やっぱり翌日は正午を回るまで眠りこけていたけれど、しっかり眠ったお陰で頭は随分とすっきりした。うだうだ考えていてもどうにもならないのだ。目の前の事実を全て受け止めるしかない。
 簡素な総合栄養食とは違い、ブレインやカレッジの学生たちのために、エナジードリンクの類は豊富に開発されていた。炭酸が強いものを選んで一気に飲み干す。眠気も、僅かに残っていたモヤモヤも、全て飲み下してしまう。
「今日もここを使わせてもらうわよ」
 ノックもせずに扉を開けて放った第一声に、いつも通りデスクに向かっていたジルが微笑んで出迎えてくれる。
「昨日の様子からして、今日は来ないかと思ったけど。すっかり元通りだね。さすがだ」
「残念ながら、そんなにひ弱で可憐な女の子じゃないの」
 憎まれ口を叩いて、定位置のソファに腰掛ける。相変わらずこの建物は静かで人気がない。トーヤ以外のジル直属の研究員は、第九居住区に十名弱ほどしか居ないと聞く。最初にハオとシェンに会って以来、他の者には結局まだ会えていなかった。皆、何らかの特技があり、個々が日々そのスキルを高めている。
「ねぇ、ジル。あなたの直属の研究員以外に、ノアは多くの研究所を配下に置いているのよね?」
 だぼついた灰色の背中に問いかけると、ジルは椅子をくるりと回して身体ごとこちらに向ける。こういう風に、真面目な話をしたいと思っているときには、きちんとこちらに向き合ってくれるのがジルのいいところだ。
「そうだよ。でも、九区にはほとんどノアの手は及んでいない。だから、代表である僕がこうして赴いたというわけだ」
「じゃあ、他の居住区には沢山の研究員、仲間がいるのね」
 ジルはうなずいて悪戯っぽく笑う。
「僕らの仲間で、君も知ってる人を挙げるなら、航空宇宙工学で有名な、ヨハン・カールソン。宇宙生物学の第一人者、ルーカス・ブラウン」
「えっ?」
 それは、第一居住区と、第二居住区の筆頭ブレインの名前である。
「それから、地質学のミゲル・コスタ。環境化学のソフィア・モロゾフ。宇宙医学のイーチェン・リー」
 第三居住区、第四居住区に、第五居住区。ここまで聞くと、どんなに頭の回転が鈍い者でも気付いてしまう。きっと第六居住区、第七居住区の筆頭も、ジルの、ノアの傘下で。そして、
「パパが。植物生態学の第一人者であるミナト・ハヤセが、第八居住区の筆頭になったのは。……八区が、ノアの傘下になった証」
「大正解! ではそんな優等生のマユ・ハヤセに問題です。どうしてここ、九区だけ、ノアの計画に賛同をしないのでしょう?」
 わざとらしい言い方で問い掛けられる。第九居住区の筆頭ブレインは、遺伝子工学で有名なツカサ・フジワラという。遺伝子工学。つまり彼こそが、アベルの愛し子を生み出す計画を実行に移し、成功を治めて一躍有名に、かつ権力を得た人物である。
 アサヒには気をつけるんだ。絶対に気を許してはならない。
 母とトーヤにそう言われたのは、アサヒ達の生みの親であるような人物が、ノアの傘下に下ることに反対をしているから。やっと、頭の中の方程式が解けた。
「昨夜アサヒは、自分たちは選ばれし神の子だと言っていたけれど。それは何か関係があるのかしら」
 それを聞くや否や、ジルは立ち上がって私の両肩を掴む。
「あいつと会ったのか? 昨日の、それも、夜に?」
「そうよ? カレッジに入学した年が同じだから、学生寮の部屋も近いの。昨夜だって、普通にアサヒの方から会いに来たんだけど」
 ジルは額に手を当てた。もう少しきちんと話しておくべきだった、と、聞こえるように独り言を溢しながら。そして、私を再び見つめると、眉を顰めて白い手を伸ばす。
「……鎖が長いから服の中に入れてしまうとなかなか気づかないな」
 首筋にひんやりとした手の感覚がして、身体が跳ねる。
「これは、どういうこと?」
「ペンダントのこと?」
 服の中からするすると鎖を引き出し、その先端の紅い石をじっと見つめたまま、何秒か、何十秒か。かなりの時間が経過した。
「イミテーションじゃない、本物のガーネットか。珍しい」
「これ、アサヒが子どもの頃からずっと付けてたペンダントなの。もう自分には必要ないからって」
