シロは私の家でその生涯を閉じた。他の犬と交流をしていないので恋を知らない。

「恋人ごっこでもいいから」

シロの手が私の両手を包み込む。

「えっと、ドッグカフェとかいけばいいのかな?」

戸惑う私にシロが苦笑する。

「違う違う。犬じゃなくて、1日だけエリちゃんの恋人になりたい。普通の元気な人間の恋人同士がする普通のデートがしたいだけ」

 昔から友達は多い方だが、小学校では男女を意識したことがなかったし、中学から女子校に通っている私は恋愛経験がない。普通のデートが分からなかった。でも、シロの最期の望みとあらば全力を尽くすのみだ。

「分かった。頑張ってみる」

 恋人らしく、ということでシロと手を繋いで歩き出す。どこに行こうか一生懸命思いを巡らせていると、シロが繋いだ手を5本の指を絡めるように組みかえた。これが俗に恋人つなぎだという知識だけはある。
 しかし、いくら相手がシロとは言え見た目は完全に儚げな美少年だ。中高生男子に免疫のない私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 手を繋いだまま歩いていると、オシャレなカフェの前でシロが立ち止まる。
「こういうところ、来たことないから入りたい」
 確かに、ペットを連れて入れる飲食店は地元にないのでシロと飲食店に入ったことはない。中に入るとカップルばかりだった。シロがチョコレートパフェを1つ注文する。
「チョコレート、食べて大丈夫なの?」
「うん、今日は大丈夫」
犬にとってチョコレートは毒だ。犬だった頃に食べられなかったものを人間の姿になったら食べたいと思うのも自然なことだろう。
「エリちゃんチョコレート好きでしょ?」
歯を見せてシロが笑う。
 芸術品のような綺麗なパフェが運ばれてくるとシロが目を輝かせた。シロは長いスプーンでおそるおそるパフェをすくうと自分で食べる前に私に差し出した。
「はい、あーん」
ずっと食べたかったパフェなのに私に先に食べるように促した。
「どうしたの?溶けちゃうよ?あーん」
私は差し出された一口を食べる。案の定味がしない。シロに申し訳ない気持ちになった。シロが物欲しそうな気持ちでパフェではなく私の顔を見つめている。
「あーん」
私も小さい声で言いながら、チョコソースのたっぷりかかったチョコアイスの部分をすくってシロに差し出す。それを口にしたシロの顔が緩む。今までの人生でこんなに幸せそうな表情の人は見たことがない。
「えへへ、ずっと夢だったんだよね」
私たちはお互いにパフェを食べさせ合った。味は分からなかったけれど、大袈裟に喜ぶシロを見ていると私まで幸せな気持ちになってくる。あっというまに容器は空になった。
「美味しかった?」
「うん!最高!エリちゃんも美味しかった?」
一瞬反応が遅れたのをシロは見逃さなかった。
「もしかしてこれチョコじゃなかった?」
おろおろしながら尋ねられてしまう。シロはチョコレートの味を知らない。せっかくシロの夢が叶ったのにそれを台無しにしたくはなかったので、正直にこれはチョコで合っているが私は味覚障害を患っていることを告白した。

