明るい春の日差しも届かない場所が、この街にはある。

「ぎゃっ……!」

 二棟の雑居ビルが作り出す陰に、か細い悲鳴が響いた。追い討ちをかけるように、複数の笑い声が覆い被さる。

「こいつ、鼻血出してやんの」

「汚ねえ!」

 ゴミ袋の山の上に倒れた少年を、取り囲んだ連中が笑う。篠原真幸(しのはらまさき)はリーダー格の金髪の男の隣で、一拍遅れて同調した。

「ほんっとっすね、きたね」

「あ、血ついた。ばっち。俺、もうやだから、タカちん、やっちって」

「え、いいの? 昨日からイライラしてたんだよね」

「またあのバイトっすか?」

 真幸の質問には答えず、タカは怯える少年の脇腹を蹴り上げた。哀れな呻きに呼応して、再び爆笑が巻き起こる。当然、真幸もそれに加わる。

 いつも通りの光景が、薄暗いゴミ捨て場に反響する——



「——おい、お前」



 通りから差し込む僅かな光に、妙な形の影が落ちた。

 真幸を始め、仲間たちが一斉に振り返る。

 そこには奇妙な二人組がいた。

 真幸や仲間とそう変わらない年代の少年達だった。どちらもこざっぱりとした黒い髪で、整った顔立ちもよく似ている。強いて言えば、声をかけて来た方は裸眼、もう一方は眼鏡をかけていた。逆光ではそれぐらいしか見分ける術がない。

 五月も半ばだというのに、彼らは揃いロングコートを着込んでいた。上着の中はサラリーマンよろしく背広姿で、ネクタイも含め、シャツ以外はすべてが黒い。黒ずくめだ。

 さらに目を引くのが、彼らが従えている大型バイクである。黒光りするボディはゴミ捨て場の入り口を塞ぐほどでかい。アイドリングさせているらしく、威圧的な駆動音を辺りに発し続けていた。

 補導の警察官でもなければ、虐められっ子を助けにきた友人とも思えない。皆が皆、呆気に取られていると、痺れを切らしたように、最初に声をかけた少年が足を踏み出した。

「聞いてんのか、そこのチビ茶髪。お前だよ、えっとなんだっけ、篠、篠塚……」

「篠原真幸」

 バイクの後方に背を預けていた眼鏡の方が、タブレット端末をいじりながら補足する。自分の名が出てくるとは思わず、真幸はぎょっと身を竦めた。「あ、そうそう、それ」と少年が呑気に応じている合間に、真幸の名前を聞いた仲間たちが色めきだった。

「……あぁ? なんだてめえら。まさか、マサキの——」

「うるせえな、ザコは黙ってろ。ほら、いいから来いって、なんちゃら真幸」

 にじり寄るタカを小蝿でも追い払うかのごとくいなし、黒ずくめの少年は真幸の腕を掴み上げた。

 もちろん抵抗しようとしたが、ロングコートの下にあるものに気づき、とっさに言葉を失う。

 腰のベルトに、長い棒のようなものが二本、差してある。

 見間違いでなければ、それは鞘に収まった日本刀だった。

「てめえ、さっきから誰に何言ってんだ?」

 タカを押しのけ、リーダー格の男が少年に詰め寄る。

「つーか、マサキマサキって、しつこいんですけど。頭おかしいんですかぁ?」

「ビョーキけってーい! ぎゃはは!」

「——あーもう、すっこんでろ、ぶち殺されてーんか!」

 少年が青筋を浮かべてそう叫ぶと、やにわに呆れたような嘆息がゴミ捨て場に響いた。見ると眼鏡の方が重そうに腰を上げている。

「ちょっと、柴(しば)兄……そんな乱暴な物言いしたらダメだって」

「んじゃ、どーすんだよ。賢い賢い、啓くんは」

「そんなの簡単だよ」

 言うなり、啓と呼ばれた少年は腰の両側から何かを抜き取る。

 路地に向けられたのは、鈍く光る銀色の銃口だった。

 その両手に握られた二丁拳銃が、断続的にアスファルトを削り始めた。

 足元に破裂音が踊る。仲間は大混乱に陥った。銃撃はゴミ捨て場の奥まで及び、虐められっ子もまた悲鳴を上げて蹲る。

 ようやく銃撃が止む。立ち込める硝煙の中、啓は事も無げに言った。

「こいつで黙らせればいい」

「……あそ」

 納得できないけどせざるを得ない。そんな表情をありありと浮かべつつ、兄の方は無抵抗の真幸をさっさとバイクに乗せてしまう。

「て……てめえら、一体、何モンだ……!」

 最後の意地だろうか、リーダー格の男が尻込みしながら問いかける。

「何って」

 バイクの最後尾にまたがった兄が、ゴーグルの向こうで目を細めた。



「——天使だ」



 その言葉を最後に、バイクは唸りを上げ、走り出すと——

 あろうことか、大空に飛び立った。





 浮いている。飛んでいる。なぜ。どういう理屈で。というか、

「うわあっ、うわあああっ、た、高(たけ)ぇぇっっ……!」

 空と雲と風を切り、今やバイクは遥か上空まで飛び立っていた。眼下に広がる街は、作り物のように小さくなっている。襲ってくる浮遊感に幾度となく内蔵を掬い上げられ、真幸は泣き喚くしかなかった。

 獲物を逃がすまいと、黒ずくめの少年達は真幸を挟み込むようにして座っている。  

 喚く真幸の背中が、こんと小突かれた。

「うるせーな、ちょっと落ち着けって」

「落ち、落ち着いてられるかよ、なんなんだよ、お前らは! こんな、高いとこ、バイクで、ヘルメットもなんもなしで……!」

「怖くねえだろ、別に」

 何を言わんやとばかりに、兄と思しき方は続ける。

「——もう死んでんだし」

 はっとして、真幸は口を噤んだ。

 それを見計らったように、弟の方——啓が淡々と話を挟む。

「改めて確認するよ。君の氏名は篠原真幸。一週間前、事故で亡くなった。享年十四歳。間違いない?」

 真幸は俯き、唇を噛み締めた。

「……やっぱ、俺」

「そ。今は幽霊みたいなものかな。誰からも存在を認識されてなかった、そうでしょ?」

 おかしいとは——思っていた。

 考えないようにしていたが、やはり自分の置かれた状況は異常だったのだ。

 答えない真幸に啓は肩を竦めて、話を続けた。

「本来なら死んだ人間の魂は、自発的に天界へ逝くはずなんだけど、何らかの不具合でそうならない魂もある。まぁ、今の君だね」

「それをわざわざ迎えに行ってやるのが、俺たち天使なわけ」

「て、天使……」

 黒ずくめで、大型バイクにまたがり、あまつさえ人に拳銃をぶっ放す——おおよそ天使には見えないと表情で訴えたが、この兄弟にはどこ吹く風のようだった。

「自己紹介が遅れたけど、僕は天宮啓(あまみやけい)。天界日本支部所属、加手野(かでの)市担当の第八三位天使。で、そっちは兄の」

「……天宮柴乎(あまみやしばこ)だ」

「しばこ?」

 一瞬だけ、今の不可思議な状況を忘れ、真幸はきょとんと聞き返した。明後日の方を見ていた柴乎は、じろりとこちらを睨み返す。

「あ? なんだその目は。男のくせに変な名前だって言いてーのか。すぐにシバこうとするから柴乎なんですかとか言いてーのか!」

「な、何も言ってな……」

「柴兄、時間ないんだから絡まないで。そうでなくても今日は厄介な配置なのに」

 ハンドルから完全に手を離し、タブレットを操作しながら啓がぼやく。前方不注意どころの話ではない。肝を冷やして抗議しようとした、その時。

「なんだ、あれ……」

 突如、雲の切れ間から現れた建造物に、真幸は呆然とした。

 白い円柱に支えられたアーチ、その下に閉ざされた扉が見える。あの雑居ビルの高さをゆうに超えているであろう巨体が、目の前に迫り来る。

 それを兄弟天使はまるで見飽きたとでも言わんばかりに眺めていた。

「座標確認……やっと着いた。毎日ランダムとはいえ、なんでこんな高度?」

「ま、何でもいいだろ。ぶち込んじまえば、お仕事終了ってな」

 言うが早いか、柴乎はいきなり真幸の首根っこを掴み上げた。何だか嫌な予感がする。真幸は身を捻って、喚いた。

「ぶ、ぶち込むって何する気だ、てめえ!」

「だから言ったじゃねーか、あの扉から迷える魂を天界に送んだよ」

「それって……」

「簡単に言やぁ、ショーテンさせんの」

 昇天。

 つまり、本当に終わるのか。

 そう思い当たった途端、ありとあらゆる感情が真幸の全身を巡る。

「ちょ、ちょっと、待っ——」

「いいから来いって」

 柴乎が身を乗り出すと、更に襟が詰まって声が出なくなった。バイクはお構い無しに馬鹿でかい『門』へと突っ込んでいく。衝突する、と思った直後、待ちきれないとばかりに柴乎がシートから立ち上がった。

