アサヒの手には拘束具も付けられていたはずだった。彼の非力な身体では、到底外すことのできないもの。後ろ手に拘束された彼が、ここから逃げ出すことはまずないだろう。
「多分、中の別の場所にいると思うわ」
「通路で入れ違ったか。全く、世話を焼かせてくれるね」
 私たちは引き返す。どこにいるのかは皆目見当がつかないけれど、私の足は自然といつものあの部屋に向かっていた。
「マユ? 何か手掛かりでも見つけたのか?」
 迷いもなく進む私に問いかけるトーヤの気持ちは痛いほどわかる。私はアサヒがここにいると思ったのではない。ここに辿り着いていてほしいと願ったのだ。
「アサヒ!」
 扉を開けると同時に叫ぶ。驚いて見開かれた赤茶の瞳が、柔らかな間接照明を反射して輝いていた。
「マユ……。ここが、これが、西暦時代なんだろう? お前がいつも、俺に話していた世界そのものだ」
「適当に聞き流されていたと思っていたのに。きちんと聞いてくれていたのね」
 そうしてアサヒは、その部屋の隅々までを、じっと見つめていた。後ろの方で、トーヤがジルを呼ぶ声が聞こえる。時間に少しでも猶予があるのなら、私はアサヒにたくさんの物を見せてあげたい。
「綺麗な細工だ。マユ、これは何な、」
 べち。私は硝子ペンに顔を思い切り近づけて覗き込んでいた、その額を叩く。
「これがどれだけ貴重な物か、考えればわかるでしょう? 無闇に近づかないで」
 そうとう痛かったのか、膝を抱えてうずくまる背中に鋭い言葉を投げた。
「……懐かしいな。マユ。すまなかった」
「きっと、あなたの意志ではないんでしょう? もういいわよ」
 そうして、私たちは黙ってその部屋を眺めていた。眠りにつくまでに残された時間は、ほんの僅かしかない。
「アサヒくん。直接話をするのは、カレッジ出会ったとき以来かな」
 部屋の入り口から聞こえたその声に、私とアサヒは同時に肩を跳ね上がらせる。恐る恐る振り返ると、ジルは怒るでも笑うでもなく、何の感情もない表情で、そこに立っていた。残りの三人も、後ろに連なっている。
「悪かったね。場所も告げずに置き去りにして。全てはトーヤが悪いんだ」
「は? 俺が?」
「なんてね。冗談だよ。せっかくだから、アサヒくん、お茶でもどうだい? さぁ、そこのソファーに座って」
 てっきりジルは、すぐにアサヒも眠らせるものだと思っていたのに。彼を拘束していた金属を外して自由にすると、彼をソファーに座るよう促した。シェンとトーヤにお茶の用意をするように言いつけ、私にも座るよう命じる。
 いつもの私の定位置にアサヒが、その向かいに私が、ジルはデスクと対になっている仕事用の椅子にそれぞれ腰を下ろす。ハオとキヨシは、折り畳み式の椅子を引っ張り出してきて、少し離れたところから見守っている。
「あの……ジル? どういうつもりなの?」
 うーん、と、彼は少し考える仕草をしてから、
「トーヤがね。アサヒくんが倒れる前に、気になることを言っていたと言うものだから。それを確かめようと思って」
「気になること……?」
 何か言っていただろうかと思い出しているところに、シェンたちが戻ってくる。二人が慣れた手つきで注ぐ香り高い紅茶は、アサヒの髪の色に似ているなぁと思いながらカップを受け取った。
 私たち、ノアの研究員は陶器のカップ。アサヒだけは使い捨てプラスチックのコップで、注がれたお茶の量も少ない。
「この部屋には自動アームがないんだから、仕方がない。陶器は、この世界ではまず手に入らない貴重な品だから、割られると非常に困るからね」
「良い判断だ、トーヤ。俺の大切な食器は、君のお陰で守られた。感謝する」
 ハオの視線の先で、アサヒは手渡されたプラスチックのコップを両手で持ちながら、ぎこちない動作で一口飲む。そして、すぐにそれをテーブルに置いた。
「コップの重さもそうだが、それを自分で口に運ぶという動作が難しいな。もちろん俺は非力な部類ではあるが」
「チャイルドに着いて真っ先に行うのは、道具を使う練習だね。他の子はある程度の大きさがある端末を持ったり、旧型の銃を持ったりしていたけれど、君は彼らと比べると特別筋力がないのかな?」
 アサヒが自分でも認める通り、彼は極端に机上の学問に費やす時間が長かったため、現代人の中でも筋力が弱い。しかし、新たな地で生活をしていくうちに、必要な力は自然と取り戻してゆくだろう。それが神の創造した、本来の人間の形なのだから。