 何の意図があって、アサヒはこれを私に託したのだろう。ジルの見立て通り本物の宝石なら、それはとても貴重なものだ。自身で保管しておけばいいのに。
「ガーネットの石言葉は、友愛、真実、変わらぬ愛。彼はどんな意味を込めて君にこれを贈ったんだろうね」
「え? 石言葉?」
「或いは、自分自身の毛色と同じ色の宝石を贈る。その鎖を君の首に付ける。こっちが正解か?」
 ぶつぶつと独り言のように呟き続けるジルの言葉は半分聞き流し、私は引っ張り出され、今はジルの手の中にあるガーネットを眺める。本当に、アサヒの髪の色によく似た深い赤茶色をしていた。
「それで。昨日は告白されただけ? 他に何も、変なことはされてない?」
「うん。告白もはっきりと断ったわ。まだ、愛や恋はわからないって」
 ペンダントを手放さないまま、鎖を指でくるくると弄んでいるジルとはもちろん距離が近い。頬や首筋に金髪が触れるのがくすぐったくて、思わず身を捩って彼を見ると、長い睫毛が青い瞳に影を落としていて、怖いぐらい綺麗だった。
「本当に、何もされていない。でも……なんだか私も、いつかは恋ができそうな気がしたわ」
 手持ち無沙汰で、何の考えもなく金の髪に触れてみる。細くてなめらかなそれを、手指で優しく梳いてみたり、そっと撫でて遊ぶ。
「恋愛という概念は、私たちの中から消え去ったわけではないのよね。ただ、私たちは幼い頃からそう教育されてきただけ。だからきっと、いつか私も」
 手触りがとても良くて、いつまででも触っていたくなる。しかし、ジルは驚いたように目を見開いて、ゆっくりと離れていった。
「びっくりした。君は本当にあのマユだよね? 僕に接近されても、キスをされそうになっても、表情一つ変えなかったあの鈍感でポンコツな」
「そうよ? 今だって、あんなに顔を近づけられても、私、微動だにしなかったでしょう」
「やっぱり、そうだよねぇ」
 私自身の感情に、まだ変化はないと思うけれど、頭ではきちんと理解できたはず。そういう相手と出会えたなら、いずれ自然と恋愛感情が芽生えると、今ではそう思える。
「僕の頭を撫でるその手つきがとても優しくて。まるで恋人同士のようだと錯覚してしまいそうになったよ。でも、君の本質は変わってないんだな」
「そりゃ、一日で変わるわけないわよ。ノアとしても、別に今すぐに変わりなさいとは言わないでしょう?」
 ソファーに深く身体を預けると、両膝を抱えて小さく丸まった。ペンダントも再び服の中にしまい込む。
 人間の繁殖方法が神の創造した本来の方法に戻るといっても、私はまだ十七歳だ。子供を産めるタイムリミットまでは、十年以上の余裕がある。
「すっかり話が逸れてしまったね。十五年前に決まった例の政策。結婚及び妊娠出産が撤廃。それから、人工子宮の導入。この政策を推し進めたのが、ツカサ・フジワラを筆頭に据えた研究所の集まり。通称、アベルと呼ばれているね」
 アベル。恋愛を否定した組織に在りながら、アサヒは私に恋をした。だから告白を断ったとき、これでいいと言ったのだ。諦めて、ただひたすらに自分の道を進むことができる。
「アベルの考えは恋愛の撤廃。ノアの考えは恋愛の推奨。真逆よね」
 向かい側のソファーに座ると、いつものように長い袖口で口元を隠しながらジルは話す。
「そう。だから彼らは、僕たちに賛同をしない。それどころか、僕たちのことをカインと呼ぶ。それは殺人犯、そして初めて嘘をついた人間であり、アベルの兄の名前だよ」
「もしかして、アベルとノアは、考え方が真逆どころか、……敵対している?」
「これだけ安直な呼び名をつけられると、さすがに誰でもわかっちゃうよねぇ」
 あっさり肯定すると、突然何かを思い出したかのように表情が変わる。不機嫌、とは言わないが、何を考えているのかわからない、無表情。さて、とため息を一つ。ジルはすぐに端末で音声通話を繋ぐと、短い命令を出した。
「トーヤ、建物内にいるんだろう? 今すぐ部屋においで」
 大人しくソファーに身体を預けてぼんやりと考える。アサヒを生み出した研究所は、私たちの敵。つまり、アサヒは私の前に敵として立ちはだかることになるのだろうか。
