白蘭になる前の私は白井(しろい)蘭(らん)という名前で、こことは別の世界、別の国──日本で生きていた。当時二十七歳だった私の仕事は看護師 。

 連日起きている災害で全国的に医療施設の数が減り、どこの病院も内科や外科、産科や精神科……診療科関係なく患者を受け入れている状態だ。医療崩壊が迫る今、この仕事は過酷を極めている。

 だからか、昼休みに病院の中庭にあるベンチに腰かけ、空を仰いで出る一声はいつも──。

『つっかれたー、梅酒飲みたい、ロックで』

『蘭、いつも同じこと言ってて飽きない? というか、いつも梅酒で飽きない?』

 同期で親友の芽衣(めい)が私にコーヒーを差し出す。病院内に併設されているコーヒーチェーン店のものだ。

『ありがとう』

 コーヒーを受け取ると、隣に芽衣が腰かける。

 芽衣は薬剤師だ。働く部署が違うので、休憩を一緒にとれるのは珍しい。でも、お互いがそこにいてもいなくても、私たちは自然とここへ足が向いてしまう。

『一度はまった食べ物って、延々とリピートしちゃうのよね、私』

『それが梅酒ってのが色気ないよねえ。ま、その気持ちはわからないでもないけどさ』

 むふふ、と気味の悪い笑みを浮かべた芽衣が後ろから一冊のノートを取り出した。私はまたか、と呆れる。

『えー、本日は凍瘡(とうそう)における軟膏の作り方について、討論したいと思います』

 芽衣が広げたノートは、手作りの医学書だ。

『討論って……なんで私もやるみたいになってるの』

『なんだかんだ、いつも付き合ってくれてるじゃん、蘭。それにさ、この数年、地震、津波、火山噴火、豪雨による土砂災害……日本だけじゃなくて、外国でも大規模災害が頻発して、大きな被害が出てるでしょ?』

 二週間ぶりに見た雨以外の貴重な曇り空を芽衣は憂うように見上げた。

『もし今災害が起きて、この地上になにもなくなってしまったとしたら? 薬もすでに調剤、梱包されたものが届くこの時代で、自分にできることは少ない。私は怖いんだよ、目の前で助けを求めてる人がいるのに、なにもできないことが』

 もし今災害が起きて、この地上になにもなくなってしまったとしたら……か。

 現代の医療は血圧計も自動で、水銀製のものを見ることは少なくなった。カルテや看護記録も電子で、手書きのものを使用したのは学生の頃に行った実習以来だ。

 芽衣の言うような事態が起きたとき、豊富な医療機器に頼りきりの自分にできることは少ないだろう。最近、確かに自然災害が多いし、私もそんな懸念を抱かないことはない。

 でも、私は芽衣ほど使命感を持って仕事はしていない。最初は誰かの役に立ちたいからついた 職業だけれど、実際は休みもないし、感染の危機に晒されてるし、忙しいから現場は常にピりついていて人間関係も劣悪で、白衣の天使なんて嘘だよと思う。

 やりがいはあるけど、夢よりも現実のほうが浮き彫りになってきて、看護師を目指したときのあのキラキラした気持ちを忘れてしまった。そういう自分とは違って、夢への輝きを失わない彼女は純粋にすごいと思う。

『私は、なにもなくなっても、なにかできる医療者で在りたいの』

 その曇りない思いに突き動かされて、芽衣は電気がない時代で自分が施せるだろう医療をノートに書き留めているのだ。それに、なんだかんだ私も参加させられている。

『……凍瘡、しもやけについて……だっけ、今日の討論内容は。エアコンとかヒーターがなかったら、家の中でも起こるわね』

 私が討論にやる気になったと思ったのか、芽衣の顔がぱっと輝いた。

『そうなの! そこでびっくりしたのが、昔の人は靴下の爪先に唐辛子を入れることで、しもやけを防止してたんだって。唐辛子の辛さ成分が皮膚を刺激して血行をよくするから、エビデンス的には成り立ってると思わない?』

