錆ついたネジを巻く、空虚な音が好きだった。
 その時計はどれだけネジを巻いても動き出すことはない。
 百と三十七年前のあの日、あの時刻を指したまま、針は止まっている。
 この懐中時計と同じように、この星も、あの時から時を刻むのをやめてしまったのではないか、なんて。
 私は、私が生まれるずっと前のことに想いを馳せる。
 考えたって意味のないことを、取り留めもなく考える。
 私は、そんな時間が好きだった。

 ベッドサイドのモニターに表示された時計が午前八時を示した丁度そのとき、部屋のチャイムが鳴る。セーブモードになっていたコンピュータが自動で稼働を始め、側に浮かび上がったディスプレイに外の様子が映し出される。
 幼馴染であり同級生でもあるアサヒが、ブルーのシャツの上に長い白衣を羽織った姿で、そこに立っていた。同級生だが、彼の顔を見るのは久しい。
 私はそっと懐中時計の蓋を閉めると、椅子の背に掛けてあった白衣に袖を通し、扉へと向かった。


「ここに来るのは、去年の講義以来だな」
 落ち着かない様子で後ろに立つアサヒを余所に、薄暗い通路の自動床は私たちを奥へ奥へと運んでいた。ベルトコンベアーの小さな機械音が閉ざされた空間に響く。
「カレッジの生徒はいつでも自由に立ち入って構わないのに。本当、勿体無いわね」
 行き着いた最奥の壁に設置されているのは、仄白く光を放つ認証機だった。右手を伸ばしてかざすと即座に私の生体を認証し、軽快な解除音が鳴る。と同時にシェルターの屋根が開き、足元の床がせり上がった。
 眩しい朝の日差しに視界を焼かれる。少し強い風が吹いて、白衣の裾が舞い上がる。
 そして、甘くて、ほんの少しだけ酸味のある香りに包まれた。
「本当に、良い香り」
 白い花が咲き誇る木を見上げると、自然と笑みが零れる。ちらりと後ろを振り返ると、アサヒは風で赤茶色の髪が乱れるのも厭わず、半分呆けたような顔をしていた。
 木々の濃い緑色は、ここでしか見ることができない。ここに来ると、命の息吹を感じることができる、なんて、少し大げさかもしれないけれど。
 陽光に煌めく噴水の飛沫の音も、鼻腔をくすぐる花の香りも、その全てが、生を実感させてくれる。

 ――世界が滅んだという事実を、忘れてしまいそうになる――

「これが、花、か。こうして咲いている姿を見れるなんて、思ってもみなかっ、」
 彼の言葉は無視。私は無造作にその花弁を掴もうとしていた手を叩き落とした。
「何十年もかかってやっと咲いたのよ。無闇に触らないで」
 大袈裟に膝を抱えてうずくまる背中に鋭い言葉を投げた。
 私たちは、花を知らない。
 もちろん生物学では植物の生態について徹底的に教え込まれたし、研究所で人工的に培養された花を見学したこともある。
 でも、どれだけ鮮やかに咲いていても、細胞の一つ一つまで人の手で造られたそれを、生命と言うべきではないと、私は思う。
 だから、私はそれを、花とは呼ばない。
「これがどれだけ尊いものか、あなたも理解できるでしょう?」
 立ち上がると私より頭半分高いアサヒが、手の甲をさすりながら、普段より低い声を出した。
「配慮が足りなかったことは認める。だが、いきなり叩くことないだろう? それも思い切り」
「思い切り? 力なんてほとんど込めてないけれど?」
 そう言い捨てると、くるりと背を向けて歩き出した。
 言ってしまえば、この花も造り物に他ならない。でも造られた土壌に自ら根を張って、自らの意志で開いた花は、培養装置の中で強制的に開かれた花とは本質が違うと思う。
 だから、私はこれを、花と呼ぶ。


