男は前を歩く女の、肉付きのよい臀部を見た。
背格好の割に大きすぎず小さすぎず、
スラックスに下着のラインが透けて見え、
それは扇情的であった。
「植物の擬態にご興味は――。」
「は?」
廊下を歩きながら、前の女が涼やかな声で話す。
流し目に、男は下心を見抜かれてドキリとした。
「バロミートの語源は、
バロメッツと呼ばれる古代の民間伝承です。」
「知ってる。羊の木だろう。
たしかに擬態といえば、擬態だが。」
女の説明にうなずき、
事前に調べていた知識を披露した。
『羊の木』という妙な呼び名の通り、
木生シダから1頭のヒツジが生えている。
木の幹はヒツジのヘソと繋がっており、
大地の栄養がヒツジに行き渡るのである。
擬態――。
ただしヒツジの皮をかぶったオオカミに、
人間が食われる話ではない。
あまりにもバカバカしい絵面だが、
男は調べていた内容を伝えた。
「元は紀元前5世紀のユダヤ人の民間伝承だ。
それをマンデヴィルという英国貴族が、
アジアを旅した内容を本にした。
その中にひょうたんに似た果実が、
肉と羊の血に見えた、とか。」
「はい。そこには羊毛の記述はなかった
とされていますが、本は西洋に広まり、
タルタリア族の羊の木と
呼ばれるようになりました。」
さらに女は付け加えた。
「それから2世紀のちの16世紀には、
ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインが
カスピ海の北でメロンの種子から生まれた
ヒツジを食べたと著書に残しています。」
「たしか蹄は髪で、カニ肉に似ていたが、
しかしオオカミが好む果物だった、とか。」
「よくご存知で。」
「その長ったらしいオーストリア人の名前までは、
覚えてなかったがね。」
端整な顔をした女がほほえむので、
男は鼻で笑い、照れくささを紛らわせた。
民間伝承を語り合う成人男女という構図が、
男にはやや耐え難いものがあった。
相手はふたまわり近く若い女。
会話の内容が、離れて暮らす
姪っ子を相手する気分になる。
ただ姪は、こんなに美人で利発ではなかった。
「擬態ってのは、
葉っぱになって外敵をやり過ごしたり、
毒を持つハチに姿を似せたりするやつだろ。
それで、植物の擬態? って。」
動物とは違い、目を持たない植物の擬態など、
想像しにくい。
「はい。動物の擬態と同じように、
植物にも擬態と見られるものがあります。
身を守り、種を増やす擬態の中には、
ヒツジとまではいきませんが、受粉のために
ハチドリに似せる花もあるそうです。」
手をかざす女の認証で厚い扉が自動的に開き、
男は廊下のさらに奥の空間へと招かれる。
男の胸元には大きなカメラがぶら下がっている。
「記者をこの施設にお招きしたのは久々ですね。」
「バロミートの歴史記事なんて、
いまさら誰も読まねえけどなぁ。」
廊下を抜けた先は巨大な畑になっており、
白い綿毛を覗かせる植物が見事な列をつくる。
植物の先の成熟した朔果がはじけ、
開裂するちょうどいい時期だった。
厚いガラス窓の景色に向け、
男はカメラを構えてシャッターを切る。
今日のこの退屈な仕事をする素振りである。
撮影程度なら施設内のカメラの映像でこと足りる。
ここではバロミートの原料を最初に試作したが、
現在では歴史資料として遺された施設でしかない。
「写真を撮るだけの退屈な仕事だ。」
「でしたら私との雑談を載せてみるのも、
一興かもしれませんよ。」
「そいつは面白い話か?」
「ある視察でいらした方が、この施設の維持に
補助金を出された程度には。」
女の提案に記者の男は思わず笑ってしまったので、
話を聞くことにした。
女の厚いくちびるが揺れ動く。
「植物の擬態もさまざまで、
雌花が雄花を模倣するベーカー型や、
受粉者を誘引する花を模倣するミュラー型、
これらの花は蜜を提供しません。」
「虫をだますってことか。」
女はうなずき続ける。
「バビロフ擬態というのもあります。
ひとの営みが狩猟から農耕へと移り変わるとき
誕生した人工的な擬態とされ、
それらは穀物などに混ざって育成されます。
作物擬態、雑草擬態とも呼ばれます。」
「人間が知らずのうちに、
擬態を生み出してたって?」
「人間を『小麦の奴隷』と呼ぶのなら、
かれらはおこぼれに預かる
乞食といったところでしょうか。」
女の口から思わぬ単語が出てくるので、
眉をひそめた記者だが、それが妙に面白かった。
奴隷も乞食もいまでは禁句となっていて、
強制労働者や物乞いに言い換えられている。
「ほかにも、
昆虫のメスの相手を模倣するプーヤン型や、
無害な種が、有害な種を模倣するベイツ型、
草食動物から身を守る葉擬態などがあります。」
「いろいろあるんだな。
それがいまのバロミートと
なにか関係あるのか?」
「バロミートはご存知の通り、
大豆とコットンの遺伝子組み換えによって