 ふわりと体が浮く。

 柴乎が真幸を掴んだまま、ダンクシュートでも決めるかのように、中空へ飛び上がっていた。

「叩け(ノッキン・オン)——」

 門は動かない。ただ、泰然と空に在る。

 何故だろう、脳裏にあの見慣れた顔が映った気がした。

 最後、家を出る直前に投げつけられた、怒りとも悲しみともつかない声と共に。

「あっ……柴兄、待って!」

 それまで静観していた啓が急に声を上げた。大きく振りかぶった柴乎は止まらない。自らも門に体当たりするような勢いで、真幸ごと叩き付けようとし——

『——ぶッッ!』

 両者とも、そのまま——本当に激突した。

 右肩に痛みが走る。しかし真幸はまだマシな方で、柴乎は見事に顔面から突っ込んでいた。そして漫画みたいにずるずると扉をなぞり、為す術もなく落下していく。

「うっ、わぁぁあああ!」

 当然、真幸も運命を共にするしかない。急速に離れていく空へ、必死に手を伸ばす。

 もう、死ぬしかない。死んでいるらしいけど。そう覚悟した瞬間、どすんと受け止められ、落下が止まった。黒い車体が下に回り込んで、収拾してくれたようだった。

「ったく、早まらないでよ、バカ兄」

「バカたぁなんだ、バカたぁ——あぁ……痛たたた」

 俯いて、しきりに鼻がついているかどうか確認している柴乎に、真幸は今度こそ絶叫した。

「な……なんなんだよ、さっきの! つかなんで天使が落ちるんだよ! 飛べよ!」

「羽も生えてねぇのに飛べるか! てめぇこそ、きっちりさっぱり昇天しやがれ!」

 柴乎の反論に、ゆるゆると首を振ったのは啓だった。

「無理なものは無理だよ。残念だけど、門が反応しなかったってことは——」

 その諭すような口調が言い終わらない内に、頭上に暗い影が落ちた。

 三人の上だけではない。一帯を覆い尽くした影は、まるで夜が訪れたかのような静けさをもたらした。

 寒気を覚え、ぞくりと背が震える。訳の分からぬまま頭上を仰ごうとした真幸の目の前で、突如、細い銀光が閃いた。

「ちっ、お出ましか……」

 気がつくと、柴乎の手には二振の日本刀が握られていた。半ばバイクから身を乗り出して、空を睨み上げるその瞳には——黒々とした飛行物体が映っていた。

 天使に出会った時も、天国への門を見た時も——いずれも上回る衝撃が真幸の頭を殴りつける。

 小型飛行機ほどはあろうかという蝙蝠が、我が物顔で空中を徘徊していた。大きな羽が暗幕のように、陽という陽を遮っている。巨躯に似合わぬ小さな顔、その口端から時折、鋭い牙がちらちらと覗いた。

「ば、ば、化け物……!?」

「違ぇよ」

 苦々しい口調で柴乎が答える。

「——悪魔だ」

 赤く輝く瞳が真幸を捉え、凶暴な光を帯びる。

 その圧力に当てられ、全身から血の気が失せていった。

「お、俺を、見てる……?」

 次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような咆哮が響く。

 黒い巨躯が疾風のような速さで肉薄した。鋭い鉤爪が真幸の眼前に迫る。ぎぃん、と鈍い音がしたかと思うと、交差した二刀がすんでのところでその攻撃を受け止めていた。

「——啓ッ!」

 柴乎の呼びかけに応じ、エンジンが一際大きな唸りを上げる。

「掴まって!」

 見ると、啓が思いきりアクセルを握り込んでいた。真幸は無我夢中でその背にしがみつく。

 体が置き去りにされるのではないかと思うほどの速度で、バイクが急発進した。反動でのけぞった真幸の視界に、旋回する悪魔が逆さまに映る。

「柴兄、運転代わって!」

「は!? いや、無理だっつの! 第一、俺が運転したら落ちんぞ!?」

「だから、満遍なく天界道具の練度上げとけって言ってんだよ、この剣バカ」

「兄に向かってバカバカ言うな! えーと、あれだ……ぶつぞ!」

「ほーら、そうやってすぐ手が出る。図星だからでしょ、口じゃ勝てないからでしょ」

「てんめえええ……さっきから言わせておけばああぁ……!」

「——もうどうでもいいから、どうにかしてくれよ!」

 あらん限りの声を振り絞り、真幸は絶叫する。柴乎と啓は剣呑な視線を交わした後、互いにふん、と鼻息をついた。

「知らねーかんな」

 爆走するバイクの上で、兄弟はひらりと位置を入れ替わる。そして柴乎がアクセルのグリップを握った瞬間、がくんとバイクの速度が落ちた。

「え?」

 真幸は思わず口端を引きつらせた。緩やかな落下が始まる。それどころかバイクはその形状を変えていた。

「な、な……なんで、突然、原付になるんだよぉぉおお!」

「だから俺が知るかーっ!」

 重力が真幸と柴乎の悲鳴を吸い込んでいく。

 一方、こちらに背を向け、悪魔と対峙する啓の拳銃にもまた、変化が起きていた。

「天界武器<流転(るてん)>、狙撃形態(スナイパーモード)」

 先ほど不良らを撃った時には回転式拳銃(リボルバー)だったものが、一丁だけライフル銃に姿を変えている。恐怖の垂直落下を意にも介さず、啓は眼鏡の奥から追ってくる敵を見据えていた。

 そして、

「——くたばれ、悪魔」

 啓が引き金を絞ると同時に、蝙蝠の鈍い悲鳴が響いた。広げた羽の付け根を、銃弾が見事貫いている。

 悪魔は飛行体勢を維持できず、真幸らの頭上から離脱していく。

 硝煙を見送っていた啓が、ちっと舌打ちした。

「ドタマ、ぶち抜いてやろうと思ったのに……」

「そんなことより啓クン早く運転してお兄ちゃんのお願いぃぃぃッ」

「はいはい」

 不意に、全身の力が抜けるのを感じた。ぐんぐんと近づいてくるアスファルトの地面が、徐々にフェードアウトしていく。

 ——瞬間、真幸の意識はぷっつりと途絶えた。





 暗い暗い夜の国道沿いを、真幸は一人歩いていた。

 どこかでチャリを盗めば良かったと後悔しながら、とぼとぼと歩を進める。背後から目映いライトが追ってきたかと思うと、車が猛スピードで一台、また一台と真幸を追い抜いていく。その度に、いつの間にか胸に空いていた穴を隙間風がすり抜けていくような、そんな感覚がした。

 しばらくすると、街の東に流れる一級河川に差し掛かった。国道はゆるやかに湾曲して橋になっている。頭上には曇った夜空が広がり、目の前には影絵のように息を潜める街が並び、そして眼下では川面がどろどろとたゆたっている。ふと手の甲を見やると、乾いた血がかすかにこびりついていた。——今日、初めて無抵抗の人間を殴った。リーダーの命令だ。やらねば群れを追い出される、仕方なかった。

 丸一日、家に帰っていない。そろそろまずいと思いつつも、薄暗い団地の玄関に立つ自分を想像するだけで気が塞ぐ。湿っぽい匂いに、狭い部屋、そしてどこで何をしていたと居丈高に迫る母親が——一人。

 怒鳴り散らすのは、仕事のストレスをぶつけたいだけだ。真幸が帰ってくるなり、生活態度への口出しはいつものこと、最後、家を出る直前まで「いってきます、ぐらい言いなさい!」ときたもんだ。働いてばかりで、昔からほとんどいなかったくせに、家にいる時だけ母親面されても反感しか抱かない。

 自分がいる場所は結局、この汚い川の底みたいなものだ。

 今までも、これからも。

 ならいっそ突き落としてほしい、と思う。

 何者にもなれないなら、どこにも行けないなら、いっそ——

 と、橋も半ばに差し掛かった時だった。

 ばぁん、と爆発のような音が耳をつんざき、真幸はその場に立ち竦んだ。

 瞬間、目を開けていられないほどの光が、瞼を貫いて網膜を灼く。

 大きな影がぐらりと揺れた。反対車線を走っていたはずの大型トラックが、なぜかこちらを向いている。左のフロントライトは大破していて、ガードレールの破片が痛々しく突き刺さっている。

