左の小脇には数冊の本。長く伸びた髪が鬱陶しく、雑に払ってからその扉を無造作に開け放つ。
「ジルコニア!」
「おや。君にその名前を教えた記憶はないんだけどな」
 デスク前の椅子に座り、モニターに複雑な計算式を打ち出して眺めていたジルが振り返る。
 とりあえず部屋の真ん中のテーブルに本を置き、後頭部の高いところで髪を一つに括りながらそのモニターを覗き込んだ。
「……何これ」
「君にはわからないかぁ。ミナトがまだ若い頃には、惜しいところまで行ったんだけどね。まぁその頃よりも断然複雑になってるし、仕方のないことだ」
 そう言って、彼はモニターを消した。いつもそう、私がこの部屋にやってくると、ジルは自分の仕事を終わらせて、私に構う。今日はそれがとてもありがたい。
「今日はあなたに聞きたいことがある。ジルは、パパやママといつ出会ったの?」
 引力に任せて雑にソファーに腰を下ろすと、ぼふんと埃が舞い上がる。ジルはまるで猫のように目を細めながら笑っていた。
「今日は随分と荒れてるだね。……昨日のトーヤとのデートで、何かあった?」
「へ? デート? あれが? 二人で医療センターに行っただけなのに?」
「昔は年頃の男女が二人で出歩くことをデートと呼んでいたんだけどね。まぁ、あの堅物と二人の外出よりも、今のシチュエーションの方が余程、逢瀬らしいかな」
 立ち上がってこちらに向かって歩いてくると思えば、私が身構える前に、片手は後頭部に、もう片方の手は顎に添えられ、息が掛かるほどの近さまで詰められた。
 この格好は、以前に本で読んだ記憶がある。恋愛小説なんかでは、主人公がときめくお決まりの展開だ。
 目の前の顔は、本当に綺麗に整っていて、金色の睫毛は驚くほど長い。セラミックのような肌には毛穴一つ見当たらず、まさにそれはよく出来た西洋人形のようだった。
「前にも言ったけど、君には恋を理解してもらわなければならないんだよ。文学に長けた君なら、自然とそういう感情に目覚めてもおかしくないと思っていたんだけどねぇ」
 私が散々読み漁った文学作品に、恋愛がテーマとなっているものは多い。でも、どれだけ沢山読んでも、主人公を自分に置き換えてみても、それがどんな感情なのかわからないのだ。
「で、この体勢は何? キスでもするつもり?」
 本の中の主人公たちは、ここで頬を赤く染めてみたり、受け入れるため同じように相手の顔に触れてみたりと、様々な行動を取っていた。意図的に赤面することは出来ないため、取り敢えず手を伸ばし、その白い頬に触れてみる。
「これは積極的だね」
 同意、と取られたのならばそれでいい。彼の行動が何を意図してかはわからないけれど、キスなんて所詮は、
「ただ唇同士が触れるだけの行為でしょう? 手が触れるのと何が違うの?」
「また、そういうことを言う」
 瞳を真っ直ぐに見つめたままでいると、私がジルの頬へと伸ばした手を掴まれた。動脈を押さえているのか、ドクン、ドクンとゆっくり刻む自身の鼓動を感じる。
「うーん。この前も思ったけれど。これは予想以上に重症だ」
 途端、パッと柔らかな拘束が解かれた。
「君が日系人だから、西欧系の僕ではダメなんだろうか? でも、ここまで反応がまるでないのは想定外すぎる」
 テーブルを挟んで向かい側のソファーに腰を下ろしながら、袖で口元を隠してぶつぶつと呟いている。
「何なのよ、一体」
「君には本当に、恋愛という概念がないんだなぁ、と思ってね。僕があんなに近づいても、君の心拍は全く上昇しなかった」
「だから、最初からそう言ってるじゃない」
 私が答えても、尚もジルは何やら呟いていた。
「顔面にだけは自信があったんだけどな。学生の頃なんて、これでも女の子たちに囲まれて、キャーキャー言われていたんだよ?」
 真剣な面持ちでそう言うジルに、私も真面目な顔で問い返した。
「ねぇ、それ、いつの時代の話? 今からどれだけ昔のことを話しているの?」
「あー……、西暦の終わり頃の話だね」
 自ら話を振っておいて、答えないわけにはいかないと思ったのか。ジルは歯切れ悪く答える。
「ジル。私はあなたのことが知りたい。じゃないと恋も始まらないわ」
「恋をするには、お互いを知ることが大切、か。今の君にしては及第点だ。気乗りはしないけど、ご褒美に君の質問に答えることにしよう」
 こんな私が恋なんてできる気も、する気もしない。しかし、今はこれでいい。知りたい情報が手に入るのならば、私の取った行動は最適解なのだから。
