額から流れる汗を拭っても、またすぐにうっすらと浮かんできて、前髪がペタリと皮膚に張り付く。
白衣はもう何日も家に置きっぱなしになっていた。半袖のワイシャツは上から二つボタンを開け、スカートも折り返すことで丈を短く調節してある。そしてソックスを履かずにそのまま革靴を履くことで、ようやく暑さも少しだけ和らぐ気がした。
「あづい」
地上被験地には、ぬるい風が時折吹いていた。ジルから貰った鍔広の麦わら帽子が飛んでいってしまわないよう、後頭部を押さえる。
アベルや、アベルの愛し子と呼ばれた者たちが、長くて穏やかな眠りについてから、ひと月と少しの日々が流れていた。日本はグレゴリオ暦でいうところの八月。夏真っ盛りであり、第九居住区もまた西暦時代の夏を模した気候になっている。
「そんな格好をして……。君はそういう格好をはしたないとは思わないのかな?」
こんなに気温が高いにも関わらず、シャツのボタンは一番上以外はきっちり留めていて。紺色のスラックスを履いている姿は、見ているだけで暑苦しい。
「君に良いことを教えてあげよう。そのように靴下を履かずに革靴を履くと、3-メチルブタン酸臭が強くなるんだよ」
「わざわざ難しい言い回しをしなくても、足が臭くなる、で十分でしょ。足の臭さと引き換えに少しでも涼が得られるなら、私はそれで構わないわ」
私の答えに、トーヤは頭を抱えた。
第九居住区の筆頭ブレインが交代するというニュースは、世間には全く注目されることはなく、新しい代表にジルが就任することも、まるで全世界中から暗黙の了解を得ているかのように、スムーズに終わった。
そして彼が筆頭に就任したからといって、人々の生活が変わることはなく、穏やかな日々が流れている。
私の父が筆頭に就任した第八居住区に点在していたアベルの研究所も、トップであるドクター・フジワラたちがいなくなったことで、反抗勢力ではなくなったらしい。
「ノアの敵って、本当にアベルだけだったのね。こんなに何もかもが順調に進むなんて。少し前まで何も知らなかった身としては、怖いぐらいだわ」
咲き誇っていた花はすっかり散ってしまい、今は深い緑の葉が力強く茂っている。花の香りも好きだったが、この葉っぱたちの匂いも心が落ち着き、いつまでも嗅いでいたくなる。
「ノアの計画については、九区だけ極端に情報が遅れていたらしい。ドクター・フジワラやアベルの愛し子たちの件もあって、かなり慎重になっていたそうだよ」
「いつの歴史を辿っても、日本だけ置き去りにされているわよね。世界はどんどん先に進んでいるというのに」
右手で帽子を押さえながら、振り返ってトーヤを見た。
「既に、地球上のほとんどの人間がコールドスリープについたなんて。この計画を知らされてからの展開が早すぎるわ。どうして他のみんなは黙っていられるの? 暴動とかデモとか起きないの? ……って、そんなわけないか」
「そんな不毛なことをする馬鹿は今更いないよ。皆、来たる日に備えて粛々と過ごしていることだろうね」
言葉を止めて、ミネラルウォーターを流し込む彼の顔にも、大粒の汗が流れている
あの日。ジルが第九居住区の筆頭に就任した日の正午。彼は第九区の全ての人々に向けて、一つの映像を発信した。やり方はあまり褒められた方法ではない。言ってしまえばハッキングである。
今現在、この世界に生きる全ての人々は、常に小型の端末を耳に付けている。ジルは、人々が身に付けた端末の制御を乗っ取ることで、ノアによる星間移民計画を個々人の脳裏に映像として流したのだった。
「ジルって私と同じぐらいの年齢にしか見えないじゃない? その彼を真ん中に、ある程度の年齢で、経験も実績もある残り八人の筆頭が囲むなんて。ほんと、凄い光景だったわよね」
