「ところで……」
雪為は初音の全身をまじまじと見る。
「お前はどうしていつも同じ着物なんだ? 使用人に頼んで、衣服はたくさん用意したはずだ。和服も洋装も」
初音は自身の朱赤の着物に視線を落としつつ、ためらいがちに答える。
「雪為さまからいただいた異国の着物は素敵ですが……どうにも着慣れなくて」
「ではお前はなにが欲しい? あまりに慎ましすぎるのも、東見の奥方としては問題があるぞ」
もっともらしいことを言っているけれど、ようするに雪為は初音になにかしてやりたいのだ。
朴念仁だった男の変化を、私は日々楽しく観察している。本人に自覚がないのが、またおもしろいところだ。
初音は難問に頭を悩ませているようだ。
「欲しいものと言われましても」
「では、今から探しに行こう」
雪為は初音の手を引いて、屋敷の外へ繰り出していく。
エドからトウキョウと名を変えたこの町は、この数十年で大きな変貌を遂げていた。
西洋風の建物が目立つようになり、以前は表に出ることのなかった上流階級の婦人たちがドレスを着て闊歩している。
「うわぁ、豪華絢爛ですねぇ」
「にぎやかな場所は嫌いだったが、お前がいれば静かだからな」
雪為はふっと笑む。人間はうるさいが、寄ってくる異形がいないだけで彼にとってはずいぶんと快適なのだろう。
「ほら、欲しいものを探せ」
女性がよろこぶ物言いを知らぬ彼は、そんなふうに言って、また初音の表情を曇らせる。
「それが本当に……わからないのです」
「食べ物でもなんでもいいぞ。なにが好きだ?」
初音は恥じるように身を小さくして、ぽつりとこぼす。
「好きも嫌いもわかりません。私が幸せになる方法は死ぬことだと……そう言われて育ちました。冬になって風邪をこじらせたときなど、これで幸福が訪れるのかと期待するのですが……困ったことにこの身体はずいぶんと丈夫でして」
雪為の眉間に深いシワが刻まれ、黒い瞳の奥に静かな怒りが揺らめき立つ。
初音といるときにはあまり表に出てこないが、雪為の本質は情け容赦のない冷たい男だ。
ぞっとするほど冷酷な声で彼は言う。
「跡形もなく消し去ってやろうか」
「え?」
「お前が望むなら、紫道家などグチャグチャに踏みつぶしてやってもいい」
初音はきょとんとしている。目をパチクリさせている彼女に、雪為は決断を迫った。
「どうする? 望むか、望まないか」
初音は迷うそぶりすら見せずに、すっぱりと返事をする。
「望まないです、まったく」
皮肉めいた笑みを浮かべ、雪為は吐き捨てた。
「いい子ちゃんだな」
「だって、あの家が不幸になって、私になんの利があるのです? それで幸福になれるわけでもあるまいし」
彼女は本気で不思議がっている。
私は……このときばかりは彼女に同情した。
初音は、好きも嫌いも憎いも……人間が自然に持つべき感情を知らずに育ったのだろう。
ただただ死を待つだけの、空虚な人生。
雪為も同じことに思い至ったようだ。苦しげに顔をゆがめ、唇をきつくかみ締める。
「俺もな、どちらかと言えばお前と同類の人間で……偉そうなことは言えぬが、見て心がときめくもの。それを好きと言うんだ」
教えをこう生徒のように、初音は神妙な顔でうなずいた。
「見て、心がときめく……」
「あぁ。探してみろ」
初音の瞳がゆっくりと動く。
帝都トウキョウが、そして雪為が、彼女の瞳に映し出される。
そうして、初音はふわりと花がほころぶような笑みをこぼした。
「見つけました、ひとつ!」
かすかに目を見開く雪為に、初音は歌うような声音で告げる。
「この景色。雪為さまの隣で見る景色が、私が初めて好きになったものです!」
それからまた一年が過ぎ、春。
東見の屋敷に新しい風が吹く。
そう。春は死の季節であると同時に、誕生の季節でもある。
「ふぎゃ、ふぎゃ~」
ふたりがいつも並んで座る縁側に、赤子の泣き声が響き渡る。
飾り棚の上で惰眠をむさぼっていた私も、そこではっと目を覚ます。
スヤスヤ眠っていたはずなのに、唐突に叫び出した我が子に、雪為も初音もオロオロするばかりだ。
命姫を得た雪為は、本来持っていた強靭な生命力を取り戻していた。顔の色艶もよく、男前に磨きがかかっている。
「成匡はなぜ泣くんだ? なにか不快か」
「お乳はさっき飲んだばかりだし、どうしたんでしょう」
すっかり弱りきっているふたりに、私は助け船を出してやることにした。
立派な名をもらった赤子の前にストンとおり立ち、コロコロ転がったり尻尾を振ってみせたりする。
興味を引かれた成匡はぴたりと泣き止み、私の姿を凝視している。
「おぉ、ネコのおかげだ。助かった」
「成匡は猫ちゃんが好きなんですね! 覚えておこう」
すっかりご機嫌になった成匡を腕に抱き、初音は柔らかな母の笑みを見せる。
「子どもって、かわいいものなんですねぇ。初めて知りました」
「あぁ、俺も知らなかった」
「この屋敷に来てからは、初めてのことだらけです」
「そうか」
初音に向ける雪為の眼差しは甘く、優しい。
「押し花という形で花の美しさをとどめておけることを知りましたし、亜米利加から渡ってきたお菓子はおいしい! カステラもキャラメルもチョコレイトも絶品です」
もう数えきれぬほどの〝好きなもの〟を見つけたと、初音はニコニコと雪為に報告する。