作られた代替肉の原料ですが、
残念ながらラムやマトン――ヒツジの肉や
もしくはカニ肉ではありません。」
「風味はあるよなぁ。」
「そこは企業努力の賜物ですね。」
畑に入る人間サイズの機械が、
バロミートの原料となる
綿毛の植物の実を摘み取る。
別の設備では、集めた実の綿毛を取り除く。
「人口が増加したところで、
生産量よりも消費量が上回ります。
いくら食肉産業の効率を極めても、
地球上の資源には限りがありました。」
旧世紀では忌避感を与えていた
遺伝子組み換え食品の認可が降りたのは、
やむを得ない台所事情であった。
数千億分のいち未満の健康被害リスクよりも、
地球上のあらゆるひとが生き延びる方法を、
妥協の積み重ねによって選んだに過ぎない。
男は来場者向けに用意された
採れたての実を一粒、手にする。
黄金色の見事な球体。原料である。
煎られており、ほんのりと熱く、
そのまま食べられる。
バロミートは食肉のみならず、
ほぼ大豆そのものでもあるので、
調味料や油用などでも幅広く利用される。
バロミートの生産効率は非常に優れており、
荒れ地であっても根付き、大気中に含まれる
わずかな水分と窒素で育成が可能で、
環境だけではなく虫や病気にも強かった。
さらに副産物として木綿も大量に得られ、
食肉の中でももっとも安価であった
ニワトリの市場さえも奪った。
なぜならバロミートの原料から、
疑似的な鶏卵さえも製造できたからである。
「バロミートは家畜に擬態した植物であり、
私たちはバロミートの奴隷かもしれませんね。」
擬態から話の流れに合点がいき、
男はうなずき小さく笑った。
退屈なはずの施設の取材という名目の仕事は、
女との会話がはずみ、あっという間に終わった。
施設を後にする男を見送りながら、
案内役の女は小さく独り言をつぶやいた。
「次はまた、30年後くらいでしょうかね。」
バロミートの施設を長年案内している女は、
記者と偽装して視察に来た人間の男に話した
バビロフ擬態について考える。
作物を模倣して、利益を享受する雑草。
バロミートの奴隷とその乞食の関係性について。
厚いガラス窓のむこうで、
人間サイズの機械たちはまるで
バロミートの栽培や収穫を行う奴隷である。
ではおこぼれに預かるのは人間なのか、
それとも人間に擬態する機械人形なのか。
施設の中でしか存在しない女には、
どうあっても知り得ないことであった。
(了)
背格好の割に大きすぎず小さすぎず、
スラックスに下着のラインが透けて見え、
それは扇情的であった。
「植物の擬態にご興味は――。」
「は?」
廊下を歩きながら、前の女が涼やかな声で話す。
流し目に、男は下心を見抜かれてドキリとした。
「バロミートの語源は、
バロメッツと呼ばれる古代の民間伝承です。」
「知ってる。羊の木だろう。
たしかに擬態といえば、擬態だが。」
女の説明にうなずき、
事前に調べていた知識を披露した。
『羊の木』という妙な呼び名の通り、
木生シダから1頭のヒツジが生えている。
木の幹はヒツジのヘソと繋がっており、
大地の栄養がヒツジに行き渡るのである。
擬態――。
ただしヒツジの皮をかぶったオオカミに、
人間が食われる話ではない。
あまりにもバカバカしい絵面だが、
男は調べていた内容を伝えた。
「元は紀元前5世紀のユダヤ人の民間伝承だ。
それをマンデヴィルという英国貴族が、
アジアを旅した内容を本にした。
その中にひょうたんに似た果実が、
肉と羊の血に見えた、とか。」
「はい。そこには羊毛の記述はなかった
とされていますが、本は西洋に広まり、
タルタリア族の羊の木と
呼ばれるようになりました。」
さらに女は付け加えた。
「それから2世紀のちの16世紀には、
ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインが
カスピ海の北でメロンの種子から生まれた
ヒツジを食べたと著書に残しています。」
「たしか蹄は髪で、カニ肉に似ていたが、
しかしオオカミが好む果物だった、とか。」
「よくご存知で。」
「その長ったらしいオーストリア人の名前までは、
覚えてなかったがね。」
端整な顔をした女がほほえむので、
男は鼻で笑い、照れくささを紛らわせた。
民間伝承を語り合う成人男女という構図が、
男にはやや耐え難いものがあった。
相手はふたまわり近く若い女。
会話の内容が、離れて暮らす
姪っ子を相手する気分になる。
ただ姪は、こんなに美人で利発ではなかった。
「擬態ってのは、
葉っぱになって外敵をやり過ごしたり、
毒を持つハチに姿を似せたりするやつだろ。
それで、植物の擬態? って。」
動物とは違い、目を持たない植物の擬態など、
想像しにくい。
「はい。動物の擬態と同じように、
植物にも擬態と見られるものがあります。