「一体何の用事かな? 用件も告げず」
 ぼーっと考えているうちに、呼びつけられたトーヤがやってくる。
「僕は君を叱らなければならない。アベルの子どもたちと彼女が接触しないようにしてくれと頼んでいたはずだよね、トーヤ?」
 咄嗟にトーヤの頬が引き攣って、険しい目で私を見る。
「昨日は確かに家まで送り届けたよ。その後に、一体何が?」
 私が答えるより早く、ジルが寄ってきて首筋に触れた。少し襟元を開くと、咄嗟にトーヤが顔を背ける。
「は? 何をしているのかな? 仮にも彼女は年頃の女性だよ?」
「はいはい。残念ながら君が想像したようなことは起こっていないからね。ほら、これだよ」
 頬から耳にかけて朱色に染まった顔がこちらを向く。私の襟は元に戻され、銀の鎖だけが少し引き出されていた。
「鎖?」
「そう。君も見覚えがあるんじゃないかと思ってね」
 そう言ってするすると鎖が引かれ、先端の紅い石が白い手に収まる。
「この色……、あいつが常に身に付けていたペンダントだね。これが、どうしてここに?」
「昨日、学生寮の部屋に来て、ずっと私のことが好きだったって告白されて。そしてこれを、私の首につけたの。もう必要ないからって」
「……へぇ、なるほど」
 事の顛末を簡単に伝えると、トーヤは眉を寄せ、明らかな仏頂面になった。
「鎖を首に付けるなんて、悪趣味だ」
「まったく、僕も同意見だよ。悪趣味極まりないよね」
 そうしてジルが鎖を両手で掴んだかと思うと、ぶちっという鈍い音が静かな部屋に響いた。
「色味でわかっていたけれど、サージカルステンレス、医療用金属はさすがに硬いな。マユ、首に痛みはない?」
 私は何が起きたかわからず、言葉を返せなかった。ジルは手にしたそれを目の前のテーブルに置く。
「別に思い入れはないんだろう? それとも、アサヒ君からもらって、嬉しかった?」
 鎖を引きちぎられるとは思ってもみなかった。アサヒの大切なもの、そして貴重なものをそんな風に扱われ、怒りが沸く。それでも私が怒れなかったのは、目の前の二人が私以上に怒りを露わにしていたからだった。
「アサヒには気をつけろと言っただろう? まさかそんな時間にホイホイと男を家に上げるとは、思いもしなかったよ」
 言わなければわからないと思っていたのに、こんな形で露呈して責められることになるとは。
「しかも自分の色の装飾具を贈るなんて、こんなわかりやすいマーキングをされて気がつかないなんて」
「トーヤ、それは君が言えるセリフじゃあないよね? 彼女の白衣の胸ポケット。そこが定位置になっている万年筆の色は、君が好む濃紺」
 ジルの挑発的な言葉に、乗るようなトーヤではないが、耳に髪をかけている方の露わになったこめかみが、ぴくぴくと震えていた。
 そもそも、私は理由も知らされず、幼い頃からずっと共にいた幼馴染の名を挙げられて、彼に気をつけろと言われただけだ。それだけでも私としては、とてもショッキングな事だったのに。
 私はそんなに責められなければならないのだろうか。夜に、異性を部屋に上げて、二人きりで過ごす。何も考えたことはなかったけれど、やはりそれは、特別なことなのだろうか。
「結果から考えよう。トーヤ。僕は君に、彼女からカインを遠ざけるよう頼んだよね?」
「……ああ」
「そして、彼女にアベルやその愛し子たちのことをきちんと説明していなかった僕にも非がある」
 デスクに向かうと、ジルは大きなディスプレイを浮かび上がらせて、そこにかつての世界地図を表示した。
「あなたたちが非常識だと考える時間に突然来訪してきたアサヒ。そしてその時間に室内に招き入れた私。そして理由を何も教えてくれなかったあなたたち。全員が有責よ」
 しばらくはされるがまま、言われるがままでいた私であったが、いい加減このやり取りが嫌になり、いつもより低い声で言い捨てた。
 ジルも、これ以上の言い争いは不毛だと悟ったのだろう。
「彼女の言う通り、みんなに非があるということで、誰かを責めるのはやめにしようか。今日は君たちに、九区が置かれている状況をきちんと把握してもらおうと思う」