 遥か昔に存在した、庭園や公園と呼ばれていたという営造物を忠実に再現したこの場所は、第九居住区の地上被験地という。はるか昔、日本という島国が存在していた場所に作られた地上の実験地だ。
 世界暦百三十七年、初夏。
 もう、この地球のどこを探しても、季節なんてものは存在しない。しかし、かつてこの地にあった国、日本では今頃の時期を夏の初めと呼んでいたらしい。
 この被験地も、日本の初夏のように木々は青々と茂っていた。少し汗ばむ大気も、強い日差しも、遠い昔を模したものだ。
 暑くなって、白衣を脱ぐ。下に着ているブルーのシャツは、制服としてカレッジから支給されたものだった。私は、ブレインを養成するために作られた、世界に九つある教育機関の一つ、カレッジ・ナインの第八学年に属する。
 そしてあと数カ月後。かつてこの地が秋と呼ばれていた季節にカレッジを卒業し、その後は一生涯、ブレインとしてこの星で人類が生き延びる術を探す研究に明け暮れるのだ。
 ブレイン。それは、特権階級と呼ばれる科学者たちの呼称である。この世界の身分階級はブレインと、一般人の二つしかない。私は別に、その身分を振りかざすこともなければ、誇らしく思うこともなかった。
「おい、マユ。待てよ!」
 振り返ると、幼馴染兼同級生が息を上げながら近づいてくる。待てと言われても、息を切らすような早足で歩いていたわけではないし、置き去りにしたつもりもない。ただ私の身体が、知らず知らずのうちに、他人より逞しくなってしまっただけ。
 互いの距離がゼロになったかと思えば、腕を掴まれた。
「何なの?」
「そろそろ時間だ。次の講義には顔を出したい」
 人類が皆、耳に埋め込むようにして常に身につけている小型の端末に触れる。目の前に浮かび上がるディスプレイによると、時刻はまだ九時半を過ぎたところだ。
「ああ、そうだったわね」
 とあからさまに嫌な声が無意識に唇から漏れる。この同級生が、朝わざわざ部屋まで迎えに来たのは、午後の講義に共に出席しないかという誘いのためだった。
 人々が科学者に求めているのは、優れた科学技術の開発。変わり果てたこの星で生き抜くために必要な科学の発展、ただそれだけなのは周知の事実で、私もそれに異論はない。でも。
「俺には、教授の言葉が無視できない。頼む」
 日夜研究に明け暮れる科学者たちは、目の前の問題で手一杯なのか、ここに来るものはほとんどいない。何十年もかけてやっと、自らの意志で咲いた花なのに、誰からも観てもらえないなんて。そんな悲しいことはない。だから、私は彼をここへ連れてきたのだ。
「……これで少しは、あなたたちも報われたかしらね。アサヒ、無理に付き合わせて悪かったわね」
 赤毛の頭を見上げて言うと、彼は首を横に振って答える。
「いや。お前に誘われることがなければ、俺はここには来られなかった。だから、感謝している」
「来られなかった?」
 彼の言葉が引っかかって眉をひそめると、彼ははぐらかすように、笑った。
「俺たちアベルは、ここにはむやみに出入りしないよう言われている。それに、天才と謳われるお前と違って、劣等生の俺には時間がないのも事実だ」
「天才、かぁ」
 両親が共に、この星の最前線で研究を進めるブレインで、その遺伝子を受け継いでいる私も、昔から知能指数が人より飛び抜けていたらしい。
 もうすぐ十八歳になる私は本来第六学年であるはずなのだが、二学年飛び級をしたことで、現在最高学年である第八学年に籍を置いていた。
 ブレインになるための最終関門である卒業論文も、もうとっくに、かなりの高評価でクリアしていた。そんな私に、講義に出席する必要などはない。
「それに。世界中にあらゆる分野の研究室を傘下に持つ、あの有名な研究所の代表が直接生徒を引き抜きに来るなんて、面白いじゃないか」
 そして、自身を劣等生と揶揄するアサヒも、私と同じで、天才と呼ばれる人種だった。ほとんど努力を要することなく、難しい理論を理解してしまう。二学年飛び級している私と同い年で同級生ということは、言わずもがな、彼もまた同じだけ飛び級しているということだ。
 彼の中には、この星の運命を握っているような、優秀で有力なブレインの遺伝子が受け継がれている。日系人が多い第九区は特に目立つ、珍しい髪色や瞳の色が、紛れもないその証だった。しかし彼は、幼少の頃から自身を卑下する悪癖がある。
「あまり興味ないわ。もちろん必要もないし」
「こういうとき、俺が担いででも連れていけたらよかったんだがな」
 てんでやる気のない私を見て、アサヒが苦笑する。そんなとき、不意に先刻から腕を掴まれたままだったことに気が付く。
「どうせなら、試してみる? 引き摺っても、抱えても、背負ってもいいわよ」
 無理に決まっているだろう。という呟きが聞こえて、腕が少しだけ引かれる感覚がした。
 アサヒは男で、勿論自分よりずっと体格もいい。でも、私がほんのちょっとだけ踏ん張れば、彼の力では私を引っ張ることは不可能だった。
 進み過ぎた科学技術により、人々は次第に自らの肉体を使わなくなった。カレッジで勉強や研究ばかりしていると尚更だ。
「この時勢に、ガラクタをひっくり返して漁っているからか? 本当に、凄い力だな」
「あなたにはガラクタにしか見えないかもしれないけれど、私にとったら宝の山なのよ」
 腕に力を込めて振り払えば、その手はあっさりと自由になる。
「いい加減にしておかないと、本当に二限に遅れるわね。さすがの私も、そこまであなたを拘束するつもりはないのよ」
「では俺は、地下に戻るとする。午後からの授業、来てくれると信じてるからな」
 そう言うと、柔らかな笑顔でひらひらと手を振り、彼は来た道を引き返してゆく。重厚なシェルターに飲み込まれる、白衣の背中。
「頑張って咲いたあなたたちを見せることができてよかった。私のわがままを聞いてもらったんだから、私もアサヒの要求には応えないとね」
 白い花弁にそっと語りかける。
 辺りはまた、風の音に支配された。


