こうして難が去り、私は青年と帰路についた。一緒に家までの道のりを歩いていると、治療箱を持ってくれている彼が口を開く。

「医仙に治せない病はあるのか?」

「そんなのたくさんあるわ。ここは薬も道具も充実してないし」

「ここは……? それは仙界と比べているのか」

 うっ、と私は返答に困った。『仙人の知恵』だとか『治せない病はあるのか』とか、そんなに私が仙人かどうかを知りたいの?

「違うわ、都に比べてって意味よ」

 実際は天災で壊れた世界の話なので、簡単には行けないという意味では仙界と大差ないのかもしれない。

 また気分が沈みそうになり、私は昼間の太陽を見上げた。

「今日は朝から働いたし、戻ったら食いっぱぐれた朝ご飯を食べましょう。いつもひとりだから、食べてくれる人がいると思うと、作り甲斐があるわ」

「お前はお人好しだ」

「え? ないない。ここに来るまでの私は、自分のことばっかりだったし」

 正しくはこの世界に来るまでは、だが。

「泥と血に汚れる女は初めて見た」

「そうなの? じゃあ、あなたの周りにいる女人はどんな人が多いの?」

「……蝶や花を愛で、華やかに着飾り、男の寵愛を得ることに労力を費やす者たちばかりだ」

 女人に振り回された経験でもあるのか、苦い顔をしている。

「それゆえ、傷口に躊躇いなく触れ、皮膚を縫っていても表情ひとつ変えない女がいることに……驚いた」

「確かに、普通の女人では耐えられないわよね」

 私が笑えば、青年は黙ってしまう。

「なぜ、そこまでして助ける」

「それは……」

 私だって、初めから白衣の天使なわけではない。ただ、あの子と約束したからだ。

「たくさん助けるって……ある人と約束したから」

「お前にとってその約束は、命を懸けるほど大事なものなのか」

「私にとって、その約束は……うん、大事。もうその約束しか、私にはないから……」

 いけない、あの子の話題はどうしたってしんみりしてしまう。

 あの約束だけが、もういないあの子との繋がりを唯一感じさせてくれる。あの子のためにできることがある、そう思うと気持ちが楽になる。約束を守る行為そのものが、私の心の安定剤になっていた。

「私が生きるためにも、守らなきゃいけないの、絶対に」

 だから、あの子みたいに純粋に救いたいという気持ちから助けているのではない。自分の傷の痛みを和らげるためにしていることで、ただの自己満足なのだ。

「医仙──うっ……」

 私の顔を覗き込もうとした青年は、突然顔をしかめ、額を押さえながらふらついた。

「大丈夫⁉」

 とっさにその身体を抱き留め、一緒にその場にしゃがみ込む。

 もしかして、高山病が悪化した?

 手首の脈をとれば、走ってもいないのに異常に早い。それに、すごい汗……。

「問題ない……いつもの……めまい、だ……」

 いつも? 頻繁にめまいを起こしてるってこと? 顔も真っ青だし……そういえば、血を見たときにも具合が悪そうだった。なにかを追い払うみたいに、頭を振って……。

「っ、つう……」

 これは、高山病とは関係ないかもしれない。

「……血を見たり、匂いを嗅ぐと……なにかを思い出す?」

 青年の身体がびくりと震える。

「自分にとってつらい出来事が頭の中に入り込んできて、繰り返し蘇って……制御できないことがひと月以上続いてる?」

「なぜ、そんなことを聞く」

「ある出来事を思い出したときに、汗をかいたり、動悸が激しくなったり、全身がこわばったような状態になったり……悪夢を見たり、眠れなくなったり……そういう状態になる心の病があるのよ」

 PTSD──心的外傷後ストレス障害。私も前世で地震による崩落に巻き込まれたせいで、あの日と同じ状況になると同じ症状が出る。雨や地震に過敏に反応して、あの子を失ったときのことを思い出すのだ。

 でも、私は看護師だったから、自分がおかしいことに気づけた。あの記憶を思い出しても、あれが避けられない災害だったんだ、怖いことはもうないんだって自分を説得することで、完治とはいかないけれど、なんとか折り合いをつけられている。

「毎夜見る悪夢が……心の病のせいだと? 俺は……そこまで、軟弱な人間だったということか」

「弱くない人間なんていないわ。皆、弱いことがいけないことみたいに言うけど、その弱さを見て見ぬふりするから、心が壊れてしまうの」

 私は青年の背中をさすりながら、言い聞かせる。

「心の病は特に、誰もがその境界線に片足を突っ込んでるものなのよ。だけど気づかないふりをしてごまかして、もしくは本当に気づかないうちに手遅れになってしまう。だから、心の悲鳴に耳を塞がないで」

「……お前なら、治せるのか?」

「わからない。でも、あなたが心の傷に向き合うっていうなら、一緒に戦うわ」

「俺は……」

 俯いて視線を彷徨わせた青年は、やがて意を決したように私を見上げる。

「俺は正気を失うわけにはいかない。俺が膝をつけば、その瞬間に命を落とす者が、涙を見る者がいるからだ」

「え……?」

「直接、この目で確かめた甲斐があった。やはり、お前で間違いない」

「ごめんなさい、さっきから話が見えな……」

 私の言葉を遮るように、青年が肩を掴んでくる。その手の強さに、思わず顔をしかめた。

「医仙、お前を連れていく」

 は……?

 言われた意味を理解する間もなく、うなじに強く手刀を入れられる。

「うっ……」

 意識が遠のいていき、倒れそうになる私を青年が抱き止めた。

 どうして、こんなこと……助けた相手に攻撃されるなんて……。

 恨み言のひとつも返せないまま、世界は暗転した。

(※続きは書籍でお楽しみください)