「……チャイルド。それが俺たちの次なる故郷か」
「そうだよ。さすがに君も、もう諦めがついているよね?」
 アサヒは黙って頷いた。そして、ジルを真っ直ぐに見つめて問いかける。
「ドクター・ジル。率直に聞く。あんたは、ドクター・フジワラの記憶を消したな?」
 考える余裕もなかったことを指摘する言葉に、私は思わず固まった。驚いたのは私だけで、トーヤを含めた他の四人は当然といった顔をしている。しかし、落ち着いて考えると当たり前のことだ。彼の記憶や思想は、新しい星には相応しくない。
「ドクター・フジワラから、俺たち、アベルの愛し子に関する記憶を抹消した。他の子どもたちは知らないが、俺にはそれがはっきりとわかる」
「その通りだよ。だから君の思想と身体はもう自由になったはずだ」
 ドクター・フジワラは、アベルの愛し子たちの遺伝子を操作して、自分の言いなりになる駒として生み出した。だから、アベルの愛し子に関する記憶がなくなれば、アサヒは駒ではなくなるということ。
 でも、アサヒが倒れる前に言っていた気になることというのがわからない。私は隣にいたトーヤの袖を引っ張った。ジルとアサヒの会話にトーヤが割って入る。
「俺が接触した何人かのアベルの子どもたちは、皆盲信的にドクター・フジワラに従っていた。しかしアサヒだけは、少し違うように見えたんだ。そして倒れる前に、俺を構成している遺伝子は、と、何か言いかけていた」
 ジルは目を細め、アサヒを見つめながら問う。
「俺を構成している遺伝子は、〝ドクター・フジワラによって操られている〟と言いたかったんだよね? アサヒくん」
 まさにジルの言う通りだったらしい。アサヒは苦い顔で頷いた。
「つまりアサヒくんは、自分が遺伝子レベルで操られていることに気が付いていた。では、他にもそのことに気付いていた者はいたのかい?」
「ヒナノも気付いていた。いや、知ってしまったと言った方が正しいな。あいつはドクター・フジワラの一番のお気に入りで、研究の手伝いもよくしていた。そのときに偶然資料を見てしまったらしい。それを俺に打ち明けたのは、俺だけが操られていることに気が付いていたから。……しかし、ヒナノは操られながらも、そんなものは不毛だとわかっていながらも、ドクター・フジワラを……愛していた」
 アサヒの言葉に思わず目を見張る。
「え、仮にも自分の父親を?」
 自分とは生まれ方が全く違うため、比べる事はできない。それでも、どう頭を捻って考えても、ヒナノの気持ちがわからなかった。
「俺がマユのことを好いている感情とはまた違っていて。ドクター・フジワラにとって一番の存在でありたいと願うような気持ちだろうか」
「愛と一言で言っても、色んな形があるからね。君はこれから学んでいけばいいさ」
 ジルはヒナノの気持ちが理解できるようで、うんうんと頷いていた。
「というわけで、ヒナノは気付いたのではなく、知識として知っていた。対する俺は、やはり出来損ないだからか、物心ついた頃から、常に違和感があって。施設にいるのも、施設で教えられることも、どこか気持ち悪いと感じていた。よく抜け出しマユのところへ行っていたのも、それが理由だった」
「施設は宗教みたいだって、よく言ってたものね」
「そう。だから俺にとってマユと過ごす時間は特別で、とても尊いものだと感じていた」
 なるほどな、と呟いたのはトーヤだった。私にも、トーヤに対するアサヒの凄まじい嫉妬の理由が、やっと、何となく理解できた。そんな違和感を感じながらも施設で過ごす日々は、アサヒにとって本当に辛いものだったのだろう。
「操られていると気付いた理由は、わからないということだね。ツカサの記憶も無くなった今、知る術はなくなった。彼の研究室のコンピューターの中身、全部めちゃくちゃにしちゃったんだよね」
 グレーの袖を口に当てる、いつもの笑い方だ。ジルを敵に回すとこうなるのだと考えると、本当に恐ろしい。
「さて、ではアサヒくん。君はこれからどうしたい? 唯一操られていることに気付いていたんだ。それが解けたからには、なにかやりたいことがあるんじゃないかな? 僕は元々、君自身に私怨はないからね」
 ジルの問いに、アサヒは目を閉じて、首を横に振った。
