チョコレートを食べ終えると、窓の外からキャンキャンと鳴き声が聞こえた。聞き間違えるはずのないシロの声だった。
私は玄関を飛び出した。信じられないことに、犬の姿のシロが吠えていた。一目で幽霊かCGだと分かるほどに体が透けている。思わず駆け寄ると私の体をすり抜けるように道路へと飛び出した。当然、私も追いかける。
シロがついてこいと言っているのはすぐに分かった。私たちは以心伝心なのだから。シロを追いかけて全速力で走った。元気だった頃のシロの足の速さに追い付くのは至難の業だ。2つ目の角を曲がるくらいのタイミングで、シロを見失ってしまった。
犬のシロは消えてしまったが、人間のシロが血を吐いて倒れていた。訳が分からなかったが、必死に呼びかけた。意識はない。どうしたらいいのか分からなかったが、とりあえず救急車を呼んだ。それしかできなかった。
救急車に同乗した際、彼の体にいくつもの手術痕があることに気づいた。シロは保険証を所持していてそこには「鈴原史郎」と書かれていた。彼はずっと重病で入院していて、今日病院を抜け出したことを聞いた。パズルのピースがはまっていって、遠い記憶が蘇る。私はこの人を知っている。
病室で彼が目を醒ますのを待った。息は吹き返して、やがて意識を取り戻すだろうと言われて安心したのも束の間、彼の余命がわずかであることを聞かされた。
すっかり夜になり、目を開けた彼は私の姿に気づく。全てを悟った彼は弱々しい声で言った。
「ごめんね。僕、エリちゃんのこと騙してた。シロ君にも、本当にごめんなさい」
彼は一筋の涙を流した。
「許してなんて言わないけど、泣かないでほしいって気持ちだけは本当。僕のこと恨んでもいいから、昔の明るいエリちゃんに戻ってほしい、なんて僕に言われたくないよね。ごめんね」
「怒ってないよ!シロも私も、怒ってないよ。史郎君を助けてくれたのはシロなんだよ!」
シロが幽霊になってでも彼の命の危機を教えてくれた。怒っているわけがない。
「全部、私のためだったんでしょ?」
「そう言えたらカッコよかったけど、残念ながら下心があった。初めて会った時からずっと好きだった。ごめんね、気持ち悪いよね」
「気持ち悪くなんてないよ!私、史郎君のこと大好きだもん!」
「それは僕がシロ君に成りすましたから……」
「それでも、今日私と一緒にいたのは史郎君でしょ?だから、今日私が恋をしたのは史郎君だよ!」
彼が驚いて目を見開いた。そして、顔を赤らめて呟く。
「シロちゃんでいいよ、エリちゃんにそう呼ばれるの、大好きだったから」
罪滅ぼしにと本名を呼んでいたが、不自然さは見抜かれていたようだ。彼が息も絶え絶えに起き上ったその時、空の上から、誰かの声が聞こえた気がした。
(エリちゃん、幸せになってね)
しゃがれたその声はとても懐かしく優しかった。私たちは2人で天を仰いだ後、顔を見合わせる。きっと彼にも同じ声が聞こえたのだろう。そうだ、あの子が応援してくれている。だからちゃんと伝えないといけない。
「シロちゃん、好きだよ。ごっこじゃなくて、ちゃんと恋人になろうよ」
「はい、喜んで。僕は長くは生きられない。それでも、僕、鈴原史郎は小早川エリちゃんをこの命がある限り愛し抜くことを誓います」
私たちは見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねた。まるで結婚式の誓いのキスのような口づけは、やっぱり少しだけチョコレートの味がした。
この恋がハッピーエンドになる可能性は限りなく低いのかもしれない。それでも、私たちの不器用で苦い恋に残された時間が少しでも甘いものになることを神様に祈った。
fin