りで、尻尾を振ってやるとケタケタと愉快そうに首を揺らす。

 雪為と初音は肩を寄せ合って、息子の成長に目を細める。

「そろそろ歩き出せそうだな。成匡は成長が早い」
「本当に。雪為さまに似て賢いみたいです」

 世の常とは言え……恋する女は盲目だ。

 雪為のどこが賢いと言うのか。こんなにも、鈍く、愚かな男だとなかなかいないだろうに。

 彼の肩のそっと寄りかかる初音の顔は青白く、彼女とこの世をつなぐ糸が細く頼りのないものになっているのが見てとれる。

 浅い呼吸にヒューという喘鳴が交じる。

「産後の肥立ちにしては……ずいぶんと回復に時間がかかるな」

 心配でたまらぬといった表情で、雪為は初音の細い背を撫でる。

「出産とは命を分け与える行為だと。女はみな、そうして命をつないできたのだと、イナさんが」

 イナは東見に長く仕えてきた老女だ。彼女自身、四人の子の母でもあるので経験から出た言葉だろう。

 初音は雪為を安心させるように、明るい笑顔を作った。

「そして、みなその後も元気に子どもを育てていると。なので、私も大丈夫ですよ」

 けれど、頼もしい言葉とは裏腹に彼女の笑顔は以前と比べるとずっと弱々しい。雪為は彼女に気づかれぬよう、顔を背けて眉尻をさげた。
 その瞬間、ドスンという音がして「う、うやぁ~。あぎゃ~」と成匡がけたましい泣き声をあげた。

 屋敷中に響き渡るような大声だ。

「だ、大丈夫か?」

 雪為が慌てて彼のもとへ駆けていく。

 つかまり立ちができたことに得意になって手を離したら、バランスを崩して縁側から庭に転げ落ちてしまったらしい。

 庭には草木がしげっているので大事はないだろうが、驚いたのか痛かったのか、成匡は顔を真っ赤にして叫び続けている。

「こっちへおいで、成匡。冷やしてあげるから」

 初音は雪為から息子を受け取ると、優しい笑みを向けた。

「着物が汚れてしまったので、着替えもさせてきますね」

 軽く頭をさげると、成匡を抱いて長い廊下の奥に消えていった。

 丸くなって寝ている私のもとに、雪為がやってきてかがみ込む。

 彼が何を言わないので、私も素知らぬふりを続けていた。

 ややあってから、「なぁ、ネコ」と彼が言った。

「命姫とは、なんなのだろうな」

 私に話しかけているというよりは、ひとり言に近い雰囲気だ。その声は心許なさそうに、かすかに震えていた。

 この男は、本当に気づいていないのだろうか。それとも、あの男と同類か――。

 ――命姫とは〝生贄〟のことだ。
 この身が異形と成り果ててから、どれだけの月日が経っただろう。

 かつての私には『(ともえ)』という名があった。

 美しく、聡明で、心根も優しく……最良の花嫁だと、誰もが顔をほころばせた。

 あの男もそうだった。

『そなたを愛している』
『私はなんと幸運なのだろう。永遠に大切にする……私の命姫』

 彼は夜毎、私への愛を語った。

 愛されることの喜びを知り、私はとても幸せだった。

 自分以上に幸福な娘はいない、そう信じていた。

 だが、不幸なことに私は初音よりずっと賢かったのだ。

 彼の花嫁となって二年もすると、命姫のからくりに薄々気がついてしまった。

 でも……それでもいいと思った。

 彼は知らない。このままどうか気づかずに――。そう、願った。

 自分の身代わりに私が死んでいく残酷な事実を、愛する男には知らせたくなかった。

 今になって思えば、なんと滑稽なことか。おめでたいにもほどがある。

 嫁いで三年。

 腹心とボソボソと内緒話をする夫の声を、私は偶然にも聞いてしまったのだ。

『いいか。僧医によく言い含めておけよ。巴は治癒の難しい病にかかっている、みなの前でそう言えとな』
『かしこまりました。物の怪に憑かれていると言いましょう』

『あぁ、それがいい。巴本人には絶対に知られるなよ。逃げられでもしたら、面倒だ』

 冷たい手で心臓を握られたような心地がした。

 私の愛する男は、これほど残酷な声を発することができたのか。

『わかっております。命姫がいれば、より多くの客を視られる。それだけ先見家に利がありますからな』

――知って、いたのね……。

 そして、私とは真逆の理由から、この事実を私には悟られまいとしている。

 あの瞬間の衝動は、悲しみとも怒りとも少し違う。

『あぁ、私たちの真実はこんなものだったのか』

 命を懸けた恋だと信じていたものは、薄っぺらい偽物だった。

 そのことに私は深く絶望した。

 もう目の前の男への愛など、かけらも残ってはいない。男も、彼を愛した記憶も、綺麗さっぱり忘れてしまいたいのに……屋敷を逃げ出そうとした私を、彼はとらえて地下牢に閉じ込めた。

