「母さん、ごめんね。あんなに、僕以上に頑張ってくれたのに、結局、僕は病気に勝てなかった」

 僕以上に僕の体を気遣って、病院を探したり、食事について調べたり。なんとかして元気になれるよう、少しでも長く生きられるよう、ずっと手を尽くしてくれた人。

 絶望で泣きわめく僕を、一緒に泣きながらその手で抱きしめてくれた。

『大丈夫だから。きっと良くなるから』

 子供の頃から、おまじないのように何度も聞いてきた言葉。僕はそれで励まされたし、母自身も自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 僕はその望みを壊してしまったね。

 たくさん苦労を掛けて、ごめん。

 先に死んで、ごめん。

 両親を残して死ぬなんて、僕はひどい親不幸者だな。

 本当なら、たくさん親孝行したかった。いつか年老いた母さんの世話をして、最期にあなたの手を取って見送るのは、僕でありたかった。

「タローくん、病気だったの?」

 遺体の足元にひざまずき、アンジェが憐れむように〈僕〉を見下ろす。

「うん。子供の頃からいろいろあって、何度か入院してたから、長生きできないかもしれないとは思っていたけど、終わってみると本当にあっけない人生だった」

「人の寿命はいろいろだよ。老人だけじゃない。生まれたばかりの子供だって死ぬんだから」

「そうだな」

 彼女からそんな悟ったようなセリフを聞くとは思わなかった。そう言うアンジェだって、僕よりも若く見える。

 世界中で、様々な理由で、僕より若い人も死んでいく。

 年寄りも子供も、善人も悪人も関係ない。

 死は、理不尽で、容赦なく平等だ。

 ある日突然、なんの心構えも別れの挨拶もできずに死んでしまうことも、遺体が残らないことだってある。子供の頃、同じ小児病棟にいた子供たちが、いつの間にか姿を消していたことも覚えている。

 あの子たちにくらべたら、僕はまあまあ生きたほうだ。こうして家族に看取られて、幸せだった。

 だから、良かったよな、〈僕〉。

 まだ茫然としながら、自分の葬式を冷静に見ている自分もいた。僕はもうこの世界の存在ではないのだと、心のどこかで自覚している。

 昨日まで生きていた〈僕〉と、ここにいる幽霊の僕とでは、同じでありながら違うのだと。

 父さんと弟の英司は、座る暇もなく動いていた。

 いつも家のことは母さんに任せっきりの父さんだけど、今は頼りがいのある家長に見える。英司のほうはもとより、不甲斐ない兄などよりよほどしっかりしているから、心配はしていない。

 ふいに、英司がこちらに歩いてきた。母さんに二言三言話しかけて、また離れていく。

 すれ違いざま、

「英司、母さんと父さんを頼むよ」

 そう声を掛けたが、当然ながらスルーされる。

 弟には、兄らしいことをなにもしてやれなかった。子供の頃から、病弱な兄のせいで我慢を強いてきた上に、僕の分まで息子の役目を背負わせてしまったな。

 それに父さん。いつ頃からか、面と向かって話すことがなんだか気恥ずかしくて、ここ数年はあまり話していなかった。口下手な人だけれど、僕をここまで支えてくれた。

 みんなに、思っていたことをもっと伝えればよかった。

 僕がどれだけ家族に感謝していたか。そして、どれだけ大切に思っていたかを。

 気持ちは言葉にしなければ伝わらない。伝えられなくなって初めて、そんな簡単なことに気づいた。

 言い残したこと。やり残したこと。

 決して長くはなかった僕の人生には、後悔しかないのだろうか。

「タローくん、名残惜しいならここに残るといいよ。死後にどう過ごすかは人それぞれだから。家族と一緒にいたいでしょ?」

 僕を気遣うようにアンジェがそう言ってくれる。

 名残惜しいことは確かだった。けれど、ここに残りたいかと問われて、僕は頷くことはできなかった。

 懐かしい我が家。病床で伏していたときには、あれほど強く戻りたいと願っていたのに、今はひどく居心地が悪い。

 自分の葬儀に参加することも、僕の存在に気付かない家族の中にいることも。

 自分が死んでいるということを、嫌というほど思い知らされるからか。

 ここはもう、僕の居場所ではないのだと。

「いや、もういいよ。家族の顔を見たくなったらまた来る」

「それができればいいけど」

「どういう意味?」

「幽霊でいられる時間は、人によって違うの。タローくんがいつ消えるかは、あたしにもタローくん自身にもわからないってこと」

「わからないって……こうしているあいだにも、消えるかもしれないってことか?」

「うん。人によっては一日も経たないうちに消えるよ。なにが理由かはよくわからない。本人の気持ちの問題なのかな」

 アンジェは物憂げに視線を落とした。

 消えるって、成仏するってことなのか?

 つまり、家族に会えるのはこれが最後になるかもしれないということ。

 消えるまで家族の傍にいるのも悪くないんじゃない? と、アンジェが聞いた。

 どうせ、僕には他に行くあてもない。生身ではないのだし、衣食住の心配などないだろうが、ふらふらとこの世を彷徨いたくもなかった。

 だけど……。

「行こう、アンジェ」

 立ち上がると、アンジェがきょとんとして僕を見た。

「家族とのお別れはもういいの?」

「いいんだ。それは、僕の一方的なものでしかないから」

 両親にとっても弟にとっても、僕との別れは既に済んでいるのだ。そして、僕がここにいてできることはなにもない。

 彼らは、家族がひとり欠けた喪失感を引きずりながら、それでも、やがてそれぞれの日常を取り戻す。生きている人間は、そうやって生きていくものだから。

 そうでなくてはならないから。

 最後に、僕は改めて僕の葬儀を見つめた。

 それから、父さんと母さんに向かって深く深く頭を下げる。

 今まで、ありがとうございました。

 あなたたちの子供として生まれてきて、僕は本当に幸せでした。