 一人になった私は、白い花を眺めながら歩き、庭園の丁度真ん中に建てられた白煉瓦の東屋へと辿り着く。その中のベンチに腰を下ろすと、ほうっと息を吐いた。
 白衣のポケットは、普通の衣服のものより大きく丈夫に作られている。今や廃棄物扱いされている紙で出来た本を取り出して、大理石のテーブルの上に置いた。
 これは、しばらく前から考えていたこと。この庭園で、温かな日差しに包まれながらのんびりと読書をしたら、どんなに心地良いだろう。小さめの本の表紙を広げると、びっしりと踊る文字に心も踊る。
 私の意識は、すぐに本の世界へ吸い込まれていった。
 それから数十分が経った頃だろうか。風と噴水の音しかしない庭園に、土を踏み締める小さな音が響いた。ベンチに腰を下ろし、本を開いてからというもの、一切姿勢を変えていないほど集中していた私の耳にも、僅かに届く。
 近付く者の気配に、ふっと顔を上げた。真っ直ぐに伸びた黒髪が靡いて視界を遮ろうとするのを、右手でかき上げる。
「随分と、真剣だね」
 思ったより、ずっと近かった。いつの間にかテーブルを挟んで向かい側にいた人物が話し掛けてくる。
「あれ? 気付いてた? 思っていたより随分と落ち着いてみえるけど」
 その人物を、頭のてっぺんからつま先まで二、三往復見てから、
「これでも十分に驚いているわ。だって、家族以外から日本語で話しかけられることなんて、初めてなんだから」
 世界が一つに統合されて、百三十六年と半年。統合される前と比べ、今の世界の人口はその一パーセントを下回る。何千とあった言語も唯一の共通言語を残して廃れてしまったのが今の世界だ。
「黒くて癖のない髪、小作りながらも丸い目は、日系の特徴。それにここは元々日本国の在りし場所、第九番目の被験地だからねぇ」
 日系の血を引いていても、今の世界で日本語を自在に使える者にはほとんど出会わない。私が、私の家族が特別なのは誰もが認める事実。
「それにしても、君は綺麗な日本語を話すね。ここまで流暢に話せる人がいるなんて、思ってもみなかったよ。ずっと、聞いていたくなる」
 いつの間にか、当たり前のように隣に腰掛けている青年は、ゆったりとしたグレーのパーカーの袖口を口元に当てて、嬉しそうに笑う。
「私も、日本語をこんなに話せる人がいるなんて。それもあなたみたいな外見の人が話せるなんて、思ってもみなかったわ。……その姿、西欧系よね」
 親世代がまだ何となく日本語が使える日系の子孫は確かに存在する。だが、彼は完全に違っていた。
 金髪は、自分のそれと同じぐらい癖がなく、時折吹く風に揺れている。
 柔らかい微笑みの中で碧い眼が探るように煌めくのを、私が見落とすはずがない。
「西欧の中でも、北欧系だよ。ここでは珍しいようで、珍しくもない」
「そう。ここは元日本国のあった場所に造られているから、住人の多くは日系。でも、ここはアベルの愛し子たちが生まれた地だから。あなたみたいな容姿にも慣れている」
 うんうん、と、彼は頬笑みを絶やさずに私の二の句を待つ。
「でも、問題はそこじゃないわ。いきなり現れて流暢な日本語で話しかけてきて。白衣も制服も着てなくて。パーカー? 今どき、一般人でも着てないんじゃない? それを、この地上被験地で身に纏っているなんて」
 自分で思っていたよりも、私は動揺していたようだ。ここまで息もつかずに一気に日本語で話すのを見てか、目の前の青年はふと笑みを溢した後、あっさりと共通言語で答えた。
「ああ、僕、白衣って嫌いなんだよね」
 言語が違うだけで、印象も随分異なるものだ。
 共通言語になった途端、気さくな雰囲気になった青年は、テーブルの上に広げてあった本を覗き込む。
「Le Rouge et le Noir。仏国の作家、スタンダールの作品だね。でも君、どうやってこの本を手に入れたんだい?」
 仏語の完璧な発音もそうだが、開いていたページを一瞬覗き見ただけで言い当てられたことに、私は目を丸くした。そのせいか、本当は口外すべきでないことを、思わず素直に口にしてしまう。
「廃棄物置き場で見つけたの」
 言った後で、ばつの悪い顔つきになったであろう私を見た彼は、一瞬目を見開きし、そして苦い笑いを浮かべた。
「随分と危ないことをするんだね。あそこは汚染物質も多いのに」
 地下に増設された第九居住区、その最端に作られた廃棄物置き場は、本来ブレインの専門機関の者しか立ち入ることはできない場所だった。だが、その管理は非常に甘い。今を生きることに必死な人類は、過去の遺物に無関心であるが故なのだろう。数年前にそれを知った私は、かねてより時折そこに忍び込んでは目ぼしい物を拝借していた。
「大丈夫。この本はきちんと除染したし、立ち入るときは防護服も着ているから」
 禁じられた行為をしていることに変わりはないのだけど、こうなったらもう開き直るしかない。
 制服に白衣を重ねたこの格好を見れば、私がカレッジの生徒だとすぐにわかるはず。一般人ではなくカレッジの生徒ならば、当然汚染された廃棄物の取り扱いも心得ている。それを知っているからか、青年はそれ以上何も言わなかった。
 金の髪の間から覗く遠くを見つめる目が、やがて長い睫毛に縁取られた瞼によって隠される。
「――昔の人は、今じゃ到底考えもつかないようなことに、悩み、苦しみ、そして幸福を感じている」
 どこか、憂いを帯びた声色で、詩のように紡ぎだされる言葉たち。歴史から取り残されたようなこの場所、陽の光を浴びて眩しく輝く金の髪のせいで、現実を忘れそうになった。
 精巧に作られた西洋人形のようなその人に見入っていると、不意に瞼が開き、青が煌めく。
「君は、どうして? どうして、人々が捨てた、過去の地球を追い求めるんだい?」
 真っ直ぐに向けられた、この星のような色をした瞳から、目が逸らせなかった。
 過去の地球を追い求めるなんて、私はそんな大層なことをしてはいない。
「同じ人間なのに、昔の人たちの方が、ずっといきいきとしてる気がする。生きているって感じられる。そんな生き方をしていた昔の人たちが、私は羨ましい。ただ、それだけよ」
 そう、それだけのことに、堪らなく惹かれていた。そんな時代に生まれた人々が、羨ましかった。
 生き延びた全人類から、どれだけ忌み嫌われていても、私はそんな、かつての世界が好きだった。

