◇
高校生になって半年が過ぎた。それでもまだ夏の名残を感じさせるのは、この暑さのせい。
僕、牧野日和の休み時間の過ごし方は、本を読むことだった。親しい友達もいなかった僕にとって、本を読む以外のことが思いつかなかったからだ。
中学の頃は、勉強ばかりしていたせいで周りから『なんでそんな勉強に必死なの』『ガリ勉』って言われたこともあった。
けれど、僕が望んで勉強をしていたわけじゃないし、必死だったわけでもない。
ほんとは、もっとみんなみたいに放課後友達と遊んだり、好きな人ができてどきどきする感情を知ってみたりしたかった。
きっと、僕はたくさんの知らないことがある。
それは、両親に勉強をして人よりもいい大学に入りなさいと小さい頃から言い聞かされてきたせいだ。両親共に教師だからこそいつも厳しくて、テストで赤点など許されず、遊ぶことだって、お菓子を食べることだって、何もかも禁止されてきた。
親が薦めた偏差値の高い高校を言われるがまま受験したが、努力の甲斐も虚しく不合格の通知。
それを見て親は、僕に呆れたのか何も言わなくなった。干渉されなくなったといえば聞こえはいいが、それはある意味親に期待をされなくなったことと同じ意味だった。
けれど、僕は思った。
〝これで自由になれる〟
そう思って、高校ではできなかったことを全てやりたいと思った。青春といえるものを経験してみたかった。
けれど、勉強しかしてこなかった僕の対人スキルはかなり低くて、遊ぶどころかクラスメイトとはあいさつ程度だ。おまけに周りから僕は、あまり認知されていないようで、まるで僕は透明人間。
この世界に僕は、必要ないのではないかとさえ思って、憂鬱になりかける日々。
けれど、そんな僕にも唯一救いがある。
「小春ちゃん、今日パンケーキ食べに行かない?」
ある日の休み時間、教室の中央で彼女を取り囲む男女の群れの声が響いた。
その中心にいたのは、クラスメイトの水戸小春。背中まで伸びるさらっさらな黒髪は天使の輪を作り、とびきりの笑顔を浮かべる彼女はいつも明るくて可愛くて。彼女は、マドンナ的存在。
救いとは、彼女の笑顔を見ることだ。
「ごめんっ、今日は先約があって……!」
パチンッと僕のところまで聞こえてくる音は、水戸さんが両手を叩いた音。
「ほんとはみんなと一緒に食べに行きたいんだけど……でもっ、今日はどーしても外せない用事があって」
僕は、いつも一人だ。クラスメイトともほとんど会話をしたことがない。もちろん水戸さんとも。
「今度は絶対一緒に行くから、また誘ってくれると嬉しいなぁ」
彼女がひとつ笑顔を見せると、
「仕方ないなぁ、じゃあまた誘うから次は絶対に行こうね?」
みんな納得して、誰も怒る人なんていなかった。
「うん、約束ね」
断られているのに、みんな笑顔だ。
まるでそれは、魔法のように。
彼女の笑顔ひとつでクラスメイトは笑顔になる。
「もーっ、小春ちゃん大好き!」
クラスメイトみんながわいわいと明るくて。
どうやったらあんなに人を笑顔にできるんだろう。和ませることができるんだろう。
憂鬱な毎日が水戸さんの笑顔のおかげで、少しだけ色がつく。
「牧野いるかー?」
広げた本を放置したまま水戸さんを眺めていると、突然僕の名前を呼ぶ声がする。視線を移動させると、そこにいたのは担任の先生。
「お、いた。ちょっと今いいか?」
そう尋ねながら手招きをする先生。
僕は、開いたままの本を閉じて席を立つ。
誰ひとり、僕のことなど気にも留めない。
「悪いが今から手伝ってほしいことがあるんだがいいか?」
みんなの視線は、水戸さんへ集まっているのだ。
「あ……はい、大丈夫です」
誰も僕へ興味を示さない。
誰も僕を必要としてくれない。
──まるで僕は、透明人間。
そう思うと、この世界に必要のない人間のように思えてならない。
「小春ちゃんってほんとに可愛い!」
教室から出るとき、一度顔を後ろへ向けた。
そこには、眩しいくらいの笑顔があった。
笑うと陽だまりのように、または満開の桜が咲いたように。心の奥底まで、深く深く照らしてくれるその笑顔に、僕はいつだって救われている。
そんなこと、きみは知らない。
僕の存在だって気づいていないだろう。
だって僕たちの住む世界は、こんなにも遠いのだから。
***
「……ちょっとコンビニ行って来る」
家の中は冷え切っていた。僕が、受験に失敗してからだ。母さんは、ちら、と一瞬僕を見たあと何もしゃべらずにまた視線を戻した。
〝勝手にしなさい〟
まるでそんなに言われたようだ。
「はあ……息がつまるなぁ……」
家の中に居場所がないからこそ、こうやって何かと理由をつけて外に逃げるのだ。
べつにコンビニに用があるわけじゃない。が、何も買わず手ぶらで帰るのは嘘だとすぐにバレる。だから仕方なく、ミネラルウォーターだけ買って店を出た。
「このまま帰るのはちょっとなぁ……」
真っ直ぐ帰るところを少し遠回りする。普段歩かない道に景色に、少し心がわくわくした。
しばらく歩くと、小さな公園が見えた。
アスレチックなんてものはなくて、懐かしさのある公園。おもむろに足を踏み入れると、女の子がひとりベンチに座り込んでいた。
──ズズッ……
そんな音と共に、顔に手を当てる女の子。
……もしかして泣いてる?