 片眼の怪物は、ゆっくりと真幸を飲み込んでいく。

 静かに、確かに、どうしようもない現実として——



 ——あ、と短い声が漏れた。



 それすらも飲み込んで、何かが潰れていく音が全身に響き渡った。









「っ……!」

 見開いた視界に、外灯の光が飛び込んできた。背中に固い木の感触が当たっている。真幸はいつのまにか公園のベンチに横たわっていた。

 仰ぐ夜空に、星は見当たらない。周囲に立ち並ぶ公営団地の一軒一軒から照明が漏れて、星の小さな光をかき消している。

 間違いない、ここは近所の『三角公園』——見慣れた日常の風景だ。

 夢だったのか、と真幸はほっと一息ついた。

 どうやらいつもの家出の最中らしい。野宿したはいいが寝心地が悪く、悪夢にうなされていた、とそんなところだろう。

 トラックに轢かれる場面はさすがに背筋が凍った。

 けど、幽霊になった自分を黒ずくめの天使が迎えに来るなんて。

 その内容があまりにも突飛すぎて、真幸は小さく苦笑した。

「馬鹿馬鹿しかったなぁ。天使だの、悪魔だの……」

「——だからバカバカ言うなっつの」

 霞んだ星空を遮るように、見覚えのある顔がぬっと現れる。

 真幸は目を瞬かせた後、バネのように飛び起きた。

「おっ、おおおお、おまえは柴乎……すぐシバこうとする柴乎、いだっ!」

「俺の名前をイジんな、殴るぞコラ!」

「柴兄、もう殴ってるから」

 ヤンキー座りでガンを飛ばしてくる兄と、冷めた表情で肩を竦める弟——自称天使の天宮兄弟がそこにいた。かなしいかな、脳天の痛みは本物だ。真幸は一連の出来事が悪夢でないことを思い知る。

 本格的に頭痛がしてくる。真幸は額に手をあて、俯いた。

「何なんだよ、お前ら……。もう放っておいてくれよ」

 柴乎が「けっ」と悪態をつく。

「いいぜ、別に。ただし天国に逝けなくても悪魔に食われても、知らねーぞ俺は」

「そんなわけにいかないでしょうが。一応、これでも天使なんだし」

 天使とか悪魔とか、そんな世迷い言は聞きたくない。真幸は殻に閉じこもるようにして、膝の間に顔を埋める。すると啓にせっつかれたらしい柴乎が一つ嘆息して、こちらを覗き込んできた。

「ったく、めんどくせぇな。……ほら、聞いてやるから話せよ」

「話すって、何をだよ」

「お前、なんか心残りがあんだろ」

 真幸は要領を得ず、眉をしかめる。

 兄の言葉足らずを補うように、啓が話を引き継いだ。

「さっき『門』が開かなかったでしょ。現世に強烈な未練を残した魂は、天界へ逝けないんだよ。君が自然に昇天できなかったのも、多分そのせい」

「めんどくせーけど、その未練を断ち切ってやるのも天使の仕事なの」

 そう言われて、ふと浮かんだ顔を真幸はすぐさま打ち消した。どうしてあのババアが出てくるんだ。湧き上がる苛立ちをぶつけるように言い返す。

「んなもん、ねえよ」

「ないわけないよ。本人が自覚してない場合もあるけど、よく考えてみれば絶対思い当たるから」

「るせえな、ねぇもんはねぇんだよ」

 むっとして一歩進み出ようとした啓を、柴乎が片手で制する。そして代わりに真幸の前に立つと、彼に似合わない思慮深げな眼差しを向けてきた。

「死ぬ気で思い出せ。でないと、お前——ちゃんと死ねないぞ?」

 ——死ぬ。

 その言葉がまるで冷えた鉛のように、ずしりと胸の底に沈む。

 脳裏に浮かぶのは、先ほどの悪夢だった。

 あの圧倒的な鉄の塊に押し潰されたのは、紛れもなく真幸自身だった。今、ここにいるのは篠原真幸という人間の——残り滓にすぎない。

 ならば、その未練とやらがなくなり、天使に導かれるまま『門』をくぐれば——

 急に、つま先から冷水が染みこんでくるような感覚に襲われる。体が凍り付いて、このままではやがて動けなくなる。

 そう危惧を抱いた瞬間、真幸は天使兄弟に向かって叫び散らしていた。

「知ったことかよ! もう俺に構うな!」

 そうして真幸は脱兎のごとく駆け出した。

 三角公園を抜け、団地の敷地に入る。角を曲がったところで、無造作に駐めてあった子供用の自転車に危うく突っ込みそうになる。軽い衝撃を受け、後輪ががしゃっと音を立てて回った。幽霊なのに物には触れられるらしい、これを誰かが見ていたらポルターガイストってやつになるんだろうか——そう考えている自分に自分で驚く。

 真幸は奥歯を噛みしめ、団地の階段を駆け上がっていった。







 三号棟、四○五号室——表札には手書きの紙に『篠原』と書いてある。入り口の鉄製扉はペンキを何度も塗り重ねたせいか、失敗した油絵のような野暮ったい白色をしていた。

 情けない話だ、と真幸はため息をついた。

 結局、ここに帰ってくるしかないのだから。

 自分という存在が突然、誰からも認識されなくなった。そんなこと認められなかったし、信じられなかった。だから日中はいつも通り不良仲間とつるんでいた。仲間の輪に入っていれば、普段と変わらない生活をしているように感じられた。

 そう。たとえ存在が認められなくとも、普段と変わらなかった。

 分かっていた。あいつらにとっって、自分はいてもいなくても構わない存在なのだと。それでも他に行くあてのない真幸はあそこにいるしかなかったのだ。

 それは、この家もきっと同じだ。

 いくら居心地が悪くても、真幸には他に帰るあてがない。この一週間はずっと、日没と共に家に帰っていた。幽霊になってからの方が真面目なんてな、と自嘲しつつ。

 いつも通り、普通に鍵を開けて入ろうとした矢先だった。

 とんとんと階段を上る足音が背後から聞こえてくる。

 一人ではなく、複数だ。思わず身構えるがしかし、やってきたのは女性の二人連れだった。

「篠原さん、もう平気なの? 何にもできないけど、アタシにできることがあったら言ってよぉ」

 妙に間延びしていて、押しつけがましい話し方には聞き覚えがあった。上の階に住む中年の主婦だ。

「ありがとうございます。でも私、大丈夫だから」

 そしてその隣には、パンツスーツ姿の女がいた。

 真幸は目の端で女を睨み付ける。十四の息子がいる割には若い。実際、歳は三十二だ。なのにメイクもそこそこで、肌にも髪にも艶がなく、四十にも五十にも見えた。

「ほんとにぃ? 無理してない?」

「ほんとほんと」

 仕事帰りに近所のスーパーへ寄った際に捕まったのだろう、腕にはビニール袋をぶら下げている。母はわざわざ片手を掲げ、ぶんぶんと振ってみせた。

「自分でも驚くぐらい元気なの、不思議でしょ、あはは」

 その声の朗らかさ、屈託のなさといったら。無理をしているだの、悲しみに心が追いついていないだの、そんな疑いの余地もないほどに明るい。

 思わず面食らっている中年主婦と、そして人知れず唇を噛みしめている真幸を置き去りに、母は軽い足取りで家へと入っていった。

 中年主婦は扉が閉まるのを念入りに確認してから、ぽつりと呟いた。

「実の息子が死んだってのに。……てことは、やっぱりあの噂、本当なのかしらね」

 そしていいネタを見つけたとばかりに、彼女もまた足を弾ませて階段を上っていった。

 分かってはいたが、唾を吐きかけたくなるような光景だ。真幸は苦々しい思いを抱えつつも、結局は自宅の扉をくぐった。この一週間、どんな時間に帰ってきても、母に見つからない事だけはありがたかった。