 生贄として過ごした人生最後の数年は、もう思い出したくもない。

 薄暗い地下牢で、美しかった私の肉体はゆっくりと朽ちていった。

 怨念めいた感情などはなかったと思うのに、身体が大地に返っても、私の魂はこの場所にとどまり続けた。

 いつしか異形となり、望んでもいない永遠を手に入れた。
 うっすらとしか陽光のささない埃っぽい蔵のなか。

 壁一面が書庫になっており、そこから雪為は何冊もの書物を取り出しては、読みあさっている。

「命姫を得た当主は栄華を極める。その記録は多く残るが、命姫本人のことには不自然なほど触れられていない」

 なにも不自然ではない。

 命姫は短命なのだ。嫁いできて、ひとりかふたり子を成したあとは、すぐに死んでしまう。

 語られるべき人生がないのだから、記録が残らないのも当然のこと。

 それに、語り部にとって都合の悪い歴史は抹消される。洋の東西を問わず、人間とはそういう生き物だ。

 理不尽なのは、命姫を失ったあとも、残された男のほうは長生きをすることだろう。

 もう異形を包んでもらうことはできなくなったはずなのに、異形たちは男から命を奪えなくなるのだ。

 それもまた、命姫の不思議な力のひとつなのか。

「初音の前の命姫はエド中期か。裕福な商家の娘、残した子は男がひとり。その前はセンゴク。その前は……」

 ブツブツとつぶやきながら、雪為は思考を巡らせている。

 初音は今日は寝台から起きあがれぬほどに体調が優れないようだ。

 ようやく、彼はひとつの事実に行きついた。
「命姫の産んだ子は妖力が強いと聞くが、その数は極端に少ないのだな」

 子は宝だ、貴重な労働力でもある。

 ひとりの女が七人も八人も産むというのも、珍しい時代ではない。

 だが、ひとりの命姫の産む子は多くてもふたりほど。

 雪為は顎のあたりにこぶしを当てて、考え込む。

「孕みづらい体質か、産後の肥立ちが悪いのか、そもそも……短命か」

 短命。

 その単語を発した瞬間にピンとくるものがあったようだ。

 雪為の表情が凍りつく。

 もっとも、私からすれば「なにを今さら」という言葉しか出てこない。

 異形を包む行為はとてつもない生命力を消耗する。

 意識せずに異形を包んでしまう命姫は、たとえ東見の男と出会わなくても、あまり長生きはできない。

 だが、この屋敷に集まってくる異形は数も力も桁違いだ。消耗スピードは異次元に速く、もともと長くない寿命はあっという間に尽きてしまう。

 当主が彼らに捧げていた命を、代わりに差し出す存在。それが命姫の正体だ。

 最愛の花嫁だなんて綺麗な言葉で装飾しても、実態はただの生贄でしかない。
 雪為もようやく気がついたようだ。

「初音が弱っているのは……俺のせいか」

 否定する材料を探したいはずの彼をあざ笑うように、私は「ニャオン」と鳴いた。

 そうよ、そのとおり。初音を殺すのは、異形たちではなくお前よ。

 東見の男は本当に罪深い。

 さぁ、雪為。あなたはどういう決断をくだすのかしら?

 祖先がそうしてきたように、『愛している』とささやいた女を、自分のために平然と見殺しにする?

 ねぇ、楽しませてね。失望とともに永遠を過ごすしかない私を、退屈させないで。

「お前とは離縁する。成匡を連れて、すぐに出ていけ」

 迷いのない口調で、雪為は静かに告げる。

「どうして……」

 対する初音の声は弱々しい。困惑と恐れで、瞳は惑うように揺れている。

「私は東見の当主だ。その私が決めたこと。理由を説明する必要などない」

 膝の上で握り締めた初音のこぶしにぐっと力がこもる。

「でも、私は命姫なのでしょう? 私がいないと雪為さまは……」

 初音の必死の言葉をさえぎって、雪為は言い捨てる。

「だから、それが理由だ。弱ってきた命姫など不要」

 雪為は斜め上に視線を動かす。

 嘘をつくとき、人間が無意識にする仕草だ。
「過去の文献を調べた。命姫を見つけることのできる当主は何人でも探すことができるのだそうだ。俺は次の命姫を探す」

 その文献は、たった今、彼の頭のなかに現れたのだろう。

 初音は下唇をかみ、きっと鋭く彼を見据える。

「私の手を握り、ずっと一緒だと……あの言葉は嘘だったのですか」

 ふっと軽薄な笑みを浮かべて、雪為は初音を一瞥する。

「嘘ではない。この身体を流れる東見の血は、強い命姫に心惹かれるようにできているのだ。お前が弱ったら、それが消えた。本能を責められても……どうしようもないな」

 嘘の下手な男だ。

 ペラペラとしゃべればしゃべるほど、嘘は露呈しやすくなるものなのに。

 彼はそんなこともわからずに、嘘を重ね続けた。

 ――生きろ。お前に生きていてほしい。理由を説明する必要などないだろう。愛しているから。ほかになにがある?

 雪為の心の叫びが、私には、はっきりと聞こえてくる。

 なんて、つまらない男だろう。

 私をこんなにも失望させたのは、あの男と雪為だけだ。

 母子が暮らしに困らぬだけの金を握らせて、雪為はふたりを追い出した。当然、東見の連中は大反対だったが、彼はいっさいの聞く耳を持たなかった。