学校に行けた日数は数えるほどしかなかったから同年代の友達はほとんどいない。しかし、比較対象のサンプルがいくら少なくても僕の初恋の人は破天荒という言葉がよく似合った。

 交通事故で入院してきたその人、小早川エリは第一声で僕の心を丸ごと奪った。

「私エリ!友達になろうよ!」
「僕は史郎。よろしくね」
「シロ?うちのワンちゃんとおんなじ名前だ!じゃあ親友だね!」

 僕に向けてくれた眩しい笑顔。あの日からずっとエリちゃんは僕の女神様だった。

 外の世界を知らない僕に彼女は世界の色を教えてくれた。白い病室しか知らない僕の心は君のおかげでカラフルになっていく。

「誕生日までシロとおんなじなんだ!やっぱりシロちゃんは最高ね!」

 僕の世界の全てともいえる女神様。彼女に肯定されたことで、生まれてきてよかったと初めて思えた。

 ある時、女の子なのに顔に傷が残るなんて可哀想だと入院中のおばさんたちが噂していた。当の本人はあっけらかんとしていた。

「残る方がかっこいいじゃん!私とシロの友情の証みたいで!シロちゃんもそう思うでしょ?」

 僕は自分の体の手術の痕をコンプレックスに思っていた。堂々としている彼女を心底カッコイイと思った。

「うん、カッコイイ。僕の傷と違って」
「シロちゃんも傷があるの?じゃあ、おそろいだね。仲間に入れてあげる!」

 その日から、きつい治療も何もかも辛くなくなった。エリちゃんがいるから頑張れる。中学生になるまで生きられないと言われていた僕が17歳の今生きているのはエリちゃんがくれた奇跡だ。

 ある日、エリちゃんがお母さんにもらったチョコを僕に分けてくれた。

「ねえ、シロちゃんにもチョコあげる!」
「ごめんね、食べられないんだ。せっかくエリちゃんがくれたのにごめんね。僕、おかしいよね」

 大好きなエリちゃんがくれたものだから食べたかった。病気でお菓子が食べられない自分の体を呪った。でも彼女は一切気を悪くすることなく、目をキラキラさせた。

「チョコ食べられないことまでシロとおんなじなのね!シロちゃん、絶対シロと仲良くなれそう!」
「シロくんもチョコ食べられないの?」
「そうなの!ワンちゃんってチョコ食べると死んじゃうの。だから、チョコがお菓子の中で1番好きだけど、シロが間違って食べないようにおうちでは食べないようにしてるの」

 滅多に食べられない1番大好きなお菓子を僕に分けてくれたその事実が嬉しかった。チョコレートの香りを嗅ぐたびに僕は彼女を思い出すことになる。

 エリちゃんは退院する時に、折り紙の犬をプレゼントしてくれた。

「いつか、シロとシロちゃんと3人で遊ぼうね。だから早く元気になってね、約束だよ!」

 その後エリちゃんと僕が会うことも、僕の病気が治ることもなかった。

 僕の病状は進行し、ついに手の施しようがなくなった。いつ死ぬか分からない。この年まで生きていられたのが奇跡だと医者に言われた。エリちゃんとの思い出が僕を支えてくれていたのだと思う。元気になってエリちゃんともう1度遊ぶ日を夢見て今日まで生きてきた。

 どうせ死ぬのなら、最期に自由が欲しかった。エリちゃんのようになりたかった。外に出て、あの日食べられなかったチョコレートが食べたい。叶わないと分かっているけど、エリちゃんにもう1度会いたい。

 死期が迫るのを感じる毎日の中、看護師さん同士の会話に「小早川エリ」の名前が出てきたのを耳にした。ペットロス症候群を患って、精神科に通院しているらしい。噂話の的になったのは彼女が名門女子校の制服を着ていたから、そして顔と足に目立つ傷があったからのようだ。

 ペットのシロを失った彼女の力になりたかった。僕に生きる希望をくれた彼女に恩返しがしたかった。何よりもう1度会いたかった。

 彼女に会えるかもしれないと知った日から、僕の病状は気休め程度の回復の兆しを見せた。そして今日、起きた時の調子がここ数年で1番良かった。病室の窓からちょうど制服姿のエリちゃんを見つけたのはもう運命だとしか思えない。たとえ死んでも構わないから病室を抜け出してエリちゃんに会いに行くことを決めた。

 彼女の前で「シロ」を名乗ったのは迂闊だったけれど、僕の本名を覚えていたとも思えないので仕方がない。エリちゃんは僕のことなんて忘れていた。当たり前だ。僕にとってはエリちゃんがすべてだったけれど、エリちゃんは学校に行けば友達がいて家に帰れば犬のシロがいるのだから。

 悲しかったけれども、抱きついてくるエリちゃんの柔らかさと温もりの前に邪な気持ちが芽生えた。「最後に会ったのが何年も前の知り合い」として恋心を告げるより「犬のシロの幽霊」に成りすました方が幸せな時間を過ごせると僕の中の悪魔がささやいた。

 罪悪感がなかったわけじゃない。でも、最初で最期のチャンスだった。実際に、何千回も妄想したエリちゃんとのデートを実現している時、人生で1番幸せだった。何度「生きててよかった」なんて不謹慎な言葉を飲みこんだか分からない。エリちゃんが笑ってくれたことだけが救いだった。1つだけ神様に言い訳をするならばエリちゃんに笑顔でいてほしいという気持ちも確かに真実だった。

 街を歩き回り医者に止められたお菓子を食べれば当然体調は悪くなる。エリちゃんに気づかれる前にデートを切り上げ、彼女を無事家に送り届けた。人生最大の嘘はどうにか突き通せた。

 エリちゃんの家の庭には小さなお墓があり花が供えてあった。僕は会ったことの無い彼に手を合わせる。

「ごめんなさい。君の名前を勝手に騙りました」

 死者を冒涜した僕は地獄に堕ちるだろう。それでも後悔しない。最低な僕はもう1度深く頭を下げてエリちゃんの家を後にした。

(許すよ、だってエリちゃんが笑ってくれたから)

 後ろから誰かの声がして振り返ったが、誰もいなかった。その声は祖父の声に少し似ていた気がした。僕の都合のいい自己正当化なのかもしれない。

 2つ目の角を曲がったところで眩暈がした。全身の力が抜けてその場で倒れた。神様がくれた束の間の幸せの時間が終わったようだ。薄れゆく意識の中、生涯最初で最後のチョコレートの味を思い出す。

 あの苦さも甘さも全部、僕の初恋そのものだった。