 しかし、玄関を一歩入ったところで行く手を遮られた。十分時間を空けたつもりだったが、まだ母親がいたのか。

 と思いきや、

「——よっ、不良もどき」

 軽く手を挙げたのは、黒いロングコートの少年だった。

 見覚えがある——ありすぎて困るその立ち姿に、真幸は思わず後じさった。

「しっ……柴乎!?」

「おう」

 まるで遊びに来た級友のごとく応じつつ、柴乎はぽいぽいと靴を脱ぎ散らかした。呆気に取られていたのも束の間、真幸は彼に食ってかかった。

「だからしつけえんだよ。ついてくんなっ!」

「おめーが逃げなきゃ、な!」

 そう怒鳴り返しながら、柴乎は家の中を見回した。入ってすぐに台所があり、奥にはリビングと和室——ここからでもその全貌が分かるほど狭い家だった。

「ふぅん、ここがお前の家ね」

 柴乎は遠慮なく中へ入っていく。真幸は焦った歩調で彼を追いかけた。

「何、勝手に入ってきてんだ、出てけ」

「別にいいだろ、生きてる人間には気付かれねーし」

「お前、あいつらには見られてたろ!?」

「あいつら? あぁ、あの不良どもか。あれはちょっと灸を据えてやろうとだな」

「はぁ!?」

 問答をしている間に、柴乎はリビングに足を踏み入れた。

 母はテレビの前に座り、スーパーの半額弁当を食べていた。バラエティ番組の光にその横顔が白く明滅する。スタジオがどっと盛り上がると、母もくすくすと小さく笑っていた。

 そこには至って日常的な光景が広がっている。息子を失った母親にはとても見えなかった。

 その光景を見て軽く目を瞬かせている柴乎に、真幸は舌打ちした。

「……それよりお前、こっちこい」

 真幸は問答無用で柴乎を和室に引きずり込んだ。母には見えていないらしいが、それでも気が気じゃなかった。

 壁を手で探り、照明を点ける。四畳ほどの部屋はリビングに輪をかけて狭苦しい。すり切れた畳や染みのついた壁から、湿っぽいカビの匂いが漂っている。

 ここは生前、真幸の自室だった。母が知り合いから貰い受けた学習机を始め、カラーボックスに詰め込まれた漫画本も、近所のサッカーチームに所属していた時のユニフォームやボールも、最後に脱ぎ散らかしたとおぼしき靴下まで、真幸の持ち物一通りがそのまま残っていた。

 柴乎が「痛ってえな、離せ」と真幸の手を力尽くで振りほどく。この乱暴な天使が騒ぎ出す前にと、後ろ手に襖を閉めた。直前、リビングから視線が送られたように感じ、ぎくりと背筋をこわばらせる。恐る恐る肩越しに振り返ると、母は何事もなかったようにテレビに視線を送っていた。

「分かりっこねえって。生きてるヤツとは見てる世界が違うんだよ」

「は?」

「襖閉めようが、窓開けようが、生きてる人間には最初から『閉まってた』って認識される……らしいぞ」

 どうやらこの天使は泥棒よろしく窓から侵入したらしい。

 要は——『なかったことになる』というわけか。それがポルターガイストにならない理由のようだ。

「……どうせ弟の受け売りなんだろ。そういやアイツはどうしたんだよ」

「啓なら、外で見張ってる。お前がまた逃げ出さねーようにな」

「あっそう」

 人知を越える天使との鬼ごっこは、どうにも分が悪いようだ。真幸は深いため息をつき、降参だと言わんばかりに畳の上へ腰を下ろした。

 柴乎もまた勝手知ったる風に胡座をかき、ふと襖の向こうを透かすように見やった。

「——母ちゃん、心配じゃねえの」

「そんな風に見えるかよ」

 真幸は大仰に肩を竦めて見せた。

「向こうだって、俺が死んで万々歳ってとこだろうしな」

「は? なんで……」

 怪訝そうに眉をひそめた柴乎に、真幸は口を開きかけて——やめる。

 ちょうど襖の向こうから、携帯電話の呼び出し音が響いてきたからだった。

 テレビを消音した後、母が応対する。

「もしもし。……悟さん。えぇ、私は大丈夫ですから。はい、はい——」

 なんとなく、二人して息を潜める。通話は手短に終わり、ほどなくしてバラエティ番組が再開された。

 問いただすように送られてくる柴乎の視線に、真幸は仕方なく答える。

「……男がいんだよ」

 真幸は先ほどの上階に住む主婦の一言を思い出した。

 どこから仕入れたかは知らないが、主婦が言っていた『噂』とはこれのことだ。

 新しい男がいる。再婚したいが、不良の息子がいてままならない。

 その息子が不慮の事故で死んでくれたとあれば、すべてがうまくいく。

「オレだって清々してる。だからあのババァが心残りなんてことは、ありえねぇ」

 吐き捨てるように言い放ち、真幸はそれきり黙り込んだ。

 静かな——静かすぎる夜に、少しの水を差すテレビの音だけが響く。

 真幸はふと自分の指先を見つめた。動かせば曲がる。畳を触れば感触がある。呼吸もできれば、喋ることだってできる。

 それなのに——

「……なぁ、どうして俺なんだよ」

「は?」

 出し抜けに問われた柴乎が首を捻る。真幸は構わず続けた。

「夜中に歩いてたらトラックが突っ込んできました、はいおしまい……なんて。そんなの納得できるかよ。俺、まだ中二なんだぞ、まだ、なのに……」

 口走ったが最後、感情が収まらない。

「なんで、俺だけ死ななきゃなんねーんだよ……!」

 悪いことをしたのは認める。下級生に金をタカったり、ゲーセンで喧嘩したり——だが真幸と同じ、いやそれ以上のことをしていた不良仲間はああしてぴんぴんしている。それどころか世の中には人を殺しても、自分は死を免れる罪人もいるというのに。

 柴乎は体の後ろで手をつくと、ふんぞり返って言い放った。

「理由なんかあるかよ。死んだら終わり、そんだけだ」

 あまりにも簡潔に片付けられ、真幸はかっと頭に血を上らせた。

「他人事だと思いやがって!」

 だが叫んだ直後、頭の片隅にある冷静な部分が密かに納得する。

 そうだ、こいつは他人で——しかも『天使』だ。

 こうやって、ごねる『魂』を数え切れないほど見てきたに違いない。

 歯噛みする真幸をじっと見ていた柴乎は、やがてふいっと顔を背けた。

「……他人事じゃねーよ」

「え?」

 顔を上げると、真幸がそうしていたように、柴乎もしげしげと自分の体を眺め始めた。

「俺らも元々、死んだ人間だからな」

「そ、そうなのか……?」

 無言で頷き返す柴乎に、真幸は我知らず前のめりになった。

「お前は……どうして死んだんだ?」

「——覚えてない」

 真幸はますます目を見開いた。言外に続きを要求していると、柴乎は根負けしたように「あーもう」と唸って、後ろ頭をわしゃわしゃと掻き乱した。

「何せ、俺らが死んだのはちっせえ時だったからな。天界はそういう子供の『魂』を天使としてスカウトしてるんだよ」

「小さいって……何歳の時だよ」

「さぁな。三、四歳ってところじゃねーの」

「親は……?」

「いたような気はするけど、俺も啓もはっきり思い出せない」

「じゃ、じゃあどこに住んでたんだよ。この近くか」

「だから、小せぇガキが覚えてるかっての。分かるのは、俺と啓が兄弟だってことと、同じ日に死んだってことぐらいだ」

 真幸は唖然とした。

 確かに大した悪事も働いていないのに、命を奪われるのは理不尽だ。

 けれど世の中にはもっと理不尽な死がたくさんある。

 物心つく前の子供が死ぬことだって、それこそ生まれたばかりの赤ん坊が死ぬことだってある。

「……気がついたら啓と二人、雲の上にいた。わんわん泣く啓の手を引いて、訳分かんねーまま天界を彷徨ってたら、天使にならないかって誘われたんだ」

 もちろん、子供に罪はない。その死には理由もない。

 さらに、彼らには——

「そういう空っぽな『魂』が天使に向いてるんだと」

 生きた証が、ない。

「そんなの……」

 握った拳に力が入り、肩が小刻みに震える。分かっている、いや、今ようやく分かった。この世は、真幸が思う以上に無慈悲なのだと。

 しかしそんな理不尽を、柴乎はあっけらかんと笑い飛ばした。

「別にいーんだよ。ま、仕事がキツい割に、給料はケチいけど」

「んだよそれ……つか、天使って給料制なのかよ」

「おう。しかも少ない中からコツコツ貯金してんだぜ」

 誇らしげに胸を反らす柴乎に、真幸はぎこちなく苦笑した。

「欲しいもんでもあるのかよ」

 家とか、車とか? そんな軽口は、柴乎の真剣な口調に封じられた。

「——生き返らせてもらう」

 一瞬の沈黙が訪れる。

 真幸は目を丸くして、黙り込んだ。

 生き返る——そんなことが可能だというのか。

「天使の特権なんだと。ま、それにゃ、天文学的な金を積まなきゃなんねーけどな。でも不可能じゃない」

 そこで一息ついたかと思うと、柴乎はおもむろに畳の上へ寝っ転がった。青白い蛍光灯の光を映し出す黒目が、きらりと光って見える。

「俺はどうしても生き返りたい。——生き返らせて、やりたい」

 決意の眼差しが一瞬、カーテンの向こうを見透かす。

「だからそれが俺の目指すべきもの、俺がここにいる理由だ」

 その表情があまりにもまっすぐで、真幸は二の句を継げなかった。

 こちらの様子など意にも介さず、柴乎はあくまでも軽い動作で起き上がった。

「なぁ、お前はどうなんだよ?」

 真幸はまだ口を開けずにいた。

 正面からそう問われると、次第に反発心が芽生え出した。記憶がないからなんだ。こっちは記憶があったって——どこにも行けない、どこにも居場所がないまま、人生が終わってしまった。