「いずれこうなることを見越して、映像を用意していたんだろうね。彼の権力を示すには、あれ以上の方法はない」
その日以降、第九居住区のニュースはノアの計画のことで持ちきりであった。それは悪い意味ではない。ジルが映像に流したチャイルドや、実際に乗る宇宙船の映像、そして彼自身のコールドスリープの体験談から、この計画は我々の救いだと、人々は期待を込めてその日を待ち望むようになったのだ。
「眠りにつく日を、それぞれに伝えたのも良かったわよね。それまでに色々と、準備や心構えができるもの」
「ああ。遂にあと一ヶ月。長いやら、短いやら」
そう、自身に問いかけるように遠くを見つめるトーヤ。その横顔をぼんやり見ていると、強い風が吹き、帽子が空高く舞い上がった。
いきなりこんな強風が吹くなんて。空調でもおかしくなったのかしら。と、独り言をぶつぶつ呟きながら、飛んでいった帽子を追いかける。地下への扉の方向へと舞い上がったはずなのに、地面には落ちていないし、木に引っかかったりもしていない。
「探し物はこれかな?」
不意に、物陰から私が探していた帽子を被った人物が現れる。顔は見えないが、その耳障りのいい声は、私がなかなか眠りにつけず、頭を抱えていた日に、たくさんの物語を聞かせてくれた。よく知っている大好きな声だ。
「パパ!」
最後に直接会ったのは、既に三年以上前になる。思わず飛びつくと、父は私を軽々と抱き上げて、くるくるとその場で回転してみせた。
「真由、大きくなったね」
「身長は十四歳ぐらいからほとんど伸びていないわよ?」
私を抱き上げて両腕を上に伸ばしたまま、父に問われる。前に会った時から変わったことといえば、
「ああそうか! 髪が伸びたんだ! ますますママに似て美人になって……」
やっと私を下ろした父は、まじまじと私の姿を見て、そして吹き出した。
「夏になるとね、涼しさを求めるあまり適当な格好になるところ。本当に榛奈にそっくりだ。裸足に革靴、懐かしいなぁ」
「ーーああ、そういえばハルナも、出会った頃はそんな格好をしていたね。いやぁ、あれはさすがの僕も、驚いたよ」
父の後ろから金髪頭がひょっこりと顔を出す。ジルも同じことを言うのだから、それは事実なのだろう。
母が、私の憧れている、颯爽と白衣を翻す知的で優しい母が、まさか私と同じようなことをしていたなんて。
「ママが……? 信じられない……」
「ああー! もしかしてこれ、言ったら榛奈に怒られる? ママは、真由を産んでから理想の母親になろうと必死に頑張っていたんだけどね。本当はとても、自由奔放で可愛らしい女性なんだよ」
母が聞いていなくてよかったと心底思った。父はとても優秀なブレインだが、基本的な性格は、とても穏やかで、そして間抜けなところがある。
そして母を、母と私を、目に入れても痛くないぐらいに溺愛していた。
「マユ? 帽子を追いかけたから戻ってこないから、てっきり木に引っかかって木登りでもしているのかと思えば。っ、ミナトさん!」
遅れて私を追ってきたトーヤも、父を見て目を輝かせた。
「君は、もしかして遠夜くん? 真由より数年早くカレッジに入学して以来だから、もう十年近くは会ってなかったのか! いやー、すっかり立派になって……」
「ミナトさんは、お変わりないですね。出会った頃と同じで、安心します」
トーヤの言う通り、父は昔と全く変わってない。第八居住区の筆頭になったぐらいだから、少しは威厳も出てきたかと思ったのだが。気さくで少し抜けている、私のよく知る父のままだった。
一見、ブレインには見えないぐらい、話しやすくて親しみやすい父。いつも凛々しくて気高くて、でもとても優しく見守ってくれる母。私は二人が大好きだった。穏やかに笑う父に会うと、当然母にも会いたくなる。しかし、ここに母の姿は見えない。