 次にシロが望んだのはペット立ち入り禁止のデパートの屋上の観覧車だった。小さなゴンドラの中、向かい合って2人きりになる。シロは私の膝を見ながら心配そうに尋ねる。
「傷、まだ痛い?」
もう何年も前の傷だ。シロが罪悪感なんて持たなくていいのに。
「全然痛くないよ、これは私の勲章だから」
 私は胸を張った。突然シロが跪いて、膝の傷痕にキスを落とす。少しくすぐったかった。シロに他意なんてないはずなのに、とてもいけないことをしている気持ちになった。
「エリちゃんは誰かのために命をかけられる強くて優しい子だよ。そんなエリちゃんだから僕は好きになったんだ」
 シロは言い終わるや否や私の隣に座って、次は私の顔の傷にキスをした。
「エリちゃん、僕に命をくれてありがとう」
2人だけの密室で、男の人の唇の感触と吐息を肌で感じれば、意識してしまう。シロは家族なのに。
 緊張のあまり、私は目を逸らした。私が私ではなくなっていくようだった。
「ねえ、シロ。外、綺麗だよ!」
上ずった声を上げて外を指差す。私たちが長年暮らした街を一望できる。シロはその景色に見とれていた。
「すごい、初めて見た」
観覧車が下り始めた頃、ハッとしたようにシロが言う。
「でも、エリちゃんの方が綺麗だよ」
きっと、観覧車の頂上で言おうと思っていたのについ忘れちゃったんだろうな。そんなシロが可愛く思えて頭を撫でた。
「ありがとう」
そう答えると、シロが私の目をじっと見つめる。澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。シロが私をそっと抱きしめ、耳元で囁いた。

「大人のキス、してもいい?」

 犬のシロは家族だけれど、人間の姿のシロは紛れもなく男の子だ。しかも、紳士的でかっこいい。私は言い訳ができないくらいに人間のシロに惹かれていた。1日限りの恋人ごっこなのに、本気になってはいけないのに私は頷いてしまった。

 目を瞑ると、私の唇をシロの舌がなぞる。そのまま彼の舌を受け入れた。ふわふわした気持ちにとらわれて何も考えられなくなった。目の奥で銀色の星屑がキラキラした。その星屑の一つ一つが昔好きだった銀紙に包まれたチョコレートの粒に姿を変えていく。

 シロの唇が離れ、目を開けて黙って見つめ合う。
「どうだった?」
「チョコレートみたいだった」
シロに尋ねられ、ぼんやりとした頭で出した答えは支離滅裂だ。シロは笑顔で頷いた。
「分かる。チョコレートの味したよね」
そう言えば私たちはさっきチョコレートパフェを食べたのだった。頂上から望んだ景色を綺麗だと感じたし、シロと過ごして恋をして少しずつ感覚が戻ってきているのかもしれない。

 観覧車を降りたあと、シロは私に隠れて何かを買ったようだった。そのままシロは私の家の玄関の中まで送り届けてデートが終わる。タイムリミットが来たようだ。

「嫌だ、行かないで!ずっと一緒にいてよ!」

 神様がくれたボーナスタイムも全然足りない。私はデート前と同じように泣いてシロに縋りついた。シロは親指で私の涙を拭った。

「エリちゃん、泣かないで。これ、エリちゃんにあげるから」

 シロに渡されたのはリボンのかかった箱に入ったチョコレートだった。さっきデパートで買ったのはこれだったのだろう。

「エリちゃんが元気になりますようにっておまじない。大事に食べてよ、僕からの最期のプレゼントだからさ」

 シロは私の味覚障害を気にかけてくれていた。私は最後の最後まで、天国へと旅立つシロに心配をかけていた。

「僕がいなくなっても、もう泣かないでね。涙でしょっぱいチョコなんて美味しくないでしょ?」

 優しいシロは私に思い出を作るために1日一緒に過ごしてくれた。私が前を向けるように。だから、笑って送ってあげないとシロは安心できない。頑張って口角を上げて笑顔を作った。

「バイバイ、エリちゃん。大好きだよ」
「私も大好きだよ!」

 手を振るシロに私も声の限りに叫んだ。シロが玄関のドアを閉める。去って行く足音が聞こえる。この扉を開けちゃいけない。追いかけちゃいけない。泣いちゃいけない。

 シロと過ごした17年間の思い出と、1日限りの淡い初恋を胸に抱いて私は明日からも生きていく。シロに誇れるように、前を向いて生きていく。

 そんな決意を胸に、シロがくれたチョコレートを口にする。久しぶりに味がしたそれはちょっとだけ苦くて、とびっきり甘かった。