何を食べても味がしなくて、何を見ても綺麗だと思えない。シロという半身を失った私の人生は無味乾燥なものとなった。

 精神科に通ったところで、シロを失った悲しみが癒えるとは到底思えなかった。私の痛みをペットロス症候群の一言で表す大人たちに憤りを感じた。

 総合病院に来るのは何年ぶりだろう。あれは車からシロを庇って大怪我した時だった。足と顔には未だに傷が残っているが、隠そうと思ったことは1度もない。シロを守った証を誇らしく思っている。制服のスカートを冬でもわざと短くして傷を見せびらかした。

 入院をしたことで初めて、生まれた時からずっと一緒だったシロと離れて眠った。小学生の頃だったとはいえあの時の私は非常識極まりなかった。看護師さんに病院に犬を連れ込むことを認めろとせがんだり、入院先で仲良くなった同い年の子とシロの共通点を見出して勝手に同一視したりした。

 シロは私にとってはかけがえのない家族だが、他人にとっては会ったことのない犬。犬呼ばわりされたあの子はいい気はしなかったと思う。それに、食事制限をしているこの前でお菓子を食べたり、学校やシロとの外遊びの話をしたりとかなり無神経だった。高校生になり多少分別のついた今思えば、顔も忘れてしまったあの子には申し訳ないことをした。

 大して効果のないカウンセリングを終えて病院の敷地を出ると、不意にシロを思い出して涙が零れた。
 
「エリちゃん!」

 その時、追いかけてきた同じくらいの年の男の子に名前を呼ばれた。知らない子だった。私をエリちゃんと呼ぶのは母くらいだ。友達はみんな名字の小早川からとって「コバ」と呼ぶ。

「誰?」
「僕、シロです」

 シロを失くしたばかりの私に不謹慎なドッキリを仕掛けるような知り合いは私にはいない。目の前の彼は17歳相当。シロと同い年くらいだ。もっとも、シロは人間に換算すると80歳のおじいちゃんだけれども。

「これ見たら分かってもらえますかね?」

 彼は細く白い腕で鞄から大事そうに古びた折り紙で出来た犬を取り出す。鶴は折れないけど犬だけは昔から折ることができた。入院中も折っていたし、退院してからもシロのおもちゃにと折り紙の犬をたくさん作った。私の作り方にはクセがあるらしく、それは確かに私が折ったものだった。

 荒唐無稽な話だけれど、死んだシロが人間の姿になって私に会いに来てくれた。とんだ夢物語だけれどそれを信じたくなった。

「シロ……!」

 私はシロを強く抱きしめた。本当は生きている間にもっとたくさん抱きしめたかった。もっと色々なことをしてあげたかった。まだ愛を伝えきれていないのに。

「なんで死んじゃったの。死なないでよ。ずっと私と一緒にいてよ」

 泣きじゃくる私をシロが頭を撫でて慰める。

「エリちゃん、泣かないで。エリちゃんが泣いてると僕も悲しいから」
「そんなこと言うくらいならずっと生きててほしかった」

 シロが困ったような顔をする。無茶を言っているのは分かっている。老衰で死んだシロは犬としてはかなりの大往生だったのだ。

「もっといっぱいしてあげたいことあった。もうどこにも行かないで」

 シロが私のことを抱きしめ返して、耳元で囁いた。

「ずっと一緒にはいられないけど最期にいっぱい思い出作ろうよ。1日だけ、神様が人間の体をくれたから」

 シロといられる最期の時間。いつまでも泣いてはいられない。シロが笑って逝けるように、最期にシロが望むことを何でもしてあげよう。

「うん、何でもしたいこと言って。全部叶えてあげるから」
「じゃあ、1個だけお願いをさせて」

オトコのコの顔をして、シロが微笑む。

「僕、恋がしたいんだ。ダメかな?」