 それは——死んでからも、同じことだった。

「……うるせぇ、知るかよ」

 返事を待たず、真幸は電気を消して、そのまま横になった。「あァ?」とチンピラのような威嚇が背中を叩くが、それも気にせず、目を閉じた。












 安物のカーテンは朝日をよく通す。光が瞼の裏にまで侵入して、真幸の意識をしつこく刺激した。外の明るさは増すばかりだ。ついに耐えきれなくなり、渋々目を開けるのが真幸の日常であった。

「う……」

 畳に直で寝ていたせいか、体中が軋む。幽霊のくせに、こんなところだけは妙にリアルで不便だ。

「——おはよう」

 寝ぼけ眼をこすっていると、不意に声をかけられた。驚いて顔を上げれば、天使兄弟の弟・天宮啓が眼鏡の奥から真幸を見下ろしていた。

「急に声かけんなよ……。って、あれ? 確か昨日の夜、ここにいたのって」

「あぁ、柴兄とは夜中に交代したよ。今頃、まだ<戴天>の上で寝てると思う」

「たいてん?」

「バイクの名前」

「あ、そ……」

 よく似た顔立ちをした弟と向かい合っているせいか、ふと昨夜の柴乎の話が脳裏をよぎった。

 背筋を軽く伸ばしながら、真幸は何の気もない風に啓へ尋ねる。

「なぁ、天使は死んでも生き返れるってマジかよ」

「もしかして柴兄に聞いたの? 珍しいな、そんなことまで話すなんて……」

 怪訝そうに眉根を寄せる啓を見て、そうなのか、と思う。

「確かに、僕らの目標だけどね。でもまともに『生き返る』ことを目指してる天使なんていないから、公言してる僕らは変わり者扱いだよ。歳だって取るし」

「他の天使は歳取らねえのか」

「そ。『生き返る』権利を放棄すれば、体はその時点の年齢のままでいられる。放棄しなければ万が一『生き返った』時に精神と肉体の間で齟齬を生まないために、歳を重ねる。僕らも天使になったばかりの頃は小さかったけど、順調に成長してるしね」

「あぁ、そういや、柴乎がビービー泣くお前の手を引いてたとか……」

 瞬間、眼鏡の端がぎらりと光る。真幸は自分が完全に口を滑らせたことを知った。

「——は? 何それ? そんなわけないし。泣いてないし」

「ま、まぁ、とにかく。そうまでして、お前は生き返りたいんだろ」

 昨夜の兄のように、はっきりとした返事がくるかと思いきや、啓は考え巡らせるように俯いた。

「僕自身はどうかな……天使になった時も、あんまりよく覚えてないし。でもまぁ、柴兄がやるって言うんなら、やるまでだ」

「そ、そんなんでいいのかよ」

「他に何かある?」

 小首を傾げて尋ねてくる啓に、真幸は思わず言葉を失う。

 一見、滅茶苦茶に見えるこの兄弟は、互いが互いのために目標へ邁進している。

 叶うかどうかも分からない願いのために。

 真幸の動揺を悟ったように、啓は口元に微笑を浮かべた。

「記憶が曖昧なのはある意味便利だよ。余計なものが少ないからね」

「んだよ、それ……」

 考えるのが嫌になって投げやりな相づちを打っていると、リビングから香しい匂いが漂ってきた。母が朝食を作っているらしい。

 おかしい、いつもなら出勤している時間帯だ——と思ったが、カレンダーを見てすぐ今日は休日だったかと合点がいった。

 じゅうじゅうと目玉焼きが焼かれ、トースターが小気味のいい音を立てる。それに混じって、母の軽やかな鼻歌が聞こえてきた。

「柴兄から聞いてたけど、確かに——」

 と、そこで啓は口ごもった。兄とは違い、一定の気遣いはできるらしい。だがそれがうっとうしく思う人間もいる。真幸はのそのそと起き上がり、和室から出た。

 ローテーブルにはすでに朝食が並んでいた。バターをたっぷり塗ったトーストに半熟の目玉焼き、瑞々しいレタスとトマトのサラダ——真幸自身、幾度となく食べた定番メニューだ。

 思わず、ぐうっと腹を鳴らす。

 すると、母が不意に苦笑を漏らした。

 どきりとするがしかし、母は何事もなかったかのように食卓へついた。

「いただきます」

 偶然、タイミングが合っただけらしい。ほっと胸を撫で下ろす真幸に、横から声がかかる。

「ねえ、君のお母さんだけど——」

 啓が言い終わる前に、玄関のインターホンが鳴った。

 食事を中断した母は、受話器を取った。

「はい——えっ……あぁ、その、はい……玄関先、でなら——」

 最初こそ愛想良く応答したものの、急に眉を曇らせる。受話器を置いた母は浮かない顔で玄関に向かった。

「なんだろう」

 啓の呟きに聞こえない振りをしつつも、真幸は横目で玄関を探った。何せ狭い家だ、ここからでも十分見える。

「お待たせしました……」

 母が扉を開けると、そこには見覚えのある男が立っていた。

 休みだというのに、かっちりしたジャケットにスラックスといった出で立ちをしている。濃くはっきりした眉や、筋の通った鼻、フレームレスの眼鏡の奥にある理知的な光——どれをとっても、真面目で律儀な好青年という印象を受ける。

 そしてそのどれもが——真幸は気に入らなかった。

「悟さん……」

「おはよう、幸子さん。突然、すみません」

 悟と名乗った男は深々と頭を下げた。

「お葬式……以来ですね。体調はどうですか」

「あの、昨日も言いましたけど、私は大丈夫なので」

 真幸は怪訝に思った。母は終始、男と顔を合わさなかった。口調も沈んでおり、むしろ早く帰って欲しいと言外に訴えている。

 拒絶の意思を感じ取ったのか、男は急くように持っていた紙袋を差し出した。

「あ、そうだ、もし良かったらこれ。レトルトとか缶詰とか、簡単に食べられそうなものを見繕ってきました」

「そんな、困ります」

「気にしないでください、弊社商品のサンプルなので。今は……その、料理する余裕もないかと思いますし、そんな時は」

「もう、結構です……!」

 突然、強い語気で押し切られ、男が口を噤む。

 母は彼をきっと睨み付け、言葉を続けた。

「私、言いましたよね。あなたとは一緒になれませんって。それを……それを、真幸がいなくなったからって……。もう、放っておいていただけませんか」

 男はしばらく足下を見て、黙り込んでいた。

 しかし少しすると、毅然と顔を上げ、母にこう言った。

「迷惑と感じられているなら、申し訳なく思います。けど、それでも……今のあなたを放っておくことはできません」

 その真っ直ぐな視線に、母はもとより、当事者ではない真幸ですらたじろぐ。

「真幸くんのことは……残念です。お母さんに似て、とてもいい子だったから」

「何、言ってるんですか。一度しか会ったことないのに」

「いえ、間違いなくいい子です。だって普通、母親の恋人との食事会なんて、出たがらないでしょう。でもあなたが誘ったら、真幸くんは来てくれた。だから僕は彼とも家族になりたいと思っていた……。結局、その席は僕が壊してしまいましたが」

 真幸の胸に苦々しい記憶が去来する。

 あれは半年前だった。例の不良グループに出会う直前だったと思う。

 母に請われ、真幸は渋々ながら彼に会った。その日もきちんとした身なりで、物腰穏やかなこの男を、真幸は反射的に苦手だと思った。真幸は覚えていないが、母に暴力を振るい続けたらしい父とは対極にいる人間なのだろうと思ったし、何より、話すときにまっすぐ見つめてくる視線に慣れなかった。

 途中、母が一時席を外し、二人きりなってしまった。男は学校の様子や勉強の進み具合など、当たり障りのないことを話題にしていたが、やがて思い直したように一口水を煽った。