 そう言って、端末を一度タップした。昔の世界地図の上に、第一から第九までの居住区の場所が記される。そこにはそれぞれ円グラフが記されていた。
「第一区は、青一色。二区も同様だ」
 一目で、それが勢力図であることがわかった。一つ一つ説明をするジルだが、それまでの会話の内容から、青がノアで赤がアベルだと容易に想像できる。
「その他の居住区はほとんどが赤だが僅かに青色もある。八区は青が優勢だけど、赤色も多い。そして九区に限っては、赤が優勢」
「最近になって青が、ノアが優勢になったから、第八区の筆頭ブレインが変わったのよね」
 しかし、第九居住区を除くその他の居住区と比べて第八居住区は赤色の勢力が強い。筆頭となった父と、それを支える母は矢面に立たされているのではないかと心配になる。
「八区と九区は物理的に近いからね。赤色の、アベルの力も大きいんだよ」
「しかし、ドクター・フジワラは、どうしてそこまで地球に固執するのか、一度本人に聞いてみたいものだね」
 トーヤの言葉に、ジルはうーんと大袈裟に考える素振りを見せた。
「十年ほど前に直接会って聞いてみたことはあるんだけど……、根本的な考え方が違うから、これはもう仕方がないんだと思う。あ、もちろん、彼は僕をノアのジルとは知らずに答えていたよ。一区の生徒に扮して近づいたからね」
 十九歳の外見から歳をとることのない、その不老不死の身体が成せる技だ。見た目では到底、権力と実歴のあるブレインには見えない。まさかこの青年が、多くの研究室を束ねるような存在であるとは、実際に本人から告げられてもすぐに信じることは難しいだろう。
「生命を、人類を生み、育んできた地球を、彼らは捨てられないんだよ。壊れた地球を再生させるために尽力するという選択肢こそが正義だと思っているんだよね。ほんと、狂っているとしか思えない」
「あなたも大概狂ってるけれどね」
 トーヤにそんなことを言われても、ジルは全く気にしない様子で、
「僕が狂っているのは認めるよ。そんなの今に始まったことじゃない。こんな壮大な計画を百年もかけてじわじわと進めてきたんだ。とっくにどこかおかしくなってるに決まってる」
 とあっさり認めた上で、真面目な顔つきになって言った。
「狂っていてもね。生命を、人類を、生かすことのできなくなった地球を捨てることが悪だとは、僕は思わないよ。人間として、あるべき姿を取り戻したいと願うことの何がおかしいんだい?」
 ジルの言うように、ノアの考えは何もおかしくないと思う。そして私には、ドクター・フジワラ率いるカインの考えも、間違っているとは思えなかった。
 どちらも間違っていないのならば、人類はどちらかを切り捨てて、どちらかを選ばなければならない。
「昨日アサヒが言っていた、自分たちアベルの愛し子たちは、選ばれし神の子だっていうのは、どういうことなの?」
「そこが一番、アベルの、ドクター・フジワラの狂気を感じる点なんだよ。彼は、」
 ジルが事の核心に触れようとしたとき、大きな警告音と共に、ディスプレイに大きくワーニングメッセージが点滅した。ジルとトーヤがほぼ同時に振り返り駆け出すと、テーブルの上に置いたままにされてあったペンダントを床に投げつける。
「くそっ。まさかあいつにしてやられるとはね」
 そして常に磨き上げられている革靴でその装飾具を思い切り踏み潰した。
「メインシステムがハッキングされている。そしてそのペンダントはおそらく僕たちの居場所を探るためのもの」
「そんな。アサヒが私にそのペンダントを託したのは」
「アサヒ君がそれを知っていたかはわからない。だからその件は取り敢えず保留だ。トーヤは、この建物に立ち入る者が現れないよう見張ってきてほしい」
 私のことが好きだと言いながら、己の色をしたそれを託したアサヒに、そんな思惑があるようには見えなかった。でも、それも演技だったのかもしれない。
「私も行くわ。力ずくでも構わないならね」
 ジルが苦笑いするのを見て、私とトーヤは頷く。同時に部屋を飛び出して、本来歩く必要のない移動通路の上を走った。