ドクター・フジワラが地面に崩れ落ちる。残された子どもたちは、自分たちが今後何をすればいいのかわからない様子で、ただそこに立ち尽くしていた。
「遺伝子レベルで洗脳されている、可哀想な子どもたち。彼らは完全に被害者だ」
「彼に投与したのは、鎮静剤か何か?」
 銀の刃物が腹部に刺さり、肩には穴が開いている状態でも平然とした顔で、ジルは私の問いを否定した。
「似ているようで、少し違うね。これは、コールドスリープにつく前に全員に投与する、睡眠薬のようなものかな。彼はチャイルドに着くまで、目覚めることはない」
「そう……」
 私には、コールドスリープについての専門的な知識はない。身体を低温状態に保ち、長い間、身体の時間を止めておくのだから、それなりに必要な前処置があるのだろう。
「ここまで自分の私利私欲で生命を弄んできたんだ。同意なしに眠らされても仕方ないんじゃないかな」
「あら? トーヤも私たちの会話を理解できたの?」
「俺もニシムラの姓を持つ、日系人の末裔だからね。そして化学の知識を持たず、言語や文化を持つ一般人の生まれだ。なんとなく聞き取ることぐらいは可能だよ」
 言語のように、科学とは関係のない知識は、ブレインよりも一般人の方がよく知っていることが多い。ヒナノは彼らを蔑んでいたけれど、新しい星に到着してからはむしろ、現在一般人として生活している者たちの方が適応能力が高い可能性は大いにあった。
「……マユ」
 拘束され、身体の自由を奪われたまま事の一部始終を静観していたヒナノが、ぼそりと私の名前を呼んだ。私たち三人が彼女を見ると、ヒナノは俯いたまま乞う。
「お願い。わたしも早く眠らせてちょうだい。お父さまのいない世界を、わたしはどう生きればいいのかわからない」
 いつまでも顔を上げないヒナノに、ジルがゆっくりと歩み寄る。
「君たちは何も悪くない。ただの被害者なんだよ? どんな形であれ、この世界に生を受けたのだから。その命の限り、必死で生きてほしい」
「それは全て、大人のわがままね。わたしたちはみんな、大人たちの勝手な都合で生まれ、自由に死ぬことすら許されない。現実は、本当に残酷だわ」
 ジルが左手に持つ銀色のケースの中には、小型の使い捨て注射器が数十本入っていた。そのうちの一つを取り出す。
「本当に、すまない。僕に出来る精一杯の救いは、これだけだ」
「期待なんて、とうの昔に忘れたわ」
 うなだれたまま、泣きそうな声で呟く。
「……おやすみなさい。わたしの愛した世界」
 眠りへの哀訴を受け、ジルは露わになっている頸に糸のような細い針を刺した。やがて意識を手放し崩れ落ちる身体を、しっかりと受け止める。
 何かから解放されたかのような表情で眠るヒナノは、やはり私と同い年で。まだ大人になりきれていないあどけなさが残っていた。
「他の子たちは、研究室の中で処置を受けてくれると助かる。ここで眠ってしまうと、僕たちが寝床まで運ばなければならないからね」
 ジルの声に、今まで立ち尽くしていたアベルの愛し子たちは顔を見合わせ、そしてゆっくりとこちらへやってくる。父と慕うドクター・フジワラがいなくなり、子どもたちの中でもリーダー的存在であったヒナノも眠りについた今、彼らもまた同じようにする他ないのだろう。
 ジルはドクター・フジワラを担いで建物の奥へ続く移動通路に乗る。ハオとシェンは、身動きの取れる数十人を手分けして誘導し、あとに続く。トーヤはヒナノを、私はシオリをそれぞれ背負い、集団の一番後ろに並んだ。
「トーヤ殿」
 今日初めて顔を合わせた、壮年の痩せた男性に呼び止められる。
「その子は私が運びましょう。トーヤ殿はあの男の子を頼めませぬか? お恥ずかしながら私には、彼を担ぐのは困難でしょう」
 あの男の子というのは、麻酔で気を失ったまま拘束されているアサヒのことだ。彼が言っているのは、トーヤが背負っているヒナノを彼が背負い、トーヤにはアサヒを任せたい旨の要求だった。そんな会話をだいぶ離れたところから聞いていたらしいジルが、大きな声で指示を出す。
「キヨシには女性を担ぐのも無謀だよ! 早くこっちに来て」
 やる気に満ちていたキヨシと呼ばれた男性は、申し訳なさそうにしながら先頭の集団を追いかけた。
「キヨシさんなりに気を遣ってくれたのはわかるが……、無謀だったな。それに、こちらは別に問題ないだろう。……なぁ? アサヒ。いい加減、寝たふりはやめたらどうなんだい?」
 地面に転がっているアサヒにトーヤが声をかけると、
「意識は、戻ってる。だが、身体の自由が、効かない。あとで、追いかける、から、」
 と、声を出すのがやっとといった感じで、切れ切れに答える。
「まぁ、君は逃げ出したりしないと信じているよ」
 アサヒは答えを返すことも辛いのか、ぐっと呻き声を出した。