「真幸くんは偉いな。僕はその頃、そんなに真面目じゃなかった。よくお袋を泣かせてね。今でも申し訳なく思っているよ」

 心の中で興味ねえよと毒づいた。まだちゃんと学校に通っている頃だったが、それを嘲られたような気もしていた。

 すると、男は急に真摯な表情を浮かべ、真幸にこう言った。

「——真幸くん、どうかお母さんを大切にして欲しい」

 瞬間、頭に血が上った。

 その頃、ちょうど母の小言が多くなり、真幸は真幸で反抗心が強くなっていた。この交際相手に、母はいろいろと相談していたに違いない。母へ対する裏切られたという気持ちと、自分の中に流れる血には備わっていない物を持っているこの男への反発心で、頭の中がぐちゃぐちゃになり、気づけば席を蹴るように立ち上がっていた。

「うるせえ、知った風なこと言うんじゃねえよ!」

 男の制止を振り切り、真幸は出口へ向かった。途中、立ち尽くす母とすれ違ったが、そのまま店を出た。そして真幸は生まれて初めて、屋根のないところで夜を明かした。

 ——その真幸がここにいることを知らない男は、言葉少なに告げた。

「長話が過ぎました。今日はこれで失礼します」

 そうして来たときと同じように深々と頭を下げ、玄関から出て行く。

 母はきっと眉をつり上げて、男の背中に何か言おうとしたが——しかし気をなくしたように、俯いてしまった。

「……なんなんだよ」

 真幸は目撃した一部始終を、信じられない気持ちで反芻する。

 邪魔者がいなくなって、晴れてアイツと一緒になるんじゃねえのか。

 ——俺が死んで、万々歳じゃねえのかよ。

 とぼとぼとリビングに戻った母は、すっかり冷めた朝食を前にして、しばらくぼうっとしていた。しかし気を取り直したように、再び箸を動かし始める。

「大丈夫」

 熱いコーヒーを飲み下しながら、母は自分に言い聞かせている。

「大丈夫、私は一人じゃない」

 嘘だ。頼るべき親戚もいない。あの男を遠ざけてしまえば、母はこの世で一人きりだ。そのはずだ——

「そうだよね……」

 母は空のマグカップを置き、小さく微笑みを浮かべる。



「——ね、真幸……」



「え……?」

 ぎくりと肩を強張らせる真幸をよそに、母は椅子から立ち上がるとリビングをやおら見回した。中空を見つめたまま穏やかな笑顔を浮かべ、先ほどの動揺をどこかへ忘れてきたように、またあの明るい様子に戻った。

「さてと、食器洗わなきゃ」

 流しから、水の落ちる音が聞こえてくる。白い蛍光灯に照らされた母の横顔を、真幸は瞬きもせず眺めていた。

「まさか、な……」

 とっさに思い浮かんだ考えに、自分で首を振る。

 そんなバカな、幽霊だぞ。もう死んでんだ。

 誰にも見えなかったのに、母にだけ見えるなんてことがあるものか。

 期待しない。そう、決めたんだ。

「——ちょっと、柴兄呼んでくる」

 一連のやり取りを無言で見守っていた啓が、不意にそう言い出した。

「は? 突然なんだよ」

「まだ、僕だけじゃなんとも。君はここで待ってて」

 啓はリビングの窓を開け、躊躇いもなく窓枠に足をかける。兄弟ともにここを出入り口と勘違いしているらしい。

 四階だぞと言おうとした矢先、啓は振り返って、釘を刺してきた。

「ちなみに、もし逃げたら——分かってるよね」

「逃げねえよ……」

 昨日一日で、その気はとうに失せていた。どのみち行くところもない。

 窓から身を躍らせた啓を見送った後、真幸は台所へ首を巡らせた。

 母は食器洗いを終え、リビングに戻ってきた。二杯目のコーヒーの香りとともに、再びテーブルへつく。そしてテレビの脇に置いてあるカラーボックスに手を伸ばした。

 母がおもむろに開き始めたのは、真幸の小さい頃の写真が入ったアルバムだった。

 青地に電車や車のイラストが描かれた固い表紙に見覚えがある。手持ち無沙汰になった真幸は、なんとはなしに母の後ろからアルバムを覗き込んだ。

 生まれたばかりの赤ん坊の頃から中学校入学に至るまで、様々な年代の写真が丁寧に仕舞い込まれていた。

「あんたってほんと夜泣きがひどくてね。抱っこしてようやく寝かしつけても、布団に置いたらすぐ起きて、泣き出すの。母ちゃん、眠たくて眠たくてたまらなかったわ」

 泣きはらした赤子を指でなぞる母は、至極穏やかな表情を浮かべている。真幸が何度目かの違和感を覚えたのも束の間、母は「あっ」と声を上げた。

「ほら見て、これ……母の日のカーネーションだ。懐かしー」

 ページの間に挟まっていたのは、折り紙で出来た赤い花だった。確か保育園のイベントで作らされたのだったか。折り目が合わず、途中で放り出しそうになったのを思い出していると、母が堪えきれないと言わんばかりに笑い出した。

「あはは、ぐちゃぐちゃ。あんたって昔からぶきっちょだったもんねぇ」

「……うるせえよ」

 とっさに言い返すや否や、母はぴくりと顔を上げ、真剣な表情で再び部屋を見回し始めた。そして、

「声——」

 真幸が何も言えないでいると、母は一人立ち上がる。

「ちょっとだけど、声、聞こえた……。やっぱりいるんだね、真幸」

 冷たいものが、背筋を伝う。

「帰ってきてるんだよね、ねえ、真幸……!」

 ——嘘、だろ。

 声が出そうになるのを思わず堪える。

 偶然などではない。

 母は明らかに真幸の声に——存在に、反応している。

「——こりゃ、ヤバいな」

 はっとして振り返ると、天使兄弟の兄・天宮柴乎が立っていた。

 その後ろにいた啓も、母の様子を見て同調する。

「うん。もう相当、引きずられてる」

「は……?」

「真幸クン、とりあえずこっち」

 例のごとく柴乎に首根っこを掴まれ、真幸は和室に連行された。

 昨夜同様、柴乎は我が物顔でどっかと座ると、寝癖だらけの髪を乱暴にかき回す。

「ここなら、まだ声も届かねーだろ」

「な、なんのことだよ」

「しらばっくれんな、分かってんだろ? 魂だけのお前が、なぜか母ちゃんにだけ認識されつつあるって」

 思わず言葉に詰まる。後から追いかけてきた啓が話を継いだ。

「関係が深い魂は引き合うんだ。魂が近くにいればいるほど、ね。もしかして君、死んでからずっと、この家に帰ってきてたんじゃない?」

「だったら、なんだよ……」

 眼鏡の奥の瞳が、すっと眇められる。

「つまり、君のお母さんは君の魂に引きずられて——自分も『死』に近づいている」

 どきり、と——

 もう脈打つはずのない心臓が跳ねた。

「死に……近づく? 俺がこの家にいるだけで? ハッ、何だよそれ——」

「マジな話だよ。誰だって、死んだヤツが傍にいるなら、もっと近づきたいって思うだろ。声が聞きたい、話がしたい、顔が見たい——一緒にいたい、ってな具合にな」

「じ、自殺するってのか」

「そうとは限らないよ。事故に遭うかもしれないし、病気に罹るかもしれない……でも、どのみち『死』を引き寄せてしまうことに変わりはない」

 全身から力が抜けていく。

 様々な感情が渦巻いて、胸の内が濁っていく。

 その汚泥の中でもがき苦しむばかりで、何もできない。

 いつもそうだった。

 自分の居場所が分からなくて、ここにいていいのかも分からなくて、どこに行っていいのか見当もつかなくて——

 最後には、必ずここに帰ってきてしまう。

 けれどやはり自分は、母の傍にいてはいけないらしい。

「オレは……」

 呆然と呟くが、その先が続かない。

「オレ、は——」

 重苦しい沈黙に押し潰されそうになったその時、リビングからか細い声が漏れ聞こえた。

「……アンタは、昔っから、元気が良かったよねえ——」

 途切れ途切れの言葉は僅かに震えていた。どうやら母はアルバムの続きを見ているようだった。

「学校から……帰ってきたらすぐ『いってきます』って、飛び出して……行っちゃってさ……。私の『いってらっしゃい』も聞かずに、さ……。そのうちに、母ちゃん、仕事ばっかりで……あんたも全然家にいなくて、ずーっとすれ違って」

 ぐすぐす、と母はしゃくり上げている。真幸は棒立ちになったまま、襖を眺めることしかできない。

「ねえ、真幸……母ちゃん、おかしくなっちゃったのかな——でもね、分かるんだよ、アンタがここにいるって、分かるの。帰ってきたら真幸がいる。ずっと真幸と一緒にいられる。だから、母ちゃん、今が一番幸せなの」

