バスが走っているのは獣道らしく、大きな石を踏んではガタガタと激しく車体を揺らしている。隣にいる静流は顔を青くしていた。
そういえばそうだったな、と懐かしくなった。あれは確か、小学4年生の時のことだ。校外授業か何かのために、私たちのクラスは水族館に向かっていた。そのバスの中でも、静流は車酔いに苦しんでいたっけ。
私の手を握りしめたまま、バスの窓に頭を預けた静流。色素の薄い髪がくしゃりと乱れていたことはよく覚えている。静流の珍しく弱った姿に絆されてしまったのか、手を離す気にはなれなかった。
あの頃と同じように、私たちの手は繋がっている。いつの間に手を握られたのだろうか。自分の鈍感さに呆れたため息が溢れる。吐かれては困るから、静流に水の入ったペットボトルを手渡した。
「酔い止め飲まなかったんだね」
「…副作用で眠くなるのがヤダ」
「気分悪いまま鑑賞する気?今からでも飲みなよ」
「ヤダ」
「座ってじっとしてる時間のほうが長いんでしょ?ちょっとは寝れるって」
「寝たくない」
「…静流」
「最初から最後まで、お前と見たいんだよ。分かるだろ」
静流は自分の見せ方を熟知しているからタチが悪い。
私はそっぽを向くことで密かな抵抗を試みた。でも、静流が顔を覗き込んできたのでそれも叶わなかった。
静流の瞳が目の前にある。
それは少しだけ茶色くて、黒が透けているみたいだ。彼の心を映し出す、みずみずしい瞳だった。
静流の冷たい唇が触れてきた。瞳の中の私は驚いた顔をしていた。
チュッと音を立てたあと離れていく。静流の顔は、まだ青い。
「吐く前で良かった」
ゲロ味とか最悪だもんな。そう無邪気に笑う静流に、昔からずっと敵わないままだ。
✴︎
私たちを乗せたバスは針葉樹に囲まれた広場で停車した。広い芝生の上に三角の形をしたテントが転々と配置されていて、各々が暖色の光を放っている。
足を踏み入れたテントの中は、薪ストーブのおかげでとても暖かくて、寒さで強張った体がじわじわと溶かされていく。
参加者たちは皆、テーブルの上に用意された紙コップを手に取り、粉末のココアや紅茶をコップに流し入れたあと、用意されていたポットのお湯を注いでいる。
私と静流はコーヒーを選んだ。喉を通って胃の中に収まったコーヒーが体の内側から温めてくれた。
「最期に思い出す食事ってさ、人生で1番美味かったもんじゃなくて、この粉末コーヒーだったりするかもな」
紙コップを尖った八重歯で甘噛みする静流のことを、頭のおかしな男だと常々思っているのに、その口から放たれる言葉全部、記憶に焼き付いてしまうのはどうしてだろう。
ガイドさんが鑑賞中の注意事項を話し始めると、テントの中央に人が集まっていく。
ここは異国の地なので、使われている言語は英語だ。私は英語が得意じゃないので、ほとんどを静流に任せるしかない。でも、全部を任せるわけにはいかないから、必死に耳を傾けた。
そんな私を揶揄うように、骨張った指が私の指を絡めとる。顔を上げればにやにやと笑う静流がいた。
「英語わかんないのに、一生懸命聞いてんの?」
「そうだよ。静流はちゃんと聞いてる?」
「聞いてたけど光がかわいくて集中できない」
どうやら静流は車酔いから復活し始めているらしい。
肩に回された腕に引き寄せられた。頭のてっぺんに唇を寄せてくるから、調子に乗るなと、静流の手を抓る。
その時だった。参加者の1人の女性と目が合ったのは。バスに乗る前の光景を思い出し、思わず身構えてしまう。
けれど、その予想は裏切られた。女性は私たちを穏やかな笑みを浮かべていて、私たちを見守っているようだった。
それだけで泣きそうになる私は、まだ覚悟を決めきれていないのだと思う。