 どうして、そこまで一生懸命になれるのか──。
 
 生き生きと語る芽衣は本当に純粋でまっすぐで、毒気を抜かれてしまう。心から誰かを救いたいなんて言う白衣の天使もこの世にいるのかもしれない。そんなふうに彼女を見ていると考えを改めさせられる。

『そうかもだけど、唐辛子は刺激が強いから、皮膚の弱い人には向かないんじゃない? 薬以外で凍瘡を改善できるとしたら、マッサージで血行を促進するとかね。あとは痒みもあると思うから、皮膚を傷つけないように保湿もしないと』

『そうなんだよね。しもやけの痒みと腫れがひどい場合は、ステロイド軟膏が使えればいいんだけど、さすがにそれは難易度が高いから、植物の根や樹皮から作れる生薬(しょうやく)に目をつけてみたの』

 生薬というのは植物や動物、鉱物などが持つ効能を組み合わせて作った薬のことで、漢方薬の原料だ。芽衣の手作りの医学書ノートには、薬用植物の種類や漢方薬の作り方などが書き留められている。

 彼女はもっぱら〝もし明日、医療機器がない世界になってしまったら〟という妄想のもと、こうして薬学の原点である薬草と、看護の原点である人間の自然治癒力を引き出す関わりに着目して討論を重ねるのにはまっていた。

 おかげで私も、生薬や漢方薬に詳しくなった。看護師も薬学は一通り修めるが、薬剤師には遠く及ばない。贅沢なことに、その専門家が先生なのだ。わかりやすいったらない。

『軟膏はミツロウと、人の肌によく馴染むように豚脂(とんし)を加えれば作れるの。そこに消炎、抗菌、肉芽(にくが)形成、解毒作用がある薬草を入れれば……はい、凍瘡に効く『紫雲膏(しうんこう)』の出来上がり』

『それなら機械がなくても作れる……うん、採用でいいんじゃない?』

 芽衣は『よっしゃ』と言いながら、凍瘡処置のページの下の方に【M&R】のイニシャルを書き足した。使えると判断した治療法は採用の意味で、こうしてふたりのサインを入れるのがルールになっている……らしい。芽衣が勝手に決めたことだけれど。

 ふたりでノートを覗き込んでいたら、ぽたっとしずくが落ちてきた。ふたりで顔を上げれば、雲の流れが速い。

『うわ……これまたドサーッと来そうだね』

 心配そうに雨雲を見つめている芽衣に『そうだね』と相槌を打ったそばから、私の気分もどんよりする。

 つい先日も集中豪雨による洪水で家族や家を失った人がたくさんいるとニュースでやっていた。復興が終わらないうちに次の災害に見舞われてしまうので、避難所暮らしを強いられている人の数が増えているのが社会問題になっているほどだ。

『本当に、この世界はどうなっちゃうんだろうね』

 湿気を纏った生温かい風に、芽衣の呟きが攫われていく。そのとき、雨粒が大きくなって、ザーッと私たちを打ちつけた。

『最悪!』

 思わず叫んだとき、芽衣が白衣を脱いで頭に被り、キメ顔でこちらを向く。

『入れよ、ハニー』

『イケメンか! というか、誘い方が古い!』

 その中に遠慮なく入り、私たちは笑いながら雨の中を走る。こんな世界だけど、隣に彼女がいるだけで明るくなれた。

『白衣に防水機能がついてればなー』

『白衣を傘替わりに使う機会は、そうそうないと思うけど』

 ぼやく芽衣にそう返しながら病院内に入ったとき、ガタガタと揺れを感じた。ふたりで足を止め、天井を見上げる。

 地震? 