 涙に曇った声で、母はか細く呟いた。



「真幸、ごめんね。こんな母ちゃんで、ごめんね……」



 途端に、ぱっと道が開けたような気がした。

 胸の中の雲が晴れ、長い光の筋が差す。

 今の真幸は幽霊だ。

 けれど、確かに今、ここに立っている感触が足裏から伝わってくる。

 誰にも見えない、聞こえない自分を——感じてくれる存在がいるから。

「そうだ、オレ……」

 いつも喧嘩をしては、飛び出すように家を出て行った。

 真幸が古いドアを乱暴に閉めると、その音が部屋中に響き渡る。

 やがてその余韻も消え、母は薄暗い団地の一室に取り残されていた。

 いつ帰るとも分からない、真幸の帰りを——きっとずっと、待っていた。

「ただいま、って言ってない」

 目頭が熱くなるのをこらえ、真幸は天使兄弟を振り返る。



「ちゃんと……『いってきます』って言ってないんだ……」



 ついに零れ落ちた涙を袖で拭う。真幸はぐっと顔を上げ、兄弟に尋ねた。

「お前ら、人に見えるようにもなれるんだろ?」

「おう、まぁな」

「——じゃあ、頼みがある」

 黒ずくめの兄弟は視線を交わし合い、即座に頷いた。





 天使らに頼み込んで外出していた真幸が再び自宅に帰ってくる頃には、春とはいえそれほど長くない日が西の空に傾こうとしていた。

 よくよく考えれば『その日』はとっくに過ぎていた。シーズン物は店頭から消えるのも早いらしく、やっとお目当ての物を見つけた時には、こんな時間になっていた。

 カーテンから差し込む光が、狭い部屋をセピア色に染めている。きつい西日を受けながら、母はアルバムの上で突っ伏していた。眠る表情はまるで泣き疲れた子供のようだ。

 部屋の中に母子以外の影はない。真幸は静かに呼びかけた。

「——母ちゃん」

 自分の口から出たとは信じがたいほど、素直な響きだった。

「母ちゃん、ただいま」

 今度はもっと強く呼びかけると、母の瞼がぴくりと引きつった。その目尻に寄ったしわが母の深い悲しみを物語る。

 やがて開いた瞳は——夕日の中の真幸を見つけるなり、はっきりと動揺した。

「ま、さき……」

 分かる。

 母の視界には、今、しっかり自分が映っているのだと。

「真幸……真幸! 本当に真幸なの!?」

 テーブルを蹴倒す勢いで立ち上がる母に、真幸は何度も頷いてみせた。

「母ちゃん、ごめん。いっぱい心配かけて、苦労かけて、あげくの果てに母ちゃんより先に死んじまって……これ以上ない親不孝なことした。本当に、ごめん」

 真幸は不思議な感覚にとらわれていた。今まで何がつかえていたのだろうと訝るほど、すらすらと言葉が出てくる。

 ずっと避けていた母の目を、真っ直ぐ見つめることができる。

 叱られても、罵られても、今なら受け入れられる。それだけのことをしてしまった。

 しかし、母は激しく首を振った。

「いいの、いいんだよ、真幸。だって帰ってきてくれた。ずっと傍にいてくれたじゃない。母ちゃん、それでいいの……他に何もいらないんだよ……」

 真幸は久しぶりに母の素顔を見た気がした。仕事でも、家庭でも、鉄仮面を被って強くあらねばならなかった母の、何一つ取り繕うことない姿を。

 不意に後悔の念が胸をよぎる。

 もし、もっと早く、こうして互いが正面から向き合っていれば。

 しかし、真幸は小さく首を振る。母に自分の姿が見えているということは、もはや一刻の猶予もないのだと分かっていた。

 それに——もう、とっくに決めたことだ。

「母ちゃん、でもオレ、もう行かなきゃ」

「え……?」

 華やいでいた母の表情がさっと強ばる。心苦しいのをひた隠し、真幸は努めて冷静に続けた。

「オレは死んじゃったから。だからもう、ここにはいられないんだ」

「なん、で……? 嫌、嫌だよ、せっかくこれからずっと一緒にいられるのに……!」

 母は引き留めるように手を伸ばす。

「幽霊だって、なんだっていいよ。母ちゃん、謝るから……真幸と、もっと一緒にいたいよぉ……」

 結局、手は届かず、母は子供のように声を上ずらせている。

 真幸は後ろ手に隠していたものを、静かに差し出した。

「これ、ちょっと遅れちまったけど……母の日な」

 それは一輪のカーネーションだった。

 赤い花弁はすでに盛りを過ぎ、端がしおれかかっている。

 咲き誇った瞬間から、その命を散らしていく花を——母は震える手で受け取った。

「こんなの、すぐ枯れちゃう……」

「それでいいんだよ。——花が枯れたらさ、悟さんとこに行けよ」

「えっ……」

「あの人、いい人だと思う。きっと母ちゃんを幸せにしてくれる」

 母の頬に、すうっと一筋の涙が伝う。

 それを返事代わりに受け取り、真幸は一つ頷いた。

 すると、母が急にはっとした表情を浮かべた。そして焦ったように真幸へ歩み寄る。

「真幸、待って。待って……!」

 どうやら母の中で何かが変わり、それに応じて真幸の姿が認識できなくなってきているらしい。

 最後、真幸は母に歩み寄った。そのか細い背中に腕を回し、ありったけの思いを告げる。

「母ちゃん、ごめん。それから……オレを生んでくれてありがとう」

 そうして、自分の二本の足で——しっかりと立ち上がる。



「——いってきます」



 母は呆然と立ち尽くしていたが、やがて慌てて部屋中を彷徨い始めた。しかしいくら探しても真幸の存在が感じられないことを知ると、カーネーションを弱く抱きしめ、その場にくずおれた。

 涙に震える声が最後、「いってらっしゃい」と小さく呟く。

 それを噛みしめるようにして、真幸は一歩足を踏み出した。





 外に出ると、団地の棟の入り口で兄弟天使が待ち構えていた。

 すでに運転席でグリップを握っている啓とは対照的に、柴乎はうろうろと落ち着かない様子で団地を見上げていたが、真幸が降りてきたのを見るや否や、あたかも初めからそうしていましたと言わんばかりに、バイクへ寄りかかった。

「ったく、天使様を花屋に使いっ走りさせるとはな。……で、挨拶とやらはちゃんと済ませたのかよ」

「まぁ、な」

「あっそ」

 気のない風を装いつつ、柴乎はバイクの座席を叩く。口端に苦笑を浮かべた啓も真幸を促した。

「乗って。今度は『門』をくぐれると思う」

 真幸が頷き返そうとした次の瞬間だった。

 ごう、という唸りと共に、突風がその場を襲った。上空から地上へ叩きつけるような、恐ろしく強い風だ。

「な、なんだ……!?」

 足下に黒く濃い影が落ちる。

 空を塞ぐほどの大きな羽根が頭上に広がっていた。鋭い爪と牙を持つ禍々しい巨躯が、悠々と空を旋回している。その羽の付け根にもやがかった黒い穴を見つけ、真幸は思わずはっとした。

「伏せろっ」

 突っ立ったままの真幸を、柴乎がとっさにバイクの影へと引っ張り込んだ。一方の啓はバイクにまたがったまま、油断なく悪魔の動向を見つめている。

「昨日の奴か。こっちには気づいてないみたいだけど……」

 馬鹿でかい蝙蝠は反対側の棟に留まると、そこから何かを見定めるようにじっと動かなくなった。おかげでこちらは死角になるが——どうも何かが気にかかる。安堵するどころか嫌な予感がしてたまらない。

