どうりで、あんなに辛かった体が楽なわけだ。近頃の僕は、自力で立つことさえできなかったというのに。
あれからどのくらい時間が経ったのかはわからないが、感覚としてはついさっきまで、僕は病院のベッドで寝ていた。重い体は腕を上げることさえ困難で、人口呼吸器の中で呼吸するのもやっとという状態で。
見えるのはただ、白く味気ない病院の天井。
薬のせいか、意識はぼんやりとしていた。微睡みのように、現実と夢のあいだを行ったり来たりしながら。
死んだ瞬間のことは覚えていない。毎晩、人が眠りに落ちるときの瞬間をはっきりと覚えていないのと同じだ。
死は永遠の眠りというけれど、そのふたつは良く似ていた。違うのは、ふたたび目覚めるかどうかということだけ。
僕は、あれきり生きて目を覚ますことはなかったのだ。
「やっぱりこれは、いまわの際で僕が見ている悪夢じゃないのか?」
「現実だよ。認めたくないのはわかるけど。それとも、目が覚めたらまだ死にかけてるほうが良かった?」
「嫌な言い方するなよ。こっちは死んだばっかりなんだぞ」
死んだことは理解した。これが夢ではないことも。けれど、今の状況を受け入れるのはまた別の話だ。
死んで幽霊になっただと?
実際にそうなっているのに、まだ信じることができない。
「死んだ直後は、みんな戸惑うよ。まさか自分が死ぬなんて、幽霊になるなんて思わないもの」
そうだよな。入院中はずっと帰宅したいと願っていたけど、こんな形で家に帰ることになるとは思ってもみなかった。
家の中には、家族以外の人の姿もある。近くに住んでいる叔父と叔母、それに、黒スーツの見知らぬ男性は葬儀屋か。
会話の端々から、僕は今朝方に死んだことを知った。その後、病院から自宅に運んでくれたらしい。
厳かで非日常的な空気が家中に漂っていた。綺麗に整えられた室内で、みんな僕のためにわざわざ集まってくれている。
思い返せば、僕が主役のイベントなんて、生まれて初めてのことじゃないのか。それが自分の葬式というのはあまりに切なすぎるけれど。
父さんと二歳下の弟は、お茶を出したり電話に出たりと忙しそうに動いている。こんなときいつも率先して動くはずの母さんは、〈僕〉の遺体を見つめたまま、肩を落として座っていた。
僕は母さんの前に膝をつき、その顔を見つめた。
泣きはらしたように真っ赤な瞳、化粧していてもわかるくらい荒れた肌。
こんなふうに、母親の顔をちゃんと見るなんてどのくらいぶりだろうか。
改めて見ると、とてもやつれた顔をしていた。小皺や白髪のせいで、実年齢よりも老けて見える。
この人に一番苦労を掛けたのは、父さんでも弟でもなく僕だ。
ややこしい免疫系の病気を持って生まれたおかげで、子供の頃から入退院を繰り返していた。
生まれたときにはあまり長くは生きられないだろうと言われていたのが、成長するにつれて多少は体力がついてきたせいか、ここ数年はずいぶん調子が良かった。大量の薬や定期的な検診を除けば、ほぼ普通の生活を送れるくらいに。
医学も進歩しているし、もしかしたらこの先も問題なく生きられるかもしれない。
そんな希望を抱いていた矢先、ごまかすように生きてきた僕の体は、とうとう限界を迎えた。自分がもう長くはないことを、僕は医師よりも早く悟った。
幼少の頃から、死は常に僕のそばにあった。
だから、同年代の他の人間よりもその覚悟はできていたと思う。たぶん家族にとっても。
だけど、いくら覚悟があったとしても、なにも感じないわけじゃない。
膝の上で重ねている母さんの手に、手を添えた。けれど、それは擦り抜けて、僕の手にはなんの感触も残らない。
目の前にいながら、母さんの目はもう僕を映さない。
僕の声は、母さんには届かない。