 話をする前に、ちょっと待って。と部屋を出て行ったジルは、いつもだいたいトーヤが運んできてくれるティーセットを自ら持ってきた。
「長くなると思うからね。それに息も詰まるような話だ。なるべくリラックスして、僕の話に感情が引きずられないように、ね」
 そう言いながら、目の前に紅茶のカップと、マカロンが二つ置かれた。
「久しぶりだろう? ネムの作ったマカロンだ。君にはこれ二つぐらいがちょうど良い」
 手に取って少し齧ると、口の中いっぱいに甘味が広がった。やはり、水で流し込むだけのパサパサしたブロックとは全く違う。
 しかし今は久しぶりの喜びを噛み締めているわけにはいかない。
「ねぇ、ジル。いいえ、ジルコニア。あなたは一体いつから生きてるの?」
 答えを急く私に対し、ジルは紅茶を一口啜ってから、ゆっくりと口を開いた。
「僕がこの世に生を受けたのは、エデン・ロストが起きた年よりも更に、二十二年前。まさに西暦の終わり。今から数えると、百五十九年前になる」
「西暦時代を……知っているのね……」
 私が勝手に想像していたよりもずっと前から、彼は生きいていた。その事実に驚きと感動を隠せない。
「そう。知っているからこそ、取り戻したいんだよ。僕が眠っている間に起こったエデン・ロスト。それを僕は絶対に許さない」
 偶然か故意か。ジルと出会った日に、私が彼に言ったものと同じ台詞だった。でも、言葉の重みが全く違う。
「僕は当時で言う北欧の生まれで、両親からもらった名はアルマースという」
 昨日トーヤが言っていた。ジルコニアというのは、彼がコールドスリープから目覚めた後に名乗るようになった呼称であると。
「そして十九のとき、当時の医学では手の施しようがない不治の病にかかり、倒れたんだ。それはエデン・ロストの三年前だった」
 三年前ということは、ちょうど戦争が始まるかどうか、といった時期である。ジルは、アルマースは、少なくともそれまでは平穏に西暦時代を生きていた。
「自分の余命が僅かだと聞かされたとき、僕はそのとき丁度研究の最終段階にあった、コールドスリープの被験者に名乗り出たんだ。もちろん、当時は命懸けで、無事に起きられる保証はなかった。……それでも僕は、死にたくなかったんだ」
 いや、違うな。と独り言のように言い捨てると、自重するかのように言い直す。
「僕はとびきりの怖がりで、寂しがり屋だったから、死ぬことがとにかく怖かった」
「誰だって、死ぬのは怖いわ」
 私が聞いたせいで、ジルに辛いことを思い出させ、口にさせている。話の内容からそう思ったのだが、目の前の彼は案外何も感じていない様子で、淡々と続ける。
「そして僕が目覚めたのは、世界歴三十一年。眠りについてから約三十年の月日が流れていた。その時には既に、家族も、友人も、そして世界も。何もかもが無くなっていた」
 まさか目が覚めたときにそんな世界になっているなんて、誰が想像できる? と、紅茶をまた一口啜りながら問いかけられた。
「でもラッキーなことに、僕にコールドスリープの処置を施した医師は、奇跡的に生き延びていた。だから僕は、目覚めることができたんだ」
「世界歴三十一年。コールドスリープの完成ね」
「そう、コールドスリープは無事に完成した。しかし」
 そこで言葉を一度区切ると、首を横に傾けて彼は笑う。
「僕の病の治療法は、確立されていなかった」
「え?」
 どうしてこの人は、こんな風に微笑みながら、辛いはずの思い出を語れるのだろうか。逆に怖くなってくる。
「じゃあ、ジルは、アルマースは、今どうしてここでこうして生きているの……」
「彼は言ったんだ。病の治療法はないけれど、君を救うことはできる、と」
 グレーのパーカーの袖をぐっと捲り、目の前に骨張った手首が差し出される。
「触ってごらん。僕がさっき、君にしたように」
 それまでも、違和感は感じていた。鼻先が触れそうなぐらい近くに寄っても、呼吸を感じない。飲食も、おそらくは周りに合わせて水分を少し摂っているだけ。
 不老不死なんて、普通の身体を保ったまま出来るような医療技術が完成したとは、いまだ聞いたこともない。
 手首を取り、親指の腹で探る。そのなめらかな腕は仄かに温かかったが、私たちの身体が絶えず刻み続けているような鼓動を感じることは出来なかった。
 ジルは、人間ではない。しかしこの世界ではまだ、人型のロボットは実用化に至っていなかった。