「なぁ、あいつ、オレん家見てないか……?」

 不安に押し出されるように柴乎へ耳打ちすると、その大きな黒目がさらに見開かれた。

「まずい——母ちゃんの方か」

「え?」

「だから、ヤツはてめーの母ちゃんを狙ってんだよ!」

 慌てて物陰から出る柴乎に、啓も同調する。

「そうか、剥離しそうな魂を待ち構えてるんだ」

「な、なんでだよ。母ちゃんはもう死なないんだろ!?」

 現に真幸の姿はもう認識できなくなっていたはずだ。しかし、啓は首を横に振る。

「魂の状態はすぐ元に戻るものじゃない。これからゆっくり時間をかけて戻っていくものなんだ。今、悪魔に襲われたら——喰われてしまうかもしれない」

「じゃあ……じゃあ、オレを囮にしてくれ!」

 真幸は必死の形相で叫ぶ。

 すると兄弟天使は、申し合わせたかのように不敵な笑みを浮かべた。

「ハッ、最初からそのつもりだっての!」

「無関係の魂を巻き込んだら、給与査定に響くからね」

 バイクが爆音を上げ始める。

 座席にまたがった真幸を挟み、天使たちは不穏な口調で囁き合った。

「行くぞ、啓」

「——了解」

 瞬間、バイクはフルスロットルで大空へと飛び出した。

 魂がそのままかき消えそうなほどの重力が真幸を襲う。霞んだ視界の中で目をこらすと、こちらに気づいた悪魔がぎろりとバイクを睨み上げていた。

「お前の獲物はここにいるぞ! こっちにきやがれ!」

 精一杯煽ってみせると、狙い通り、悪魔が羽ばたき始めた。柴乎がくつくつと肩を振るわせるのが、背中越しに伝わってくる。

「やるじゃねーか、不良もどき!」

「そ、その呼び方やめろ……!」

 言い合っている間にも、バイクは街並みを置き去りに、天の高みへと昇っていく。やがて夕焼けに燃える雲の合間に、荘厳な『門』が見えてきた。

「あった、あそこだ——、っ!?」

 啓が突如としてバイクの速度を落とす。

 真幸は白亜の門に取り付いた黒い影に、愕然と叫んだ。

「もう一匹、いる……!?」

 よく似た巨大な蝙蝠が赤い眼を爛々と輝かせ、罠に飛び込んでくる獲物を待ち構えている。背中の方で柴乎が短く舌打ちした。

「お仲間引き連れてきたってか。ちったぁ頭が回るらしいな」

「感心してないで。どうするのさ」

「しゃーない——俺が飛ぶ」

 言うなり柴乎は排気管(マフラー)に足を掛け、すっくと立ち上がった。

 長いコートの裾が暴風に翻弄される。確か、天使といえども空を飛ぶことはできないと柴乎自身が言っていたのではなかったか。

 まさか飛び降りるつもりか——!

「柴兄、ちょっと待って、また飛ぶの!?」

「っていうか、こっから降りた後どうするつもりなんだよ!」

「は? 降りる? バカ、下じゃなくて上のをやんだろーが」

 啓の小言を華麗にスルーした柴乎は、心配顔の真幸に向けてにやりと笑う。

「知ってっか——天使にゃ『翼』があんだぜ?」

 柴乎は腰に差していた二刀の柄にそれぞれ手を掛けた。

 刹那、黒ずくめの輪郭がぼんやりと光に包まれる。

 三人は依然、挟み撃ちにされつつある。その緊迫した状況の中、厳かな言葉が滔々と紡がれる。



「——主よ、人の祈りの拠(よ)り方よ。

 神のまことは大盾、小盾。

 今こそ人の救いの砦となりて、

 白羽の下に覆い隠さん——」



 黒い双眸が、力強く見開かれる。



「——然(さ)れば、我に双翼を授けたまえ!」



 光が膨らみ、そして弾けた。

 圧倒的な明度が瞼の裏を焼く。赤く透ける光がようやく収まったのを見計らって、真幸は怖々と視界を開いた。

 そこに立っていたのは——紛れもなく、天使だった。

 柴乎の背から、大きな翼が広がっていた。美しい羽根は毛の一本一本までが光を帯び、神々しい輝きを放っている。

「——行くぞ、っらぁ!」

 裂帛の気合いと共に、柴乎は空中へ身を躍らせた。

 天使は白い翼を羽ばたかせ、曲芸飛行のようにくるりと方向転換した。そうして狙いを定めると、『門』に取り付く悪魔に向かって猛然と上昇していく。

「<不知火神威(しらぬいのかむい)>!」

 右の刀がすらりと抜かれる。

「<東雲神薙(しののめのかんなぎ)>!」

 左の刀がしゃんと鳴る。

 悪魔が柴乎の接近に気づき、急いで迎え撃とうとする。が、柴乎は悪魔を飛び越えてさらに高く舞い上がると、二振の刀を両手に束ね、大きく振りかぶった。

 次の瞬間、刀は青白い炎を纏い、溶けるようにして混じり合う。

「食らいやがれ!」

 柴乎が大上段から振り下ろしたのは、一振の大太刀だった。迎撃するはずだった悪魔は脳天から真っ二つにされ、断末魔を残して塵と化す。

「バカ強ぇ……」

 その戦い振りに釘付けになっていると、啓の苦々しい呟きが聞こえてきた。

「今月五回目じゃん、<制約解除>……。残り時間、把握してんのかな」

 よくは分からないが、時間制限付きの『翼』らしい。

 しかし戦闘続行とばかりに旋回する兄を見て、弟は深いため息をつく。

「ったく、いつもいつも一人で突っ込んで、あのバカ……」

 悔しげな表情を見せたのも束の間、啓はぶつぶつと呪文のようなあの文言を呟いている。まさか、と思った次の瞬間、啓の背が淡く輝く。

 奇しくも、柴乎の高揚した声が空に響いた。

「っし、後一匹!」

「させるか」

 ぶわりと啓の翼が広がると同時に、二丁の拳銃が空中に放られる。

 柴乎の大太刀とは違い、二丁はそれぞれに質量を増していった。そして、

「<流転>、<不転>——多銃身機関銃形態(ガトリングモード)」

 啓の脇を固める無骨なガトリングガンが眼下の敵に狙いを定める。

「啓、おまっ……!」

 慌てて降下を止めた柴乎を振り返りもせず、啓は敵を見下ろし、酷薄な笑みを浮かべた。

「——くたばれ、悪魔」

 断続的な破裂音が耳をつんざく。

 銃弾を雨霰と受けた悪魔が蜂の巣にされていた。

 胴体も羽根も穴だらけになりながら、その両眼はなお凶暴な妄執を帯びている。

 悪魔は全身に力を漲らせ、あらんかぎり咆哮した。

「……っ!」

 谷底から吹き上げるような突風に、びりびりと肌が粟立つ。

 思わず目を閉じた一瞬の間に、悪魔は弾丸のごとく肉薄していた。

 闇が目の前に広がる。それは真幸に突如訪れた、理不尽な死の色と似ていた。

 しかし——

「諦め悪ぃんだよ、てめーは」

 暗黒の帳を、一条の炎が斬り裂く。



「——汝、悔い改めよ」



 霧散する悪魔に向けて、柴乎はそう告げた。

 およそ天使らしい厳かな台詞を、およそ天使とは思えない凶悪な笑みを浮かべて。











「——だーかーら、俺にはすぐ羽出すなだのなんだの普段から言うくせに、てめーはいいのかって話だよ!」

「まだ余裕のある僕の方とで分担したらいいだろ。柴兄こそ、分かってんの? 今月の残り時間、あと一分三十秒五七だよ、一分三十秒五七!」

「だぁぁぁ、こまけーんだよ、お前は! もうあれだ……ぶつぞ!」

「ほーら、そうやってすぐ脅しにかかる。正論だからでしょ、痛いところ衝かれたからでしょ」

「……っ、ぶ、くくくっ……」

 既視感たっぷりの兄弟喧嘩に、真幸はたまらず肩を振るわせた。天使らは無言で睨み合い、ぷいっと顔を背けた。

「ほら、笑ってねーで逝けよ」

 柴乎は不機嫌に顎で『門』を指し示す。バイクの上から恐る恐る手を伸ばすと、触れるか触れないかの内に『門』が光を発し始める。

 感動と共に湧き上がる、少しの恐れ——それを察したかのように、背後から柴乎が真幸の手に手を重ねた。



「——『叩け、天国の門(ノッキン・オン・ヘブンズドア)』」



 そびえ立つ扉の真ん中に、一筋の光が差した。

 重々しい扉は音もなく、左右に分かれ、開いていく。

 誰に教えられずとも分かっていた。

 これが——自分の逝く先なのだと。

 真幸はバイクから降りると、一歩、また一歩と空中へ歩き出していく。

 未練は本当に消え去ったのだろうか。母のことは変わらず気がかりだし、もっともっと生きていたかったという気もする。

 けれど——それでも、人は歩んでいかなければならない。

 それを教えてくれた天使らを、真幸は最後、振り返った。

「……ありがとな!」

 雲も空も街並みも——強い光の中に溶けていく。

 その直前、柴乎と啓は顔を見合わせ、どちらからともなく手を振った。





『——神のご加護があらんことを』

































 美しい春の夕空に、天国の門が透けていく。

 なんとなく消えるまで見送っていると、やにわに運転席から声がかかった。

「さっ、次の仕事に行くよ」

 早くもタブレット端末を操作している弟に急かされ、柴乎はふっと息をついた。

「へいへい」

 彷徨える魂を求め、天使のバイクは今日も雲の下を行く。

 ふと空を仰げば、五月らしい爽やかな風がするりと雲間を抜けていった。

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