「その一つだけ残ったアンプル。俺たちの為だけに作られたものだろう? 俺たちの記憶から、余計なものを消すために」
 ジルの手元にある注射器を見て、アサヒは問う。
「新しい世界に今までの記憶を持ってゆくわけにはいかない。ましてや自分が、人の手によって造られた人間だという記憶なんて」
「出来損ないと言われていても、やはり君の遺伝子は優れている。それ故に、今までとても苦しんだのだろう。僕の邪魔さえしなければ、猶予を与えることも可能だけど。本当にいいのかい?」
 アサヒは少しだけ考え、ひとつだけ私たちに願った。
「この部屋に辿り着いて最初に目に入ったのが、その綺麗な硝子のペンだった。マユがずっと惹かれている西暦時代の素晴らしさを、最後に俺も感じてみたい」
「それは丁度良いね。キヨシ、君の筆記を見せてあげてくれ。マユも、未だ見てなかっただろう?」
 突然指名されたキヨシは、柔らかい笑みを浮かべながら机に向かう。彼の専門分野は筆記技術なのだろう。
「硝子ペンの良いところは、インクの色が自由に変えられるところです。君の瞳のような赤銅色。これで君の名前を書いてみましょう」
 紙の上を細いペン先が走る。整っているが、ディスプレイに浮かぶ文字とはまた違う味があるのは、やはり手書きならではのものなのだろう。
「朝陽。これは今、私が当てた漢字です。あなたの名前は美しい夜明けの太陽を意味する、素晴らしいものですよ」
 私は両親から、名前に当てる漢字も与えられていたが、アサヒは日本人風の音しか持っていない。初めて目にする、自分の名前を表す漢字を真剣に見つめていた。
「しかし、これは偶然か必然か。トーヤ殿と対照的で面白い。日本語、漢字は表意文字と言って、一つ一つに意味があるのですよ」
 そうして今度は濃い青、紺色のインクで、遠夜と書き記した。
「幼い頃に命名書なるものを見て以来だな。自分の名に漢字が当てられていることなんて、普段は全く気にしないからね」
「トーヤにも漢字が当てられていたのね。遠い夜。朝と夜で、本当に対照的だわ」
 日本語は本当に面白い。やっぱり私は、西暦時代の文化が好きだ。
「最後はあなたですね。その美しい濡れ羽色の髪。ちょうど二人の色を混ぜると」
 赤銅色と濃紺のインクが混ざり合った色は、陽の加減で僅かだが多彩な色を放つ、私の黒い髪によく似ていた。
「名は体を表す。面白いよね。君の名前は真ん中からすぱーんと、線対称なんだよ? 君の性格をそのまんま表している」
 いつの間にか背後に立っていたジルが、紙に記された真由という文字をなぞっていた。
「本当だ……気付かなかったわ」
「名前ひとつで、こんなにも面白いんだな。俺にもっと余裕があれば、マユが惹かれた過去の文化に、もっと触れてみたかった」
 静かに、アサヒが呟く。そして、彼はすっと身を引いた。
「もう充分だ。俺の記憶を抹消してくれ。他のみんなにそうしたように」
「彼女のことも、忘れてしまうよ?」
「勿論、わかっている」
 ドクター・フジワラの記憶を消したと聞いたときにはもう、気付いていた。彼の記憶だけ消して、子どもたちの記憶が消されないわけはないと。トモエやツムギは聡いから、眠りにつく前、説明されずとも、それに気付いていたのかもしれない。
 不穏な分子を新しい世界に持ち込むわけにはいかないと、頭では理解できているつもりだった。でも、やはりみんなに忘れられてしまうのは寂しい。
 俯いて、三つ並んだ名前を見つめる。
「彼女は、君の人生を構成する重要な因子となっている。その数奇な運命と、マユに関する記憶は複雑に絡み合っていて、引き剥がすことは難しい。君の出自と、彼女に関する記憶は両方まとめて抹消する他ないだろう。他の子どもたちも、自分の名前以外の記憶はほぼ全部、消してしまったからね」
 事務的で淡々とした説明が、余計に辛さを煽る。
「マユ、そんな顔をするな」
 はっと顔を上げると、困ったように笑うアサヒがいた。
「一度忘れてしまっても、必ず俺は、またマユに恋をするだろう」
 今、一番辛いのはアサヒのはずなのに。最後まで私を気遣い、一途な想いを伝えてくれた。思い残すことはもう無いような、すっきりとした顔で、彼は立ち上がる。
「俺を、皆のところに連れて行ってくれ。……彼女のことを、頼む」
「言われなくとも、当然だよ」
 そうしてジルに連れられたアサヒは、共に生まれた仲間たちと共に、一足先に眠りについた。