「人間の肉体を限界まで利用した、サイボーグ? というのが一番近いのかな?」
 その瞳や髪、肌はまるで作り物のように美しく整っているけれど、触れて感じる限り、人工物ではなさそうだった。これらはジルが、アルマースが生まれながらに持っていたもの。その身体に科学技術を埋め込み、不老不死を保っているのだろう。
 私の予想は正解だったらしく、ジルは満足そうに頷いた。
「僕は、これで良かったと思ってる。だって、許せないだろう? こんな世界」
 手首を握ったままでいた私の手に、彼の手が蛇のように絡まる。親指から小指までそれぞれの指が互い違いになるように絡んで、強く握られる。
「許せない。許さない。こんな世界を。こんな世界にした愚かな世界を、僕は許さない」
 怒りと、悲しみと、絶望と。
 私が同じ立場だったなら、発狂していたかもしれない。想像するだけで全身が粟立つほどに恐ろしい。
「僕が目覚めた頃は既に、ブレインと一般市民が分かれていてね。ブレインたちは地下の世界を人間たちの新たな楽園にしようと必死になっていた。……でも、それは違うんだよ。みんな、エデン・ロストのせいで思考が麻痺していたんだ。だから、眠っていたからこそ正しい思考を持ったままでいられた僕が、皆を導かねばならなかった」
 いや、既に彼は狂っていた。
 狂気とも思えるような思想をもって、この壮大な計画を、百年以上もかけて成し遂げようとしているのだ。
「こんな紛い物の生を受けた僕は、それまでの人としての人生を捨てた。だから僕は、ダイヤモンドではなくジルコニアなんだよ」
「自分でそう名付けたの?」
 人工のダイヤモンドは、素人が見ただけではまず本物と区別がつかない。それほどに美しい宝石だ。
「そうだよ。アルマースはロシア語でダイヤモンドを意味する。元々僕は、アルと呼ばれていたからね。アルとジルで、韻を踏んでいて、意味合いもなかなか良いだろう?」
 自分自身を人工ダイヤだなんて。良いだろうと聞かれても何と返事をして良いのかわからない。
「まぁそんなわけで。統一試験やカレッジどころか、僕はこの世界に存在を認められていないところから始まったんだ」
 エデン・ロストをコールドスリープで生き延びていたアルマースは、この世界では既に死亡したこととなっていた。そして当然、ジルコニアという人物は、昔の日本国でいう戸籍のようなものには登録されるはずがない。
「初めこそ、僕を起こし、新しい生を与えてくれた研究所で、被験者として世話になりつつ、医学や保全生物学を学んだ。でもそれからは、もう実力で切り抜けるしかない」
 手の拘束を解かれる。すっかり冷めた紅茶を口に運ぶと、香りよりも苦い味が強く舌に残った。
「色んな研究室でお世話になったけど、調理だけは苦手だったなぁ。嗅覚は残っているけれど、食事を必要としないこの身体は味覚をほとんど残していないからね」
 無理に飲み干す必要はない、と、ジルは立ち上がってティーセットを片付ける。マカロンだけは残しては勿体無いと、私は慌てて口に詰め込んだ。
「君のそういうところ。若い頃のハルナにそっくりで、本当に可愛らしいな」
「え? ママに?」
 私の前ではそんな姿を見せたことはない。それ以前に、母に可愛らしいという言葉は全く似つかわしかはないと思う。実子の私から見ても、完全に格好良い方向に振り切れた女性なのだ。
「これでやっと最初の質問に戻ってきたね。僕が君の両親に出会ったのは、二十年と少し前。カレッジで同学年だった彼らが、同じ植物学の研究所に配属になった年。僕もそれまでに培ったコネを利用してその研究所に入った年と同じだったんだ」
「じゃあ同期になるんだ」
「そう。彼らには、第一区のカレッジを卒業してここに配属になった、と、しばらくの間偽って過ごしていたからね。年が近い仲間として、とても仲良くしてもらったよ」
 それでジルは、両親と仲が良いのか。十九才で時が止まっているジルの姿では、どれだけ頭の切れる父や母でも、普通に過ごす分には自分よりずっと年上だなんて思いもしないだろう。
「そして何年か経って。ハルナはミナトの子を身籠り君が生まれた。その頃にはミナトに僕の正体がバレていたね。でも、それでよかったんだ。意気投合した彼らには、かなり僕の計画に協力してもらったから」
 私が生まれた頃から、両親はジルの計画に協力している。……それはつまり、
「私がジルの研究所に入るのって」
「もうそのときから決まっていたんだよ」