「カステラは南蛮菓子だから、先の時代からあったぞ。ドレスは好きじゃないのか? 着物も似合うが、快活な洋装は初音に合うと思うんだがな」
ドレスをプレゼントしたい。
そう素直に言えないところが雪為らしいところだ。
初音は身を包む朱赤の着物をじっと見て、照れたように笑う。
「この着物は雪為さまからの初めての贈り物だから……無意識にこればかり選んでしまうんです」
雪為は苦笑する。
「同じものばかり着ていると、擦り切れるぞ。わかった、ドレスでなく初音の好みそうな赤い着物をまた買ってやる」
穏やかで優しい空気が、ふたりを包み込む。
幸福を絵に描いたら、きっとこんな感じに仕上がることだろう。
コホコホと、初音が乾いた咳をするのに、雪為は眉をひそめる。
「産後の不調がまだ取れぬようだな。滋養のあるものをきちんと食べているか?」
「はい、食事はいつもおいしいですよ」
初音はにこりとするが、肌からも髪からもすっかり潤いが抜けていた。
「無理せず、養生しろ」
「ありがとうございます」
言って、初音はいたずらっぽく目を輝かせた。
「初めて会ったときは、人間離れして見えて……正直怖かったんですが、雪為さまはとても優しい方でした。命姫とやらのことは、今もよくわかっていませんが、雪為さまの妻となれた私は幸運です」
「そうか」
満更でもなさそうな顔で雪為はうなずく。
見つめ合うふたりの顔がどちらからともなく、ゆっくりと近づく。そっと唇が重なり合い、ふたりは同時に目を閉じた。
ぬくもりが離れると、初音がクスクスと童女のように笑い出した。
「なんだ?」
「口づけなんて……初めてしましたね。褥のなかでも、したことないのに」
「はて、そうだったか」
本当に自覚していないのか、白を切りとおそうとしているのか。
だが、初音は情け容赦なく追い打ちをかける。
「そうですよ。初めての夜、雪為さまは『子を成すのに必要のないこと』とおっしゃいました」
雪為はなんとも言えない複雑な表情で、自身の顎を撫でている。
「たしかに、子を成す目的のためには必要のない行為だ」
初音はかすかに肩を震わせ、意を決したように彼を見る。
「では、今の口づけは……なにかに必要だったのでしょうか」
雪為はむっつりと押し黙る。それから、もったいぶるほどでもない答えを返す。
「さぁ……わからぬ」
期待した言葉ではなかったようだが、ふいと顔を背けた彼の耳が赤く染まっているのをみとめて、初音はうれしそうにコロコロと笑った。
その初音の笑顔をチラチラと盗み見ながら、雪為は言う。
「……同じだ」
「ん?」
聞き取れなかったのか、初音は彼の顔をのぞくように首を傾ける。ふいうちで近づいた彼女の気配に、雪為はますます顔を紅潮させる。
それでも、はっきりとした口調で言った。
「俺も、妻となったのがお前で……幸運だったと思っている」
私は全身の毛がぞわりと逆立つのを感じた。
あまりにも甘酸っぱくて、とても見ていられない。
「フギャ―」と抗議の声をあげて、縁の下に逃げ込んだ。
理屈は知らないが、視る男と命姫は強く惹かれ合うらしい。
初音の前に東見に来た命姫も、当主であった男と熱烈な恋に落ちた。
その前の娘もだ。
ちょうど今の雪為と初音のよう。
宿命に引き込まれるように想いを通わせたものだった。
甘い甘い幸福、永くは続かない。
だからこそ強く、美しく、燃えあがる。
あのふたりからも、〝終焉〟の匂いが立ち昇りはじめていた。
私はペロリと舌なめずりをする。黄金色のふたつの目玉が、暗がりのなかでギラリと光った。
ふたりが出会った日に感じた〝楽しげな予感〟が現実になる日が近づいている。その事実に私はワクワクしていた。
愛らしい猫に扮していても、私の正体は異形。おぞましく穢れた存在だ。
苦痛、絶望、憎悪、人間の吐き出すそういった感情は、私にとっての〝またたび〟なのだ。
それから、また数か月。
抱かれて泣くばかりだった成匡も、柱にしがみついて立ちあがることができるようになった。
彼はあいかわらず私がお気に入りで、尻尾を振ってやるとケタケタと愉快そうに首を揺らす。
雪為と初音は肩を寄せ合って、息子の成長に目を細める。
「そろそろ歩き出せそうだな。成匡は成長が早い」
「本当に。雪為さまに似て賢いみたいです」
世の常とは言え……恋する女は盲目だ。
雪為のどこが賢いと言うのか。こんなにも、鈍く、愚かな男だとなかなかいないだろうに。
彼の肩のそっと寄りかかる初音の顔は青白く、彼女とこの世をつなぐ糸が細く頼りのないものになっているのが見てとれる。
浅い呼吸にヒューという喘鳴が交じる。
「産後の肥立ちにしては……ずいぶんと回復に時間がかかるな」
心配でたまらぬといった表情で、雪為は初音の細い背を撫でる。
「出産とは命を分け与える行為だと。女はみな、そうして命をつないできたのだと、イナさんが」
イナは東見に長く仕えてきた老女だ。彼女自身、四人の子の母でもあるので経験から出た言葉だろう。
初音は雪為を安心させるように、明るい笑顔を作った。
「そして、みなその後も元気に子どもを育てていると。なので、私も大丈夫ですよ」
けれど、頼もしい言葉とは裏腹に彼女の笑顔は以前と比べるとずっと弱々しい。雪為は彼女に気づかれぬよう、顔を背けて眉尻をさげた。