「ねぇ、パパ。ママは? 一緒じゃないの?」
私が問うと、父はジルを睨む。いつになく険しい表情だ。
「ジルコニア? 僕の娘に、君はどこまで伝えてあるのかな?」
「えーっと……半分、ぐらいかな?」
「それは一般人に伝えている内容とほぼ変わらないのでは? どうして伏せているのか、僕は、僕が納得いく説明を要求する。僕の娘は君の信用に足りないのか? 君の目には敵わなかったのか? いいや。そんなはずはないだろう。君だって真由のことを大変気に入ったと、僕に直接言ってきたじゃないか。では何故なんだ? 僕たち家族の大切なことを、どうして君は僕の娘に、真由にきちんと伝えていないんだ?」
こんなに怒った父を見るのは、私がまだ小さい頃以来のことだ。言葉尻こそ柔らかいが、目線は鋭く、絶対に逃がさないという気迫を感じる。
しかし、ジルが言った半分という言葉には、父が怒るのも無理はない。私だって、聞いた瞬間あり得ないという怒りが湧いた。
私はノアの一員とされていながらも、計画のたった半分しか聞いていないのか。その事実が、とてもショッキングだった。
「待て。真由が半分ならば、遠夜くんにはどれだけ伝えている? そして僕と榛奈には? 伏せている内容と理由は今無理に話す必要はない。だから正直に答えるんだ。遠夜くん、僕、榛奈に、それぞれどれほどノアの計画を伝えている?」
父の気迫に押され、ジリジリと後ずさるジルだったが、木の幹に背中がぶつかったことで観念したようだ。
「ミナトとハルナには、今話している時点で九割方。だがこの後、君にだけは全てを伝えるつもりだった。ハルナには伝えるつもりはない。君にだけだ」
「彼には?」
「六割ってとこかな。彼は本当に一般の出身なのか疑うほどに察しがいいから、もしかすると気づいているかもしれないけどね」
飄々と悪ぶれることなく話すジルを見て、父は頭を抱えてため息をついた。
麦わら帽子を私の頭に被せながら、父は小さな声で言う。
「ママも、こっちに帰ってきているよ」
「本当? 早く会いたい」
帽子の鍔を持ち上げて父を見上げると、何故かとても寂しげな顔をしている。
「パパ……?」
「ジルコニア。君が最期を子どもたちに伝えたくない気持ちはわかる。だが、これだけは家族が関わっているから、真由に伝えさせてもらうよ」
そしてジルの返事を待つことなく、父は私が聞かされていなかったノアの動向を話し始めた。
「僕たちがチャイルドへ向かうための宇宙船は、第一居住区の地下で秘密裏に造られていた。そして、今からひと月ほど前から、既に計画は始動している」
「始動って、順番に、どんどんコールドスリープについているってことでしょう? 第九居住区でも、医療センターに入院している人や、アベルの愛し子たちがその処置を受けたわ」
父は頷く。そして私に一つの問題を出した。
「では、第一居住区の全ての人々が眠りにつくためには、どうすればいい? 全ての人々が眠りについて、船を第二居住区まで運ぶには、どういう方法を取るべきだと思う?」
第一居住区の全員が一度に眠ることは、不可能だ。前処置をして、箱の蓋をして、コールドスリープの処置を施さなければならない。そして、宇宙船を動かし、目的地まで進む必要がある。
「最低でも一人は、起きたままでいる必要があるわ。残りの人々に処置をして船に積み込んだ後、それを操縦して次の地へと向かうパイロットが必要だから?」
「そういうことだね。ではここ、第九居住区に、第八居住区に住む僕が来た。ママも来ているけど、真由のところには会いに来ない。ということは?」
まるで子どもに問い掛けるような、簡単な問答だった。第八居住区で最後まで起きていて、第九居住区まで船を運転してきたのは目の前にいる父。そして、母がここにいない理由は、
「おやすみなさいって、言いたかった」