なにか悲しいことがあったのかな。僕に気づいてないってことはよっぽど悲しいんだろうな。
僕が、ここにいたら邪魔だよね。
踵を返して来た道を戻ろうと思った。が、やっぱり泣いている子を放置したまま立ち去ることはできなくて。
「──あのっ……だ、大丈夫ですか?」
ベンチに駆け寄って声をかけた。
すると、「……へ」くぐもった声を漏らしながら、恐る恐る顔を上げた女の子。
「……あれ、きみは……」
視線がぶつかった女の子を見て、僕は動揺した。
なぜならば、目の前にいた子は。
「……水戸さん」
僕のクラスメイトの人気者だったのだから。
「……牧野くん?」
きょとんとしながら、少し震える声で名前を呼んだ。
ベンチに座って僕を見上げる。泣いているから瞳も赤く、鼻先も赤く染まっていて。
「あっ、えっと……」
まさかのクラスメイトに、人気者である彼女が泣いていた二つの出来事が重なって、言葉はうまく出てこない。
いつも明るくて笑顔だった水戸さんが、今は一人で泣いている。
「ご、ごめん……見るつもりは、なかったんだけど……」
どうしてこんな人気のない場所で泣いてるんだろう。
すごく理由が気になる。
けれど、聞かない方がいい。
それ以上に、もしかしたら泣いてる姿を見られたくなかったのかもしれない。
「あのっ、これよかったら……!」
ついさっき買ったばかりのミネラルウォーターを水戸さんの前にずいっと突きつけると、「え」と困惑しながら目をぱちくりさせる水戸さん。
「邪魔してごめん。えっと、あの……僕、これで帰るから、それじゃあ……」
口早に告げたあと、逃げるようにその場をあとにした。
◇
昨日は、逃げてしまった。
たいしてしゃべったこともないクラスメイトからミネラルウォーターを押しつけられて水戸さん迷惑だったんじゃないかな。
あのあと、どんな表情だったんだろう。
振り向かなかったから分からないけれど、ムッとしてなかったかな……いや、水戸さんがそんな表情をする人とは思えない。
「牧野くん」
いや、そもそも水戸さんが僕にしゃべりかけることなんてないだろうし。僕が、同じクラスだと気づいているかすら曖昧だ。
この人誰なんて思いながら困ってたかな。
あー、そうだったらショックだなぁ……
「牧野くん?」
いやいや、そもそも知ってるはずないよね。僕、目立たないし。ていうか、みんなに認知すらされてないし、入学してしゃべったのなんて入学式のあとの自己紹介くらい。
「まーきーのーくんっ!」
突然、盛大な声が目の前から聞こえてきてハッとした僕は、「ぅわっ!」声を張り上げて顔を上げた。
すると、そこにいたのは……
「みみみみ、水戸さん……?!」
人気者の彼女だった。
「やっと気づいてくれたね。三回も呼んだんだよ」
えっ……三回? 僕のことを呼んでた? ……全然気づかなかった。考え事してたからかな。
「ご、ごめん……」
とりあえず謝っておこう。
「ううん、大丈夫」
今日も相変わらず笑顔の水戸さんを見て、心がほっこりする。が、突き刺すような視線が四方八方から向けられて居心地が悪い。
一ミリも顔を動かせない。周りの視線が怖すぎる。誰とも目を合わせたくない。
こそこそと聞こえる僕に対する嫌味的な言葉。〝なんであいつが〟〝牧野のくせして〟過敏になる耳は、器用にその数々の言葉を拾い上げる。
「そ、それより、僕に……用ですか」
僕から声をかけたわけじゃないのに僕が責められるような雰囲気に、なんて理不尽な世界なんだとうんざりする。
「うん、ちょっと昨日のことで」
控えめに声を落としたあと、照れくさそうに微笑んで、
「今、少しだけ時間あるかなぁ」
〝昨日〟のことで急速に手繰り寄せられる記憶は、ひとつしかなくて。
知らないとシラを切ることができなかった僕は。
「は、はい……」
二つ返事で返した。
それから移動してやって来たのは、校舎裏だった。
「いきなり呼びつけてごめんね」
まるで告白前のワンシーンのような言葉が飛び交って、動揺した僕は。
「い、いや、べつに……」