身を守り、種を増やす擬態の中には、
ヒツジとまではいきませんが、受粉のために
ハチドリに似せる花もあるそうです。」
手をかざす女の認証で厚い扉が自動的に開き、
男は廊下のさらに奥の空間へと招かれる。
男の胸元には大きなカメラがぶら下がっている。
「記者をこの施設にお招きしたのは久々ですね。」
「バロミートの歴史記事なんて、
いまさら誰も読まねえけどなぁ。」
廊下を抜けた先は巨大な畑になっており、
白い綿毛を覗かせる植物が見事な列をつくる。
植物の先の成熟した朔果がはじけ、
開裂するちょうどいい時期だった。
厚いガラス窓の景色に向け、
男はカメラを構えてシャッターを切る。
今日のこの退屈な仕事をする素振りである。
撮影程度なら施設内のカメラの映像でこと足りる。
ここではバロミートの原料を最初に試作したが、
現在では歴史資料として遺された施設でしかない。
「写真を撮るだけの退屈な仕事だ。」
「でしたら私との雑談を載せてみるのも、
一興かもしれませんよ。」
「そいつは面白い話か?」
「ある視察でいらした方が、この施設の維持に
補助金を出された程度には。」
女の提案に記者の男は思わず笑ってしまったので、
話を聞くことにした。
女の厚いくちびるが揺れ動く。
「植物の擬態もさまざまで、
雌花が雄花を模倣するベーカー型や、
受粉者を誘引する花を模倣するミュラー型、
これらの花は蜜を提供しません。」
「虫をだますってことか。」
女はうなずき続ける。
「バビロフ擬態というのもあります。
ひとの営みが狩猟から農耕へと移り変わるとき
誕生した人工的な擬態とされ、
それらは穀物などに混ざって育成されます。
作物擬態、雑草擬態とも呼ばれます。」
「人間が知らずのうちに、
擬態を生み出してたって?」
「人間を『小麦の奴隷』と呼ぶのなら、
かれらはおこぼれに預かる
乞食といったところでしょうか。」
女の口から思わぬ単語が出てくるので、
眉をひそめた記者だが、それが妙に面白かった。
奴隷も乞食もいまでは禁句となっていて、
強制労働者や物乞いに言い換えられている。
「ほかにも、
昆虫のメスの相手を模倣するプーヤン型や、
無害な種が、有害な種を模倣するベイツ型、
草食動物から身を守る葉擬態などがあります。」
「いろいろあるんだな。
それがいまのバロミートと
なにか関係あるのか?」
「バロミートはご存知の通り、
大豆とコットンの遺伝子組み換えによって
作られた代替肉の原料ですが、
残念ながらラムやマトン――ヒツジの肉や
もしくはカニ肉ではありません。」
「風味はあるよなぁ。」
「そこは企業努力の賜物ですね。」
畑に入る人間サイズの機械が、
バロミートの原料となる
綿毛の植物の実を摘み取る。
別の設備では、集めた実の綿毛を取り除く。
「人口が増加したところで、
生産量よりも消費量が上回ります。
いくら食肉産業の効率を極めても、
地球上の資源には限りがありました。」
旧世紀では忌避感を与えていた
遺伝子組み換え食品の認可が降りたのは、
やむを得ない台所事情であった。
数千億分のいち未満の健康被害リスクよりも、
地球上のあらゆるひとが生き延びる方法を、
妥協の積み重ねによって選んだに過ぎない。
男は来場者向けに用意された
採れたての実を一粒、手にする。
黄金色の見事な球体。原料である。
煎られており、ほんのりと熱く、
そのまま食べられる。
バロミートは食肉のみならず、
ほぼ大豆そのものでもあるので、
調味料や油用などでも幅広く利用される。
バロミートの生産効率は非常に優れており、
荒れ地であっても根付き、大気中に含まれる
わずかな水分と窒素で育成が可能で、
環境だけではなく虫や病気にも強かった。
さらに副産物として木綿も大量に得られ、
食肉の中でももっとも安価であった
ニワトリの市場さえも奪った。
なぜならバロミートの原料から、
疑似的な鶏卵さえも製造できたからである。
「バロミートは家畜に擬態した植物であり、
私たちはバロミートの奴隷かもしれませんね。」
擬態から話の流れに合点がいき、
男はうなずき小さく笑った。
退屈なはずの施設の取材という名目の仕事は、
女との会話がはずみ、あっという間に終わった。
施設を後にする男を見送りながら、
案内役の女は小さく独り言をつぶやいた。
「次はまた、30年後くらいでしょうかね。」
バロミートの施設を長年案内している女は、
記者と偽装して視察に来た人間の男に話した
バビロフ擬態について考える。
作物を模倣して、利益を享受する雑草。
バロミートの奴隷とその乞食の関係性について。
厚いガラス窓のむこうで、
人間サイズの機械たちはまるで
バロミートの栽培や収穫を行う奴隷である。
ではおこぼれに預かるのは人間なのか、
それとも人間に擬態する機械人形なのか。
施設の中でしか存在しない女には、
どうあっても知り得ないことであった。
(了)