どうしても、親の前だと私は子どもに戻ってしまう。既にコールドスリープの処置を受け、長い眠りについた母。父が見送りの言葉を散々かけたとは思うけれど、やっぱり少し寂しかった。せめて通話ぐらい、かけてくれてもよかったのに。
「ごめんよ。パパもママも、なかなか休憩も取れないぐらい、仕事が忙しくてね。最後はあの体力に溢れたママが、ふらふら倒れるようにして眠りについたんだ。最後まで真由のことを気に掛けながら、ね」
他の居住区とは違って、第八居住区はアベルの研究所が複数ある。もうじき人工子宮での培養が始まるという施設もあったらしい。
ドクター・フジワラが眠りについてからは、そんな彼らの動きもピタリと止まり、大人しくノアに従った。それでも、かつて中華人民共和国のあった地に造られている第八居住区は、他のどの居住区より人口が多い。コールドスリープの処置にはとにかく時間を要したのだという。
「じゃあ、ママはやっとゆっくり眠ることができたのね。パパは、ここで眠るはずだから……、今度は私に、おやすみって言わせてくれる?」
「そうだね。ママを長い間一人にしたくはないから、パパが真由より先に眠らせてもらうよ。ああ、ほんと。僕はいつまで経ってもダメな父親だなぁ」
そう言う父は、とても寂しそうだった。
計画は進んでいて、コールドスリープにつく人が増えてきているとは知っていたけれど。まさかここまで、第九居住区以外の人間が既に皆眠りについていたのは予想以上の進捗だった。そして知らない間に母が眠ってしまったことも、とても寂しいことだった。唯一、この星で最後に父と会えたことは嬉しかったが、それももう限られた時間である。
「パパが眠りについて。私たち第九居住区の人たちが眠りについて。そして宇宙船はチャイルドへ向けて長い長い旅に出るのよね」
そう、確かめるように口にした後で、一つ大きな疑問が残る。
「でも、そうすると第九居住区の人が、最後に一人残ってしまうんじゃないの?」
「そう。そこが俺もずっと疑問だったんだよ。各地のブレインが一人、最後まで残って次の地へ船を運ぶ、という方法は俺も知っていた。しかし、最後になる第九居住区だけは、どうするのか知らされていない」
これがトーヤが私より多く知っていた一割分なのだろう。でも、彼も肝心な部分を知らないようだった。二人揃って、父とジルを見る。
「榛奈については、家族が関わっているから教えたけれど。基本的にこういった情報を知らせるのはジルの役目だからね」
そう言って父はジルを見る。口振りからして、父は知っているのだろう。
「簡単なことだよ」
三人に見つめられたジルは、なんてことない他愛話のような口調で言った。
「ここは、自動アームや移動通路が普及している世界だよ? コールドスリープの処置を行う機械を作ることなんて、造作もない。そして宇宙船は永久機関を動力にした自動飛行。目的地の座標を登録すれば、あとはチャイルドまで一直線さ」
「なるほど。確かに現在の技術では不可能ではない」
トーヤの頷きに合わせて、ジルも頷いた。ここまでで私はノアの計画のどれぐらいを知ることができたのだろう。父を見ると、着ていた白いシャツの背中が汗でびっしょりと濡れて、肌に張り付いていた。
「いや、しかしそれなら」
「トーヤ、そこまでだ。ミナトがこのままでは」
父は暑さに弱い。そもそも身体が強くはないので、このままでは恐らく熱中症を起こしてしまう。
トーヤが納得がいかないと声を上げたのと、父がふらりとしゃがみ込んだのは、どちらが早かっただろう。そもそもこんな暑いところで立ち話をすることが間違っていたのだ。
「パパ! トーヤ、ごめんなさい。今はパパを優先して!」
頷いたトーヤが父を担いで、私たちは地下の世界へと急いで降りた。