 エデン・ロストを引き起こした、愚かな世界が。

「君の名前を聞いてもいいかな?」
 私の答えに満足したのか、真剣だった彼の顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。胸ポケットから名札を引っ張り出すとその眼前にかざして答える。
「マユ。マユ・ハヤミよ」
「……マユ。ケチュア語で大河を意味する言葉だったかな」
 それは確か、どこかの古代文明で使われていた言語だったと記憶している。知能テストで選ばれた特権階級の中において、これでも一応トップクラスの成績を修めている身。今や殆んど見向きもされない過去の文化に、いつの日からか魅せられて以来、積極的に知識を取り入れている。
 そんな私より、学識がある人がいたなんて。それも、学の高さは段違いだ。
「あなた、何者なの? ここにいるということは、カイン側の人間?」
 湧き上がった感情は、知識に対する畏敬と、それを超える期待なのだと思う。
「ごめん、変なことばかり言って。僕は、過去に固執しているだけだよ。原始の人間の生活とかね。そういうのに、すごく興味がある。だから、その分野に長けてるだけ」
 軽い口調でそう言う顔が、少し寂しげに見えた。興味なら、私もある。興味だけで、これだけの知識を得るのに、一体どれほどの時間を要したのだろう。
「あなたは、ブレイン? 私とさほど年が離れているようには見えないけれど」
 返事の代わりに返ってきたのは、にっこり、そんな擬音が目に見えそうなぐらいの頬笑み。それだけを残して、青年は踵を返す。
「そろそろ午後の講義の時間じゃない? 行かなくていいの?」
 背を向けたままそう言い、一度も振り返ることなく歩き去る。
「……何だったの?」
 思わず呟いてから、左耳に手を伸ばす。彼は、アサヒとの会話を聞いていたのだろうか。約束の、午後の講義の時間が迫っていた。
 行かなければと思うのに、なかなか身体が動かなかった。それほどまでに、その出会いは衝撃が大きくて。
 私などでは到底考えの及ばない、高尚な知識を持った人。私の知りたいこと、求めていることを知っている人。
 本を白衣のポケットに突っ込み、深呼吸をした。胸が高鳴っているのは、興奮しているから。昔の本に頻繁に登場する、恋という感情は、これとよく似ているのかもしれない。
 端末が小さく振動した。この場所を離れるのはいつも名残惜しいが、今日は一層、足取りが重い。
 でも、戻らなければ。私たち、残された人類が生きる場所。
 ーー地下の世界へ。