急速に口の中が乾いていく。そんな僕の鼓動はどきどきと全力疾走。
なぜならば、この学校は校舎裏が告白スポットだともっぱらの噂だ。
もちろん僕に限ってそんなことあるはずはない。それなのに、少しばかり期待している自分がいるのは、自意識過剰なのだろうか。
「えっとね、あのね」
そんな僕をよそに水戸さんは、目の前で少しだけ恥ずかしそうにもじもじするから、さらに僕の頭の中には〝告白〟のニ文字が浮かぶ。
「牧野くんを呼んだのは、ほかでもない昨日のことなんだけど」
けれど、そんな期待も虚しく彼女の口から現れた言葉はそれだった。
「え、あっ……」
その瞬間、勘違いだったと恥ずかしくなって頭の中の告白の文字を打ち消した。
「それでね、昨日のことなんだけど、誰にも言わないでほしいんだ」
僕から少し目を逸らし、恥ずかしそうに指遊びをしながら。
「高校生にもなって泣いてたってみんなに知られちゃったら、恥ずかしいから」
黙っていた僕に、さらに言葉を続けた水戸さん。
「……そ、それは構わないけど」
彼女がそんなふうに思うなんて少し意外だ。
「ほんと? よかったぁ。ありがとう牧野くん」
安堵したように微笑んだ、水戸さん。
そんな彼女が今、僕の名前を呼んだ。今だけじゃない。さっきだって、教室で呼ばれた。
「……僕の名前、知ってるんだ」
知らないかと思ってたのに。
「知ってるもなにも牧野くん、クラスメイトだもん。牧野日和くん、でしょ?」
──なんだこれ。水戸さんに、僕の名前を。しかもフルネームで覚えてもらえていたことがこんなに嬉しいのか、胸が熱くなる。
「牧野くん、休み時間によく本読んでるよね。難しそうな本。私の斜め後ろの席だから、知ってるよ」
僕が困惑して固まっていると、会話はさらさらと流れてゆく。まるで川の水のようにあとからどんどん押し寄せる。
「え、ああ……よく知ってるね」
──知っててもらえるってこんなに嬉しいものなのか。
「私、人のこと覚えるの得意なの。たとえ小さなことでも覚えていたらそこからキッカケになって仲良くなれるかもだし」
じゃあ僕の名前を知っていたのも納得だ。
「そ、そっか……」
照れくさくなって、そっぽを向いた。
近くで見る水戸さんは、すごく可愛くて、笑うと少し幼くなる目尻とか、明るさとか、頭に鮮明に焼きつく。
泣いていた昨日の顔とは、まるで別人。
「あの、さ……」
聞いてもいいのか分からなかった。
けれど、あんなに人目も気にせずに泣いていた水戸さんが何を抱えているのか。
「昨日はどうして泣いてたの?」
いつも陽だまりのように明るい水戸さんが、ひとりであんな場所で、泣いていたのか。
涙を流す理由を知れたら、もしかしたら力になれるかもしれない、と。そんな小さな期待をしていたのかもしれない。
「あー……それは……」
けれど、ピクリと動揺した水戸さん。
その笑顔は、笑顔が引き攣ったような表情で。
言いにくそうに「えっと、あの」と視線を左右に移動させるから。聞かなかった方がよかったのかなと不安になった僕は。
「ごめん、言いにくいなら……」
パッと目を逸らして、話を打ち切ろうと思った。
すると、
「飼ってたわんちゃん……が亡くなったの」
小さな声に、弱々しくなる水戸さんの声が聞こえてきた。
「ずっと一緒だったから……思い出しちゃったら悲しくなっちゃって。高校生にもなって泣いちゃうなんて恥ずかしいね……」
──ずっと一緒だった犬。それはもはや家族同然だよな。そうだったんだ。そんなことがあったなんて、知らずに聞いて。
「ご、ごめん」
身勝手な知りたい欲が先走り、悲しいことを思い出させてしまった。
「う、ううん、大丈夫」
気を使わせてしまった。
僕は、なんて最低なんだろう。
それから水戸さんと別れて、彼女より先に教室に戻ると、複数名に囲まれた。
目の前に並ぶ顔ぶれは、いつも水戸さんと親しげに話す男女数名。そして『何を話した』のか尋ねられた。けれど、水戸さんは誰にも言わないでと僕に口止めをした。その約束を僕は破るつもりはなくて、何もないの一点張りで逃げ切ったのだった。