「あのカレッジでの茶番は何だったのよ……」
 私は顔を手で覆って天井を仰いだ。知らないところで、生まれたときから、私の進路は決まっていたなんて。
 道理で父も、私が西暦時代のことに関心を持つことに賛同し続けたわけだ。
「あー……」
 行き場のない感情に、思わず呻く。ジルと二人きりの空間が嫌だ。これ以上のことを一人で受け止められる気がしない。
「休憩にしましょ。頭が、胸がパンクする」
 私は自分から無理矢理にそのパンドラの箱をこじ開けておきかながら。思いの外たくさん溢れ出して手に負えなくなったモノたちを、再びその中に、ぎゅうぎゅうに詰め込んで蓋をした。

 ジルは自分の机に戻ると、何件もメッセージを書いては送信し、そして私が見ても到底意味のわからない数式を眺めては訂正する、といった行動を繰り返していた。
 対する私はというと、持ってきた本を開いてはいるものの、頭に一切残らない。文字が頭の中をすり抜けてゆく。情景が脳裏に浮かび上がらないのだ。
 ため息をついて本を閉じる。ジルの話はそれほど衝撃的なものだった。
「内緒にされるより、全てを知った方が良かったんだろう?」
 振り向いたジルの問いに対する答えはイエスだが、自分の中で整理がつくにはもう少し時間が必要だった。
 そうしていると唐突に、扉を勢いよく開け放つ音が響く。
「メッセージ、既読にはなったけど返事がないなと思っていたら」
 ジルの声は呑気で、トーヤは何故かとても焦っているように見えた。
「これでも一応、大切な幼馴染だからね」
「最初はただの元同級生と言っていた気がするんだけどなぁ」
 そんな軽口を無視して、突然現れたトーヤは私の元へ近づき、手を取って立ち上がらせた。
 そのときにふわりと慣れ親しんだ匂いを感じて、私は衝動的にその身体に抱きつく。規則的で早く脈打つ鼓動を感じることが出来、酷く安心する。
「えっ? マユ?」
 トーヤのうろたえる声が聞こえるけれど、そんなものは完全に無視をして、その胸にぐりぐりと顔を押し付ける。温かく、生きている証を感じて、私の心は次第に落ち着きを取り戻していった。
「前々から薄々気付いていたけどね。トーヤ」
「俺は彼女の調子が良くないから迎えにくる旨のメッセージを君から受けて、ここに来た。昔から身体だけは馬鹿みたいに丈夫だったんだ。調子が悪いなんて聞くと、心配するのが当たり前だろう」
「トーヤの行動は何もおかしくないよ。でも、君の顔面は真っ赤だ」
 そんなに慌てて走ってきたのかな? それとも。と続けるジルの言葉を遮るように、私の身体を引き剥がす。
「マユ? 一体何があったんだ? 身体の具合は?」
 見上げると確かにジルの言う通り、トーヤの顔は紅潮していた。いつも涼しい顔をしている彼の、こんな表情は見たことがない。
「ジルの、昔の話を一通り聞いて、ちょっと受け止めるのがしんどくなっただけ。ごめん、心配かけて」
 ジルが私の様子を見かねてトーヤを呼んでくれたのだろう。トーヤに悪いことをしてしまったと思い、謝る。
「全く知らない者が、彼の凄惨な生い立ちを一度に聞いたら……、辛いだろうね。君は自分のことには無頓着だが、人に対する思いやりには溢れていることだし。謝る必要はない」
 その凄惨な生い立ちを話し合えた当の本人が、相も変わらず飄々としている。鋼の精神力の持ち主なのか、もしくは感情が欠落でもしていなければ、こんな風にはなかなか振る舞えない。
「聞かれるがままに答えただけなんだけど、やはり少しは感情が引き摺られてしまう話だよね」
「でも、知ることができてよかった。こっちこそ、辛いことを思い出させてごめんなさい」
 トーヤに支えられたまま、ジルに謝る。しかし彼は何も感じてない様子でいつもと変わらない綺麗な微笑みを浮かべた。
「僕は何も感じないから、平気だよ。でも君は、今日はもうおかえり。トーヤも折角迎えに来てくれたことだしね」
 そう言ってジルはトーヤを見る。トーヤはその視線に深く頷いて、私の手を取った。
「さぁ、帰るよ」
 もうほとんどいつもと同じぐらいまで落ち着いていて、手を繋ぐ必要はないと伝えようとしたのだが、思いの外それは強く力が込められていて、拒否をすることも躊躇われた。そのまま、大人しくトーヤに手を引かれて扉に向かう。
「ジル。……ありがとう、また来るわ」
「いつでもおいで。待っているから」
 柔和な微笑みは人形のように綺麗だったが、それが返って怖さを感じさせた。