 頻繫に起こっているので、今回もすぐにおさまるだろう。そう思っていた次の瞬間、ドンッと身体が跳ね上った。

 え──。

 悲鳴をあげる間もなく、私はお腹から地面に叩きつけられるようにして落下した。うっと呻きつつ顔を上げれば、少し先にうつ伏せに倒れている芽衣を発見する。

『め……芽衣……っ』

 そばに行こうとしたら、今まで聞いたことがない凄まじい地鳴りがした。

 芽衣が顔を上げ、『ら……』と私の名前を呼ぼうとしたとき、病院は耳をつんざくような音を立てて──倒壊した。

 それからしばらく意識を失っていた。遠くで雨の音がして、ぽたぽたと頬に冷たい水の感触。次第に突き刺すような痛みと圧迫感に襲われ、ゆっくりと瞼を開ける。

『う……ぁ……』

 背中が重い、息ができない……っ。

 落ちてきた天井に押し潰されたのだろう。生温かい血が身体を濡らし、床に赤い水溜りを作っている。まだ生きていること自体が奇跡だった。

『め、い……』

 崩れた天井の隙間から微かに光が差し込み、彼女を照らしていた。

 私は廊下に這いつくばったまま、手を伸ばす。芽衣は私の呼び声にぴくりと指を動かし、『うっ……』と苦しげな声を漏らしながら、こちらを見た。

『う……ら、ん……なに、これ……』

 芽衣はしばし混乱している様子だったが、すぐに『蘭……っ』と我に返り、私のところまで這って来ようとする。でも、芽衣も瓦礫の下敷きになっていて、身動きがとれないようだった。

『っ……どうしよう、足がっ……』

『芽衣、大丈夫……きっと、救助が来るわ……だから、それまで……話を……しない? いつも、中庭で……してる、みたいに……』

 私は自分に言い聞かせるように、『大丈夫』と繰り返す。それでも不安で手を伸ばすと、芽衣も腕を伸ばして握り返してくれた。

『そう、だね……なんだろう、すぐに思いつかないけど……この地震で、本当になっちゃった……かも、ね……医療機器がない、世界に……』

『今こそ、役立つわね……手作りの……あの医学書……』
ふふ、と力なく笑いながら、私たちは血でぬるりと滑る手を強く強く握る。

『……っ、蘭……もし、このまま世界が終わって……ドラマみたいに、違う時代に飛んじゃったり……新しい世界で生まれ変われちゃったり……したら、さ……』

『なに、言ってるの……世界は終わらないし、私たちはここで……生きて、いくんでしょう……?』

 救助がいつ来るのか、世界がどう姿を変えてしまったのかもわからない。絶望が未来を信じさせてくれなくて、涙がこぼれた。

『それがいちばん、だけど……この先、どうなるかわからない、から……約束、しよう……』

 芽衣も目に涙を溜めながら、指切りするように小指を絡ませてくる。

『どこにいくにしても……私たちふたりで……だよ。それで、たくさん助けるの……私たちなら、いろんな人を……治せる……』

『わかっ、わかった……っ』

 嗚咽に邪魔されながら、私は何度も頷く。何回も小指を揺らす。
どんなにくだらなかろうが、理想でしかない夢物語だろうが、目の前にいる親友が生きる気力を失わずに済むなら、馬鹿みたいにがむしゃらに誰かを助けたっていい。

 数秒後の自分がどうなっているのかもわからない中で、私たちはただ約束という希望に縋っていた。

 そのとき、ゴオオオオッとまた地鳴りがした。地下にとてつもなく強大な魔物でも棲んでいるかのように、その唸り声はどんどん大きくなっていき、地面が激しく揺れだす。

『蘭っ、離さないで……っ』

『芽衣っ……絶対に離さない、離さない……っ』

 硬く両手を握り合った瞬間、ドオオンッと天井が落ちてくる。

 白井蘭の人生に幕が下ろされるその瞬間まで、私が感じていたのは……親友の手のぬくもりだった。