 いつも使用している西暦時代を模した部屋とは少し離れたところに、この建物内で最も大きな部屋がある。元々は研究内容のプレゼンや会議などに使われていた部屋で、その収容人数は数十から百人ほどだ。私もこの部屋は一度父に軽く見せてもらったことがあるだけで、実際に立ち入るのは今日が初めてだった。
 先頭のジルが、厳重にロックされている扉を開く。そこには、まるで棺のような、人一人がちょうど入る大きさの長方形の箱が隙間なく並べられていた。素材は金属に見えるが、何の金属で作られているのかまでは見ただけではわからない。
「君たちも、本物を見るのは初めてだったね」
 私とトーヤは同時に頷く。研究所では先輩にあたるトーヤでも、見たことがないものなのか。
「眠っている間、君たちはこの中で過ごすんだよ。この箱が君たちの身体の時間を止めてくれる」
「つまり、前処置を受けた上でこの中に入り、密封することで、我々の身体はコールドスリープと呼ばれる状態になるんだね」
 ジルは頷いて、一番奥の箱にドクター・フジワラを横たわらせた。トーヤもそれに続き、隣の箱にヒナノを下ろす。
「シオリは?」
「何も知らないうちに眠ってしまった方が、彼女にとってはきっと幸せだろう。同じように下ろしてくれるかい?」
 ヒナノの隣にシオリを下ろすと、ジルはその細くて白い腕を手に取り、針を刺した。
「さて。君たちも、どこでも構わないから箱の中に入るんだ。大丈夫、みんな一緒なんだから。何も怖がることはないよ」
 その言葉に、彼らは素直に従う。その様子を黙って見守っていると、後ろから遠慮がちに声をかけられた。
「マユ」
「トモエ。それに、ツムギ……」
 二人は、数少ない女子生徒だった。学年こそ、それぞれが飛び級してバラバラになってしまったが、それでも今なお交流は続いている。
 今ここで会話を交わしていいものか。ジルの方を見ると、彼は柔らかく微笑んでくれる。
「どうしたの? やっぱり、怖い? それとも私たちが憎い?」
 私がそう尋ねると、二人は慌てて首を振った。
「産まれるときも一緒。眠るときも一緒。みんながいるから、怖くない」
 普段から無口なツムギは、それだけ言うと満足げな顔をした。トモエはしばらく言葉を選んでから、
「あたしも、ツムギも、シオリも、もちろんヒナノも。マユのことが嫌いなわけじゃないの。違う形で生まれていたら、違う形で出会っていたら。きっといい友達になれたと思うのに」
 と、震える声で言い、下を向く。目の奥がツーンと痛くなるのを我慢して、二人を両手で抱きしめる。
「私もみんなのことが大好きだったよ。そして、これからもずっと大好きだから。だから、ほんの少しの間だけ、お別れしよう」
 私の腕の中で二人は小さく頷くと、共に寝床へと向かい、並んでその中に横になった。その様子を見て、また目の奥やら鼻の奥やらが痛くなる。
「君に親しい同性の友人がいたとは。知らなかったな」
「偶然私が在籍する学年が、いつも女子一人だっただけよ」
 トーヤの軽口に救われる。私はここで涙を見せてはいけない。先に眠りにつく彼らを見届ける責務がある。
 キヨシという壮年の男性は、元々医学に従事していたらしく、ジルと二人、手分けして処置を施してゆく。並んだ箱に入った子どもたちは次々と眠りにつき、入り口から一番手前の箱だけが空っぽのまま残った。
 ここはカインの、ドクター・フジワラとアベルの愛し子たちのために、あらかじめ用意されていた場所なのだ。
「専用アンプルは、残り一つですな」
 広い部屋の中が静かな寝息で満たされ、ジルとキヨシが戻ってくる。
「専用アンプル……?」
「アベルの愛し子たち専用の、特別な薬剤です」
 そう言ってキヨシは、未使用のものが一つだけ残った箱を見せた。
「私の不甲斐なさ故に、先程の赤毛の青年は、あの場に残してきたのでしょうか?」
「こちらの人員数的にも、置いてくるしかなかったよね。キヨシは腰に持病があるんだから、無理しなくていいんだよ。彼は今から、元気な若者たちが回収しに戻るから」
 あの場を離れるときはまだ麻酔が効いていて、身動きが取れない様子だったが、今はどうなっているのかわからない。両手を後ろ手に拘束されていて、他の仲間は皆ここにいるのだから、一人逃げるということはまずないだろう。
「彼は先程、後で追いかける、などと言っておりました。この場所のことはご存知で??」
「……やってしまったね」
 そしてジルは私たちの方を見る。アサヒの分だけ余った寝床、余った注射器。ここまで用意されていながら、肝心の彼が、ここの場所を知らないなんて。
「私、行ってくるわ」
「俺も元気な若者だからね。共に行こう」
 移動通路の動きを無視して、再び私たちは外に向かって走り出す。他の人間よりも身体を鍛えているとはいえ、一日にこんなに身体を酷使したことはなかった。ふくらはぎが悲鳴をあげていても、今は止まるわけにはいかない。
 そして私たちが外に辿り着いたとき、麻酔薬で身動きが取れず倒れ込んでいたはずの赤毛頭は、どこにも見当たらなかった。