幽霊になるというのは、こういうことなのか。
あれからどのくらい時間が経ったのかはわからないが、感覚としてはついさっきまで、僕は病院のベッドで寝ていた。重い体は腕を上げることさえ困難で、人口呼吸器の中で呼吸するのもやっとという状態で。
見えるのはただ、白く味気ない病院の天井。
薬のせいか、意識はぼんやりとしていた。微睡みのように、現実と夢のあいだを行ったり来たりしながら。
死んだ瞬間のことは覚えていない。毎晩、人が眠りに落ちるときの瞬間をはっきりと覚えていないのと同じだ。
死は永遠の眠りというけれど、そのふたつは良く似ていた。違うのは、ふたたび目覚めるかどうかということだけ。
僕は、あれきり生きて目を覚ますことはなかったのだ。
「やっぱりこれは、いまわの際で僕が見ている悪夢じゃないのか?」
「現実だよ。認めたくないのはわかるけど。それとも、目が覚めたらまだ死にかけてるほうが良かった?」
「嫌な言い方するなよ。こっちは死んだばっかりなんだぞ」
死んだことは理解した。これが夢ではないことも。けれど、今の状況を受け入れるのはまた別の話だ。
死んで幽霊になっただと?
実際にそうなっているのに、まだ信じることができない。
「死んだ直後は、みんな戸惑うよ。まさか自分が死ぬなんて、幽霊になるなんて思わないもの」
そうだよな。入院中はずっと帰宅したいと願っていたけど、こんな形で家に帰ることになるとは思ってもみなかった。
家の中には、家族以外の人の姿もある。近くに住んでいる叔父と叔母、それに、黒スーツの見知らぬ男性は葬儀屋か。
会話の端々から、僕は今朝方に死んだことを知った。その後、病院から自宅に運んでくれたらしい。
厳かで非日常的な空気が家中に漂っていた。綺麗に整えられた室内で、みんな僕のためにわざわざ集まってくれている。
思い返せば、僕が主役のイベントなんて、生まれて初めてのことじゃないのか。それが自分の葬式というのはあまりに切なすぎるけれど。
父さんと二歳下の弟は、お茶を出したり電話に出たりと忙しそうに動いている。こんなときいつも率先して動くはずの母さんは、〈僕〉の遺体を見つめたまま、肩を落として座っていた。
僕は母さんの前に膝をつき、その顔を見つめた。
泣きはらしたように真っ赤な瞳、化粧していてもわかるくらい荒れた肌。
こんなふうに、母親の顔をちゃんと見るなんてどのくらいぶりだろうか。
改めて見ると、とてもやつれた顔をしていた。小皺や白髪のせいで、実年齢よりも老けて見える。
この人に一番苦労を掛けたのは、父さんでも弟でもなく僕だ。
ややこしい免疫系の病気を持って生まれたおかげで、子供の頃から入退院を繰り返していた。
生まれたときにはあまり長くは生きられないだろうと言われていたのが、成長するにつれて多少は体力がついてきたせいか、ここ数年はずいぶん調子が良かった。大量の薬や定期的な検診を除けば、ほぼ普通の生活を送れるくらいに。
医学も進歩しているし、もしかしたらこの先も問題なく生きられるかもしれない。
そんな希望を抱いていた矢先、ごまかすように生きてきた僕の体は、とうとう限界を迎えた。自分がもう長くはないことを、僕は医師よりも早く悟った。
幼少の頃から、死は常に僕のそばにあった。
だから、同年代の他の人間よりもその覚悟はできていたと思う。たぶん家族にとっても。
だけど、いくら覚悟があったとしても、なにも感じないわけじゃない。
膝の上で重ねている母さんの手に、手を添えた。けれど、それは擦り抜けて、僕の手にはなんの感触も残らない。
目の前にいながら、母さんの目はもう僕を映さない。
僕の声は、母さんには届かない。
幽霊になるというのは、こういうことなのか。